感覚を研ぎ澄ませて

秋の雨は体の芯から冷えてしまうように冷たい。
こんな冷え切った天気の中、ずっと立ち尽くしていたヨシュアさんは、私以上に寒いだろうから、どこか──私の家で着替えて体を休めてもらおうと思って、「うちに来る?」と言ったのだけれど。

当のヨシュアさんは、ぽかんと口を開けて私の顔をまじまじと見つめてくるばかり。
意味が通じなかった? 言い方が軽すぎて、呆気にとられただけ?
そろそろ不安になって、声をかけようとした矢先、ヨシュアさんがやっと口を開いた。
「うち?」
「うん。道玄坂のそばに、実行部隊の寮があるんだよ。私の家なら他に人はいないし、大丈夫でしょ? 途中で着替えを買って──」

ようやく反応を返してくれたヨシュアさんに気を良くした私が、今日のプランを語ろうとした矢先、強い声でヨシュアさんが遮る。
「いいや、駄目だ。これ以上君に迷惑をかけるわけにはいかないだろ」

思わず俯いているヨシュアさんの顔を凝視する。
私と目を合わせないよう、ひたすら足元をにらみつけたまま、右手で口元を隠しているヨシュアさんの頑なさに戸惑ってしまう。

普段は穏やかな喋り方で飄々としているヨシュアさんは、ネガティブな感情を表に出すこと自体がなかった。
感情を無理矢理抑え込んだような声だし、口調まで荒くなっている。
「迷惑って……私が来てほしいから誘ってるのに。私は迷惑なんて思ってない」
「僕が君の家に赴く時点で迷惑だよ。ユウがわかっていないだけだ」
「さっきから迷惑迷惑って……、ヨシュアさんがうちに来ることで、私に迷惑がかかるの?」
「かかるさ。そもそもこうやって二人でいる時点で君に負担がかかっているよ」

思わぬ言葉に頭が混乱しそうになるが、ヨシュアさんが私を遠ざけようとしていることだけは理解できた。できてしまった。
じわりと涙が浮かぶ。
「ヨシュアさんはそんなに私と一緒にいるのが嫌なの? だから負担とか迷惑とか言って、私を避けようとしているの?」
「…………」

私の問いにヨシュアさんは答えない。
先ほどと同じ姿勢で黙りこくっている。

会話が途切れた時、激しく地面に叩き付けられる雨粒の音が耳に届いた。
ついに雨は本降りを迎えたらしく、一つの傘を二人で共有していては、雨をよけきれないほどのどしゃ降りになってしまっている。
ヨシュアさんの肩や私の背中が濡れていく。

さっきは思わず責めるような口調で問いかけてしまったけれど、そもそもヨシュアさんが距離を置きたがっている理由は逆みたいだ。
私はヨシュアさんを迷惑だとか負担だとか考えたことはない。
思い当たるのは、ヨシュアさんがコンポーザーである都合上、デートする機会が限られていることくらいだ。
そういう不便さもわかった上でお付き合いしているつもりだけど、どこかで不満を透けて見えるのだろうか。
「違うよね。ヨシュアさんが私にとって迷惑で負担になるから、距離を置こうとしてるんだね」

確認のために呟くと、ヨシュアさんは沈黙で返してきた。
「一緒に出掛けられる場所が少ないことを私が不満に思ってるように見えた? ごめんね、態度に出したつもりはなかったんだけど……」
「そうじゃない。そうじゃないよ、どうして君は本心を語ってくれないの? 今こうしている間だって辛いはずだ」

やるせなさそうに前髪を掻き上げるヨシュアさんは、執拗に目を合わせようとしてくれない。
『こうしている間だって辛いはず』という言葉がひっかかった。
会話がかみ合っていない。
ヨシュアさんと私の考える問題が、全く違うものなのかもしれない。

だったらお互いの考える問題点を、一緒に話し合っていった方がいいだろう。
こんな雨に打たれっぱなしの場所ではなく、屋内の暖かい場所で。
「ヨシュアさんが何か悩んでいるのはわかった。じゃあ今日は納得いくまで話し合おう。でも、こんなに雨が降ってる場所ではできないと思うんだ」

