ねむれぬ夜に、ひと匙の安らぎを

死神のゲーム開催が翌日に迫った深夜。
私は自室のベッドの中で、ぼんやりと八代先輩にもらったバッジを手の中で転がしていた。

渋谷とは思えないくらい静かで、かすかに耳鳴りが聞こえてきそうなほど。
深夜の一人の時間は嫌いじゃないけど、今日だけは妙に不安を掻き立てられる。

ちらっと狭い部屋を見回すと、オーディオコンポやテレビが目に入ったが、今の時間に音楽を聴いたり、テレビをつけたりしたくない。

最近のことを思い返す。






ここひと月は、私のデビュー戦に向けて、特訓の日々だった。
戦闘部隊でも期待の人と噂の八代先輩に教わりながら、ノイズの精製法を学んでいたけれど、死神のゲーム開催三日前になっても、私はノイズを精製できずにいた。

なかなかノイズ精製がうまくできない私を心配し、ついにコンポーザーのヨシュアさんまで出てきて、直々に指導をしてくれるほどだったけれど、何とか一番初歩的なカエルノイズを召喚できるようになる。

八代先輩は、今までノイズ精製ができなかったはずの私が、いきなりできるようになったことに驚き、喜んでくれた。
「あんたエンジンかかるのが遅いのよ! 二日前にやっとできるってどういうこと!」と嬉しそうになじってから、さらに次の段階の指導に移る。
それからは文字通り、八代先輩達のつきっきりの指導を受けた。

日々の鍛錬の甲斐あって、まず一番簡単なミドリ色のカエルを精製できるようになると、そこからの上達は早かった。
灰色のオオカミ型ノイズや、水色のカエル型ノイズも精製できるようになった。

また、本番直前の今日、最後の特訓をしている最中、八代先輩が回復用のバッジを渡してくれた。
「戦闘スキルも大事だけど、何かあったらすぐ治せるようにしといて。佐倉は回復のイマジネーションも得意そうだから」
「あっ、ありがとうございます。どうやって怪我を治療するとか、全然考えてなかった……」
「あんたねえ。こういう仕事だし、あんたみたいな新人に怪我はつきものなんだから。……たまにあたしらを攻撃してくる参加者がいるから、気を付けて。今のあんたじゃ反撃は無理。危なくなったらさっさと逃げる。いい?」
「はいっ!」
「そのバッジ使えるかどうか、試してみて」
「はい」

ギュッとバッジを握り締め、自分の疲労が回復するのをイメージする。
ピンク色の光が私を包み、瞬時に体力が回復するのを感じた。
「大丈夫そうね。このバッジはお守り代わりに持ってな。あたし特製のバッジなんだから!」






厳しい特訓に、逃げ出したくなったことは何度もあったけれど、その甲斐あってちゃんとスキルを身につけた。
しかも八代先輩お手製の回復バッジを、お守り代わりに頂いている。

なのに、まだ不安を感じて眠れないのはどうしてだろう。どうしてなんて、白々しいことを思ってしまった。
何が原因で、眠気が一向にやってこないのかなんて、私が一番わかっている。

ちらりと壁にかかった時計を見上げると、もう十一時を過ぎていた。

ヨシュアさん、まだ起きてるかな……。

枕元の携帯電話を取り、ヨシュアさんの電話番号を呼び出す。
数回コール音が鳴ったあと、『……もしもし?』とヨシュアさんの声が聞こえた。
「もしもし、あっ、あの、夜中にごめんなさい。ちょっと話がしたくて。時間、大丈夫?」
『はいはい、起きてるよ。今日はお互い夜ふかしだね』
「うん……。ちょっと、眠れなくて。ヨシュアさんは?」
『明日からの準備がまだ終わってなくてね、でもそろそろひと段落つきそうだよ』
「そっか、よかった」
『ユウの方はどう? 特訓の成果は出たかい?』
「あっ、あのね、実はあの後八代先輩に色んなノイズの精製法を教わったの。今はビックバフログと、ガレージウルフも召喚できるよ」

私がそう言うと、電話の向こうとヨシュアさんは、はぁーっと長いため息をついた。
『ああよかった……。まだディキシーフログしか精製できないって言われたら、どうしようかと思った』
「そんなことありませんよー。私もちょっとは頑張ったんだから。八代先輩、私が上達したのをすごく喜んでくれて、お守りにって回復用のバッジもくれたんだ」
『ノイズ精製に回復バッジね。うん、新人にしてはよくできている方だよ。頑張ったね』
「えへへ」
『それで、仕事も絶好調なのに、ユウは何が不安なの?』
「……うん」

やっぱりヨシュアさんには、私の心はお見通しだ。
私は素直に心の不安を話すことにした。
「明日から、私は参加者と戦わなきゃいけないから、妨害するだけじゃなくて、相手を消さなきゃいけないでしょ。じゃなきゃ、私が消えちゃうから」
『そうだね』
「私にできるかなって、ちょっと不安で。やっぱり怖いんだ。人を殺すのは、さすがに」
『彼らはもう死んでるよ』

