かはたれどき

渋谷の街を、涼しい風が通り抜けて行った。
大通りの街路樹が、バサバサと音を立てて揺れる。
ちょうどカドイの前を歩いていた私にも、容赦なく風は吹きつけた。
薄着だった私は、二の腕をこする。
「寒い……」

今日はもう十月。
少し前まで残っていた暑さは、いつの間にか鳴りを潜めていて、夏の暑さが少し恋しい気もする。
そしてそんな時に限って、私は薄手の七分袖のカットソーを着ているせいで、少し寒い。
ジャケットを持ってくればよかった。

そして私が何をしているかといえば、ヨシュアさんと落ち着いていられる場所を探しているのだ。
カドイや渋急本店の中に、いい雰囲気のカフェがあったので、行けないかなと思ったけれど、建物に入ってしまうと、ステッカーの影響でRGに強制同調してしまうらしい。

コンポーザーのヨシュアさんは、体質のせいでRGに行くことができない。
渋谷にあるお店全てに、ステッカーが貼ってあるわけではないけれど、有名なお店には大体ステッカーが貼られているため、制限はかなり厳しい。

そして、ずっとヨシュアさんのことばかり考えていたけれど、自分のことを全く考えていなかったことに思い至る。
ステッカーの貼っていないカフェが運よく見つかったとして、ものすごく不自然な状況にならないだろうか。

UGから見ると、私とヨシュアさんふたりで入店しているのに、RGから見るとヨシュアさんはUGにいるので、入店するのは私ひとり。
店員さんからすれば、たった一人で入店してきた私が、誰も座っていない席に向かって、そこにさも人がいるかのように独り言を話す危ない人にしか見えない。

となると、ある程度混み合っていて、他人に気を払わないような場所がいいかもしれない。
宮下公園のランドマークにあるカフェのような場所が理想だけれど、なかなか候補が思い浮かばない。

サンシャインというバーガー店が、条件を満たしている。
比較的どの時間帯でもそこそこ混んでいるし、周囲に無関心なお客さんが多いと思うけれど、渋谷にあるサンシャインは大体どのお店もステッカーが貼られてあったはずだ。
センター街の中にあるサンシャインだけは、確か違ったと思うけれど。
とはいえ、せっかくヨシュアさんとデートするのに、毎回チープなファーストフードというのも、落ち着けないだろう。

いっそ私の家に呼ぶのもいいかもしれないけれど、いきなり何の理由もなく家に招くって、やっぱりおかしいだろうか。

私よりも渋谷に詳しいヨシュアさんと相談したい。
だけど、ヨシュアさんは絶賛『コンポーザー会議』に出席中だ。
渋谷川で会った日から、三日ほど経ったばかり。
予定通り会議をしているなら、今日も絶賛会議中のはず。

先輩や同僚の子に相談しようかと思ったけれど、ヨシュアさんがコンポーザーだと気付かれる時を考えると、うかつなことを言えない。
何かヒントになるかと思い、おすすめのデートスポットはないかと聞いたら、道玄坂のラーメン屋を紹介された。今度個人的に行くとして。

こんな時だからこそ、思う。
だからこそ、あのマスターのような、UGの事情を知った協力者が必要だと。
確か羽狛さんと言ったっけ。
ヨシュアさんに相談できないなら、あの人に相談してみればいいかもしれない。

キャットストリートはカドイから、近い。
早速私は、キャットストリートのカフェに向かおうと、足を踏み出す。

──と。
ぽつり、と鼻の頭に冷たい何かが当たるのを感じた。
気付けば空はどんよりと薄暗い鼠色になっている。
空を見上げていると、また一つ、二つと水滴が降ってくる。

雨が降り出したようだ。

サァァと静かな雨音が街に響く。
寒い上に雨まで降ってきたのだから、帰ってしまってもよかったのだけど、以前ヨシュアさんが『マスターは気まぐれで、お店が開いている方が稀』と言っていたのを思い出し、結局行くことにした。
ただ、今日は傘を持っていなかったので、カドイに戻って、傘を買った。
折り畳み傘は家にあるし、普通の雨傘を手に、いざキャットストリートへ。






寒い……。
たった五分程度歩いただけなのに、体はすっかり冷え切ってしまった。
カドイに入った時に、ジャケットも買ってくればよかったけれど、買わなかったのだから仕方ない。

傘と傘がぶつからないように、通行人同士で身を引きながら歩いている。
雨が降っているせいか、通り過ぎていく人も少ない。
今の私はUGにいるので、誰かとぶつかる心配はないので、歩くのは楽だ。

そろそろカフェが見えてきた。
ドアの向こうに明かりがついている様子がないし、入り口にテントが張っていない。

もしかして、今日は外れだったかな? と思ったとき、お店の入り口でぼうっと立っている人影が見えた。
雨除けのテントも張っていないから、雨ざらしになっているのに、身動き一つしない。

不審者……?