いったん言葉を区切り、すうっと息を吸い込む。
そしてどうあっても視線を合わせようとしないヨシュアさんの顔をしっかり見据えて、声を出す。
「選んで。すぐ後ろのカフェに戻るか。私の家に来るか」

ヨシュアさんはうつろな目を驚きで瞬かせ、体を少し震わせた。
「実を言うと、今日はヨシュアさんと出かけられる場所を探していたの。でも渋谷ってどこも混んでいるし、適当な場所を見つけられなかったから、どこかいい場所がないかマスターに相談するために来たんだ。もしヨシュアさんが私の上げた場所以外にいい所を知っているなら、教えて。すぐそこに行こうよ。このままだと本当に風邪を引いちゃう」

何かを言おうとヨシュアさんの唇が少し動いたけれど、雨音で声は届かなかった。
「どちらもイヤって言うなら、マスターを呼んできてもいいよ。多分中にいるんじゃないかな。お風呂はなくてもタオルくらいは貸してくれそうだし……」
「わかった」

まだ喋り続けようとした私を遮り、ヨシュアさんがやっと口を開いた。
「君の家にお邪魔させてもらうよ。これで文句はないでしょ?」
「……うん。ありがとう。無理言ってごめんね。とりあえずヨシュアさんの服を買ってくるよ。サイズを教えてもらっていい?」

紆余曲折はあったけれど、なんとかヨシュアさんを説得することができて、ようやくほっとすることができた。
ヨシュアさんに付き合って、カフェの入口で立ち往生するのも仕方ないと思ったけれど、さすがに大雨と言っていい天候の中、肌寒いのに上着も羽織らず屋外で濡れ続けるのはさすがに堪える。

固い表情のヨシュアさんを連れ立って、雨の渋谷を歩く。
途中で適当なお店を選んで、ヨシュアさんの着替えを買った。
ジャージのような部屋着でもよかったけれど、帰るときのことを考えて、ある程度外出にも向いた服をチョイスした。
ボーダーカットソーとジーンズ、それと『トウゲンキョウ』というジャケット。
なんでも特殊な素材を使っているため、トウゲンキョウを着れば、真冬でもさながら桃源郷にいるような極楽になれるらしいとは、ショップ店員さんの談だ。
下着類や靴下は近くのコンビニで適当に購入した。

キャットストリートから寮のある道玄坂はそこそこ距離があるので、ジャケットだけでも羽織ってもらおうと思ったけれど、「君だってそんな薄い服じゃ寒いでしょ」と、私に羽織らせようとしてきたため、結局ショップの袋の中だ。
確かに寒くないと言えばウソになるけれど、ヨシュアさんの方がぐっしょり濡れてしまって、寒いだろうに。

普段は饒舌なヨシュアさんが、沈み込んでしまっているので、沈黙が続いている。
元気づけようと私の方から話しかけても、ヨシュアさんは上の空で会話は雨に溶けて消えてしまう。

自分のふがいなさと重苦しい空気に、思わずため息が出そうになってしまうけれど、かろうじてこらえた。
今まで私たちがうまくやっていけているように思えたのは、ヨシュアさんがリードしてくれていたからだということを痛感する。
ヨシュアさんの調子が悪いだけで、キャットストリートから我が家へ向かう短い距離でさえ、ろくに会話をつなげられない。

RGに来る前、私が生きていた頃も、自分の無力さに落ち込んだことがあった。
当時仲が良かった友人が何かあって落ち込んでいることはわかっていた。わかっているのに、原因も対処法さえもわからず、ただ茫然と隣にいるだけの私。
落ち込んでいる友人に寄り添うことさえできなかった私が、深く沈み切っているヨシュアさんに、どうすれば力になれると言うのだろう。

ヨシュアさんの様子から見て、渋谷についてだとか難しい問題の気配がする。
つい数か月前にUGに来たばかりの私が、コンポーザーであるヨシュアさんの力になれるのだろうか。