冷静な声でヨシュアさんが諭す。
私もわかっているけど、そういうことじゃない。
「でも、それでも、まだ生きられる可能性のある人を消さなきゃいけないって思ったら、急に怖くなっちゃって」
『さっきユウも言ったじゃない。ユウがそうしなきゃ、ユウが消えるって。そういうものなんだよ』
「理屈ではわかってても、やっぱり怖いよ……」

言っているだけで不安になって、ぎゅっとパジャマの裾を握り締める。

自分が生きるために、誰かを消していく。
そんなルールの世界に、私が根を下ろしたのは、ほんの二ヶ月ほど前の話だ。

仕事やUGのシステムを学ぶことでいっぱいいっぱいで、その世界でできた恋人がコンポーザーで、と大忙しだった私は、自分の新しい生き方に目を閉ざしていた。
だから、直前になって、躊躇している。
『先輩たちはなんて言っていたの?』
「しょうがないって。そうしないと、自分たちが存在できないからって」
『うーん。そうだよね』
「ヨシュアさんも、そう思う?」
『それを僕に聞いちゃうんだ』

ヨシュアさんが苦笑する。
聞いてから気付いた。
渋谷UGのルールを作っているのはヨシュアさんなのに。これではヨシュアさんを非難するために、質問したことと同じじゃないかと。
「ごめんなさい」
『うーん、ユウは受験ってしたことある?』
「受験……、うん、受けたことがあるよ」
『受験ってさ、死神のゲームに似ていると思わない? 優秀なものだけが志望校に受かって、劣るものは不合格としてふるい落とされる。志望校で行ける可能性のあった人間のチャンスを、合格者が潰している。ただ受験生からは見えにくいだけで』
「……死神のゲームだけじゃなくて、受験とかそういうものは、みんな同じってこと?」
『うん。就職も働き口をかけた生存競争だし、受験だってそう。死神のゲームは、勝者と敗者がくっきり見えやすいだけで、根本的なシステムは同じさ』
「でも、人を殺したりはしないよ」
『そんなことはないよ。受験でも就職でも、死者は出ているよ。志望校に受からなくて、就職先が見つからなくてノイローゼになって……とかね。誰かが直接手を下しているわけじゃないけど、でも彼らは受験戦争や就職活動の犠牲者とも言えるでしょ』
「え」
『もっと身近な話をしようか。今日ユウが食べたご飯だって、ユウの栄養になるために、植物や動物が犠牲になっているよね。だから結局社会は、犠牲というシステムの上で成り立っていることに、変わりはないんだよ。誰もが見ないふりをしているだけさ』
「ひどいよ、どうしてそんなこと言うの」

電話越しの声に、少し苛立ちが帯びる。
『じゃあユウはどんな言葉をかければ、安心する?』
「都合のいい言葉を言って欲しいわけじゃない。でも、今そんなこと言わなくても」

ぐずっと鼻をすする。
『ユウが泣いても、世界は変わらないよ。だからユウ自身が世界の見方を変えなきゃいけない。じゃないと、今日までユウが努力してきた事実も、僕や八代君の助力も全て無駄になる』

ヨシュアさんはうんざりした様子でため息をついた。
『そうだね。酷いこと言ったね。現実は酷いことだらけだよ。それでも僕はその競争の中、ユウに無事にかえってきてほしいよ』
「本当?」
『当たり前だろ。そうじゃなかったら、深夜の電話にわざわざ出るわけないじゃない。どうでもいい相手の泣き言をBGMに仕事なんてしたくないもの』
「わかった。頑張る」
『少しは元気出た?』
「うん」

だけど、私はもう一つだけ不安があった。
「ねえ、ヨシュアさん」
『何?』
「私、どうして戦闘部隊になったんだろう?」
『どうしてって……』

電話口でヨシュアさんが絶句している気配を感じた。
言い方がまずかったかもしれないと、慌ててフォローする。
「あ、そうじゃなくて! もちろん仕事の内容を理解した上で、戦闘部隊に入る事を最終的に決めたのは私だけど、その前に配属先を決めたのは、上の人たちでしょう? 上の人たちは私に戦闘部隊の死神が務まると思って、配属先を決めたんだよね、きっと。なら、上の人たちは私のどこを見て、戦闘部隊に配属したんだろう」

私は元々好戦的な性格ではないし、ノイズ精製ができるまでに、かなり時間をかけてしまった。

なのに、私の配属先は戦闘部隊。
あまり戦闘には向いていない私を、戦闘部隊に配属した上の人事を疑問に思っていたし、何より自信が持てない。
ある程度戦闘の基礎は学んだけれど、不安であることに変わりはない。

だから、ヨシュアさんに励まして欲しかった。
もし、戦闘部隊に配属された理由も聞けたら、ラッキー程度に思って、訊いてみたんだけれど、ヨシュアさんが先程から黙っている。
どうしたのかな、と思った頃に、ヨシュアさんは苦笑した。
『それを僕に聞くなんて、大した度胸だね』
ヨシュアさんのちょっと冷たい声と、衣擦れの音と椅子の軋む音が聞こえる。
足を組み替えたらしい。