恐る恐る近付くと、その正体に気付いた。
ヨシュアさんだ。

渋谷川の奥にいるはずのヨシュアさんが、どうしてこんなところに?
なんで濡れっぱなしで、そんなところにいるの?

色んな疑問を感じながら、たっと駆け寄る。
傘が邪魔して、思うように走りにくいのが歯がゆい。
「ヨシュアさん!」

水しぶきを上げながら、駆け寄って声をかけると、やっとヨシュアさんは私に気付いてくれたらしい。

でも、ヨシュアさんの反応は、おかしかった。
うつむけていた顔をのろのろと上げ、私の呼びかけにも答えず、ただ気だるそうに私を見つめ返すだけ。
しかも、何故かスーツの上着を羽織っておらず、アイボリーのワイシャツ一枚でいる。
「どうしたの? こんなところでずぶぬれになって。寒くない? 大丈夫?」

慌てて傘をさしかけ、空いている手でバッグからハンカチを取り出し、すっかり濡れてしまったヨシュアさんの頬をそっと拭う。
「このハンカチ、初めて会ったときのだね」

うっすら笑って、ハンカチに目を向けるヨシュアさん。
遠慮がちに、ハンカチをそっと撫でる。
「え? ああ、そうそう。あの時貸したハンカチだよ、よく覚えているね」

やっと話してくれたことに、私はほっとする。
こんなハンカチ一枚でどうにかできる濡れ方ではない。
ハンカチ越しに触れる頬は、随分冷たくなっている。
できることなら、一刻も早くどこか雨に濡れない場所へ行って、着替えてもらいたいけれど、とてもそんな雰囲気ではなかった。
とりあえず顔や髪をハンカチで拭っていると、動かしている手にヨシュアさんの手が重ねられた。
「ヨシュアさん?」
「ちょっと頭を冷やそうと思って」
「……頭の前に、体が冷え切ってるよ」

いつも綺麗にカールしている髪も、きちんとアイロンのかかっているシャツも、びしょ濡れだった。体だってすっかり冷え切ってしまっている。
もしかして、雨が降り出してから、ずっとここに立っていたのだろうか。
「よ、ヨシュアさん、とりあえず一旦服を着替えよう。風邪引いちゃう」
「僕は普通のお店には入れないんだけどね」
「うん、わかってるよ。着替えを私が買ってくるから、ヨシュアさんはカフェの中で待っててくれる?」

しかしヨシュアさんは、首を横に振って嫌だと意思表示をした。
「どうして? 開いてないの?」
「開けてと言えば開けてくれるかもね。でも、中に戻るくらいだったら、ここにいる方がましさ」

『戻る』という言葉に疑問が浮かぶ。
確か今ヨシュアさんは、渋谷川の奥にあるコンポーザーの部屋で、全国のコンポーザーが集まって、会議をしていたはずだ。
なのに、このカフェにいたというのは、少し不自然だ。
「戻るって、さっきまでここにいたってこと? 会議を抜けてきたの?」

私が疑問を口にした瞬間、ヨシュアさんの顔からほんのわずかに浮かべられていた笑みが、するりと雨に溶けて消えた。
ハンカチを撫でていた手が、力なく離れ、だらりと下ろされる。
「嘘だよ」
「ウソ?」
「コンポーザーは自分のエリアから離れられない。そういうルールがあるからね。だから、全国のコンポーザーが集まって合同会議をするなんて、ありえないんだよ」
「じゃあ、どうして」
「相手は違うけれど、別の人と会議をしていたんだ」
「北虹さんとか。……もしかして、ここのマスターと?」

ヨシュアさんは、顔を俯けておざなりに首を振る。
数ヶ月一緒に過ごしていくうちにわかった。詮索しないで欲しいサインだ。
私は黙って頷き、そしてヨシュアさんを見上げる。

無残に濡れそぼった体。シャツもパンツもすっかり水を吸って、べったり肌に張り付いている。さぞ気持ち悪いだろう。
そして何より、緩慢な動作と憔悴した表情は、目も当てられないほど痛々しい。
いつもの朗らかなヨシュアさんとは、まるで別人のようだった。

こんな状態だから、なるべく早く安全な場所に移動して、着替えてもらいたい。体を温めたいけれど、それはヨシュアさんの体質上できない。
まだヨシュアさんのいられる場所さえ見つかっていない状態で、どうしたらいいだろう。
雨だって、まだサァサアと降り続いているのに。

いや、どうしたらいいかなんて、もう決まっている。
ヨシュアさんの手に、私の左手を重ねて、言った。
「じゃあ……、うちに来る?」