どれだけ考えても答えは出ない。
ただ激しい雨音だけが、私たちを取り囲む。






十数分かけて豪雨の中、やっと自宅にたどりついた。
外に比べて少しだけ暖かい部屋の空気に、人心地がついた。
あれほどうるさかった雨音も少し遠くに聞こえる。
「タオルを持ってくるから、ここで待っててね」

玄関にヨシュアさんを待たせて、廊下を通って居間に向かう。
単身者向けの1Rマンションの玄関だから、薄暗い上に狭い。
私の靴が所狭しと置いてある玄関に、焦点の合わない目で雫を滴らせているヨシュアさんをあまり長居させたくない。

箪笥を開け、なるべく綺麗なバスタオルを二枚ほど取り出して、玄関にとんぼ返りする。
廊下に続くドアを開けたとき、玄関のヨシュアさんと視線がかち合った。

彼は初めて見る顔をしていた。
私を責めるでもなく、泣くでも怒るでもなく、静かだけれど、切実さをはらんだ瞳。
きっと今のヨシュアさんには、私の背後の部屋の様子や外から聞こえる雨音さえも、目に入っていないし、聞こえていないだろう。
そう思ってしまうほど、ヨシュアさんは私だけをまっすぐ見つめていた。

強い視線に思わず足を止めてしまったけれど、水滴がヨシュアさんの髪を滴るのを見て、我に返る。
まずはヨシュアさんにバスタオルを渡さないと。
「お待たせ。この間おろしたばかりだから綺麗だと思う。使って」

ヨシュアさんの方に歩み寄り、綺麗な方のバスタオルをヨシュアさんに渡すと、何故かヨシュアさんは私の頭を拭き始めた。
「ね、ねえ私の分のタオルはあるから、そっちは自分の体を拭くのに使ってよ」

と言ってもヨシュアさんはやめようとせず、黙々と私の体を拭いてくれているので、仕方がないので手に持っていたバスタオルでヨシュアさんの体を拭くことにした。
やはりヨシュアさんの体は想像以上に冷えてしまっている。
体を拭くよりも、お風呂に入って着替えてもらった方がいい。

あらかた体を拭き終えてから、お風呂をたてようと体を離した時、ヨシュアさんの腕が私の背中に回され、引き寄せられる。
「ヨ……」

こんな風に体が密着するようなことは、今までほとんどなかった。
手をつないで歩くことはあっても、キスどころかハグすら、梅雨のカフェで一度交わしたきりだった。
あの時のハグは紳士的で穏やかなものだったけれど、今は随分力がこもっていて、ヨシュアさんの色んな感情が腕を伝って染み込んでくるような気がして、戸惑ってしまう。
「ヨシュアさん?」

いつもと全く違う様子のヨシュアさんに声をかけるけれど、ヨシュアさんは私の首筋に顔をうずめたまま、身動き一つしなかった。
首筋を撫でるヨシュアさんの髪がくすぐったい。
ただ体をよじってしまうと、拒絶していると思われそうな気がして、そのまま待ち続けた。

「……ごめん」

しばらく経って、ぽつり、とヨシュアさんが呟く。
ゆっくりと身体を離し、気遣わしげな視線を私に向けながら、丁寧な手つきで私の体を拭き始めた。
「こんな雨の日にユウまで巻き込んで、雨に打たせちゃって」
「い、いいよ。私はあまり濡れてないから。それよりヨシュアさんは寒くないの? お風呂に入って、いったん着替えようよ」

いきなりヨシュアさんにハグされたり、至近距離で体に触れられている状況に思わずどぎまぎして、早口でまくしたてた。
私の慌てぶりにきょとんとしたヨシュアさんは、すぐにクスリと笑って見せる。
「そうだね。お言葉に甘えようかな」
「うん。お湯をためて入ってもいいから、ゆっくり休んでね。脱いだ服は入り口のかごに入れておいて」
「はいはい」

さっきまでとは打って変わった軽い口調で、ひらひらと手を振りながらヨシュアさんはお風呂場に入っていった。
変わりように呆気にとられていたけれど、やがて扉の向こうから水音が耳に入ると、ようやく我に返る。
せっかく買ったヨシュアさんの着替えを、渡していない。

