救世主など“いない”


「さて、これからどうしたものかな」

ユニットバスの中で、ヨシュアはひとりごちる。
ユウがどう行動するか考えるように、ヨシュアもまたどう出るべきかを考えていた。

見たところ、ユウは他の死神と同様、これから渋谷に起こる異変に気付いていない。
そんな状態の下級死神に、渋谷の危機を語ったところで青天の霹靂だろう。
特にユウはつい数か月前に死神になったばかりの逸材だ。
時間をかければ、おのずと自分の持って生まれた能力を開花させる日が来るだろう。
少なくとも今のユウに現状をぶちまけたところでいたずらに困惑させる結果になることは、日の目を見るより明らかだ。
どう考えても得策ではない。

そして一番の問題は、佐倉ユウは生前の問題を解決できていない。
今はヨシュアや八代卯月や狩谷拘輝に懐いており、自分より上の立場の者についていこうと切磋琢磨している。
切磋琢磨するのは良いことだ。

だけれど、ユウの必死の努力が、自分の課題から目をそらすための手段になっている。
先日ノイズの精製方法を教えた時から、ヨシュアはそう感じ取っていた。
ならばまずは、ヨシュアの抱える苦悩よりも、ユウ自身の抱える問題を直視させるよう誘導するのが、教育者としてのあり方だろう。

ヨシュアはそう結論付けて、浅い風呂から窮屈そうに身を起こした。
「それにしても、この手の風呂場は使いにくいな」

もしも渋谷の存続が確定できた暁には、下級死神の寮をもう少しグレードアップさせよう。
ヨシュアは独り、そう思う。






「おまたせ」といつも通りの軽やかな口調で、ヨシュアさんが居間にやってきた。
肩にタオルを巻いたジャージ姿のヨシュアさんは、いつもと出で立ちが違うけれど、さっきの思いつめた表情から考えられないぐらい、にこにこ笑っている。

ただ、私にはそれが本心から笑っているようには見えない気がした。

淹れたての紅茶をカップにそそいでヨシュアさんの前に置くと、
「ありがとう」と手慣れた仕草で紅茶を煽る。
さっきまで死人のような顔色をしていたとは思えないくらい、いつもどおりのヨシュアさんだ。

これから私は、ヨシュアさんの力になるために、問いたださなければならない。
まだ死神になったばかりの私に、できることなんてそれこそ限られているだろうけど、もしも力になれるなら、私は助力を惜しまない。
決意を胸に、ヨシュアさんがカップをソーサーの上に戻すと同時に口を開く。
「ヨシュアさん」
「うん?」
「あの、さっきのことだけど」
「さっきのこと?」
「さっき、キャットストリートで随分深刻な様子で立ってたから」
「ああ」

私に指摘されて、初めて気付きましたと言わんばかりに目を見開いて見せた。

しかしそれも一瞬。ヨシュアさんはまどろむように目を細める。
「渋谷の統治をしているんだから、深刻な案件の一つや二つはあるさ。それで、どうかしたのかい?」
「うん。その、ヨシュアさんが悩んでることはわかるし、私じゃ力になれないかもしれないけど……もし悩み事があるなら、話してほしい。話すことで見えることもあると思うから」

私が精一杯の勇気を振り絞って告げた一言を聞くや、ヨシュアさんは目を細めて笑った。
「『もし悩み事があるなら、話してほしい』か。ユウ、それは君に言いたいな」
「え?」
「ユウだって悩みがあるだろう?」


確信に満ちた声だった。
私の心臓や髪の毛先迄、何もかもをヨシュアさんの藍色の瞳に見透かされ、吟味されているような錯覚に陥る。
こんな風にヨシュアさんを怖いと感じたのは、初めてだった。

いや、初めてではないかもしれない。
キャットストリートのカフェで、私にサイキックを放とうとした時。
映画館を見た後の黄昏時のカフェでコンポーザーとしての顔を見せた時。
それこそ感じていたはずなのに。
私は、ヨシュアさんとの圧倒的な差に、気付かないふりをしたのだ。
せっかくヨシュアさんの一番近くにいられる立場になったのに、実際は離れた距離のあまりの遠さを自覚したくなかったから。
「な、何の話?」
「ユウは自覚していないのかな。それは残念だね。もしもわかっているのなら、君の感じる不安を、少しは和らげることができると思ったんだけど」
「ねえ、本当に何の話をしているの?」

慌ててヨシュアさんに問いかける。
心臓が脈打って耳がうるさい。

私の動揺をよそに、ヨシュアさんはカップを持ち上げ、紅茶を飲み干す。
空になったカップを音も立てずにソーサーに置くと、私を見据える。
「君はまず、自分自身のいる沼地から這い上がってこないといけない。まだ沼地を脱していない状態で、他人を救おうとしたら、より深い泥沼に引きずり込まれてしまうことになるよ」
「ぬまち……」
「もしかしてユウはUGに来て死神になったことで、RGで生きた君の人生が全て清算されたと思っているのかい? それは大きな誤解だよ。君は死神のゲームで生き残り、その報酬としてUGで第二の人生を歩むことになった。まだね、終わってないのさ。君の人生も、君の苦悩も」
「そんなこと、思って」
「だからね」

私の声を遮り、ヨシュアさんが嗤う。
「今まで君が感じたこと、見たこと、してきたこと、全部無駄じゃないんだ。大事にしてあげなきゃだめだよ。そろそろ君の内なる声に耳を傾ける時間だ」

いきなりそんなことを言われて、呆気にとられる。
呆然としている間にヨシュアさんは、何事もなかったかのように立ち上がり、部屋を出ていく。
「ユウが過去と和解できたら、顔を出すよ。それじゃ」

えっと思っている間に、無情にもドアが閉じる。
「っ!」
慌てて駆けだし、ヨシュアさんに追い縋ろうと玄関のドアを開け放ったが、もうヨシュアさんの姿はなかった。

もしかして、見捨てられた?
余計なことを言ったから?
ヨシュアさんの話を聞こうとしたら、逆に私の話にすり替えられた。
訳が分からない。

扉を閉じて暗い玄関を上がる。
焦りすぎていて、サンダルをつっかける余裕もなく裸足で飛びだしていた自分が恥ずかしい。
とぼとぼと短い廊下を渡る途中、ユニットバスの扉の桟に掛けられた仕立てのいいスーツが目に入った。

そういえば、あのジャージ姿のままヨシュアさんは戻っていった。
さっきまで着ていたびしょ濡れの衣類は洗濯機の中で回っているし、スーツだって生乾きのまま置いていったままだ。
私が和解できたらまた顔を出すと言った。
つまりそれまでは会うつもりはないということ?
「何が何だか……」

ずるずると床に身を投げ出して、途方に暮れるほかなかった。
だけど目の前に干されたスーツだけが、ヨシュアさんと私をつなぐ唯一のものであることがわかった。
それだけが唯一の救いだった。