我が家のお風呂はトイレとバスタブが一緒になっている、いわゆるユニットバスだ。
お風呂とトイレを仕切るシャワーカーテンがあるので、扉を開けたらいきなり裸のヨシュアさんと鉢合わせ、という事態にはならないだろう。
シャワーの音が途切れてから控えめにノックをすると、ほどなくヨシュアさんの、のんびりした声が返ってきた。
「なあに?」
「さっき着替えを渡しそびれちゃったから。入っていい?」
「どうぞ」

恐る恐るドアを開けると、顔に熱気がかかった。
煙に紛れて、やあとヨシュアさんがバスタブから顔を出していた。
幸運にも湯船にしっかり浸かっていてくれたおかげで、首から下は見えない。見えないけど。
「なんでカーテン閉めてないの!?」
「せっかくユウが着替えを持ってきてくれるっていうから、開けただけさ。大丈夫、さっきまではちゃんと閉めてたから」
「そういう問題じゃないでしょ! 今は見えないからいいけど、うっかり見えちゃったらどうするの」
「僕は見られても構わないよ」
「私が構うの!」
「はいはい、次は気を付けるよ。あ、そうだ。ユウ」
「うん」
「一緒に入る?」
「入りませんっ!」

反射的に大声を上げて、扉をぴしゃりと閉めた。
自分でも顔が火照っているとわかるほど、今の私はゆでだこのような顔をしているだろう。
ドアの向こうから、くすくす笑う声が響いている。

ヨシュアさんが元気になったのは嬉しいけど、さすがに恥ずかしすぎる。
「っくし!」

暖かい浴室から出た途端、くしゃみが出てしまった。
私も思いの外、体を冷やしてしまったみたいだ。
「君だって体が冷えているんじゃないか。今のうちに入ったら? 僕ならすぐ上がっておくからさ」
今度は本当に心配そうな声でヨシュアさんが扉越しに呼びかけてくる。
「大丈夫だから、気にしないで温まってて。着替えてきちゃうから、むしろそのままお風呂でゆっくりしてもらえると助かるんだけどな」
「ああ、なるほど。了解。僕は独り寂しく湯船に沈んでいるよ」

その一言を最後に、お風呂場からは水音が聞こえるだけになった。
ようやくヨシュアさんがお風呂に専念したことを確認してから、寝室兼居間に滑り込み、廊下につながるドアを閉める。
入り口のスイッチを押して、電灯をつけ、バスタオルを置いた。

まだお風呂に入ったばかりだから鉢合わせすることもないだろうけど、念のため手早くタオルで体を拭いてから着替える。
部屋着の中でもちょっとのお出かけもできるような、少しおしゃれなものを選んで袖を通した。

居間の隣にある台所に向かい、やかんを手に取る。
流しの水道を使って、やかんに水をそそぐ。
水の溜まっていく様子を何となしに見つめていると、自然にため息が漏れた。
「これからどうしよう」

濡れ鼠のヨシュアさんを、家に連れてきたまではよかった。
でもその後は?

ヨシュアさんの様子から仕事で何かトラブルがあったことは、なんとなく察しが付く。
そしてカフェのマスターが関係していることも。
マスターとヨシュアさんが具体的にどういう関係なのか、私は知らない。
そして実行部隊の私が、どこまで首を突っ込んでいいことなのかもわからない。

私が渋谷の事情を熟知している幹部か、頭の切れる人だったら、きっとヨシュアさんの力になれるだろうに。
無力な自分が歯がゆい。

それでも、少しだけでいい。ヨシュアさんの心労を少しでも癒せるなら、危ない橋を渡るなんて苦ではない。
聞くだけなら何も問題はないはずだ。
もし、私のような下級死神に漏らしてはいけないような話題なら、ヨシュアさんだってそう簡単に口を開きはしないはず。
ヨシュアさんの判断に任せよう。

でもその前に、まずはヨシュアさんをリラックスしてもらいたい。
そのためにもおいしいお茶を用意しよう。

蛇口を閉めて、水で満たされたやかんをコンロにかけるのだった。