あれ、もしかして怒ってる?
『駄目だよ』

ヨシュアさんはいつもの柔らかい声から一変、仕事モードの真面目な声で、ピシャリと私の甘えを拒絶する。
『死神になった人達は、みんないろんな葛藤を抱えて悩んでいるんだ。でもそれを一人で乗り越えて、死神になった。なのに、君だけは僕の恋人だからって理由で、特別扱いしてほしいのかい?』
「ちがう、そうじゃなくて」
『違うんだ? 僕が死神の人事にも関わっているって、ユウは気付かなかったの?』
皮肉っぽい言い回しで話す、ヨシュアさんは饒舌だ。

ヨシュアさんは怒っていた。
怒っているというよりも、呆れている?
どうしようもない生徒を前に、呆れ返ってる先生みたいな、投げやりな口調だった。
さすがに調子に乗りすぎたかもしれない。
怒ったヨシュアさんは、電話越しでもやっぱり怖い。
「上司に特別扱いして欲しいなんて、思って、ません」
『へえ』

へえの一言さえ、なんだか高圧的でちょっと怖い。
でも言いたいことは言っておこうと、恥ずかしさに顔を赤くしながら、勇気を振り絞った。
「その、ちょっと初仕事が不安だったから、励まして欲しかったの。こ、恋人に」
『フッ、フフフ』

受話器越しにヨシュアさんの吹き出す声が聞こえる。
ああ、もう、言うんじゃなかった。
ヨシュアさんに叱られたり、笑われたり、恥をかいてばっかり。
「鼻で笑わないで……。恥ずかしいじゃない」
『頑張って。ユウならできるよ』

唐突にそう言ったヨシュアさんの声は、いつもの柔らかいものに戻っていた。
「う、うん!」
『というかあれだけ先輩や僕がつきっきりで特訓したのに、失敗しちゃったら、ユウのこと許せないかも』
「ええっ!?」
『冗談だよ。明日も元気な声を聞かせてね。待ってるから』
「ありがとう。──あの、やっぱりゲーム中は、会えない?」
『ゲーム開催中、僕は渋谷川から動けないし、ユウも僕に会うどころじゃないと思う。だから、時間のあるときに電話して』
「そっか……」
『拗ねない、拗ねない。このゲームが終わったら、また一緒にデートにでも行こうか。行きたいところを決めておいてね』
「わっ、やった!」
『あ……』
「ん? 何?」
『ううん、なんでもないよ。ちょっと仕事でいいアイディアを思いついただけ』
「あ、そっか。今仕事中だったんだよね。忙しい時にごめんなさい」
『ゲーム中はいつもこんな感じだから平気だよ。それじゃ、おやすみ』
「おやすみなさい!」

夜ふかしは程ほどにね、とヨシュアさんが最後に告げて、通話は終わった。また部屋に、夜の静けさが戻ってくる。
時計は午前零時を少し過ぎたあたりを指している。

静かな部屋、夜、私一人きり。
電話をかける前と、何も変わっていないのに、胸のあたりがすごく満たされている。
「幸せで胸がいっぱいって、こういう感じなんだなあ……」

枕を抱えて、ふふっと笑う。

ついさっきまで、不安で仕方なかったのに、今は幸せすぎて空も飛べそうだ。
緊張していないと言ったら嘘になるし、明日のデビュー戦も待ってはくれないけれど、ヨシュアさんと電話で繋がっただけで、こんなにも幸せになれる。

私は今日、死神のゲームに、死神として参加する。
きっと参加者を消滅させるだろう。

それでも、ヨシュアさんが、人を消滅させた私だったとしても、帰りを待っていてくれると言うのなら、
戦いを生き抜いて、必ずヨシュアさんに会いに行こう。
そう心に決めて、布団をかぶった。






「本当に、甘えたがりなんだから」

僕はやれやれと首を振って、携帯電話を傍らのテーブルに置いた。
黒で塗りつぶされた、僕の部屋で、オレンジ色の携帯電話がやけに目に眩しい。

ユウ。

最後に会ったときは、不安で泣きそうな表情ばかりしていた。
置き去りにされた迷子のような顔が頭に残っていたせいか、つい甘やかしてしまった。
「今度はもう甘やかさないからね」

通話はとっくに切れてしまっているから、僕の独白はユウに届かない。
けれど、ちゃんと言葉にしておかないと、際限なく甘やかしてしまいそう自分に対する戒めだ。

テーブルの上の書類を眺め、もう一度明日の、いや今日のゲームの予定を確認する。

今回のゲームマスターは、僕の最も信頼する部下のメグミ君だ。
きっと彼なら僕が助言をするまでもなく、何の問題もなくゲームを進行するだろう。

そして──。

チラリと横にあるもう一つの書類を見やる。
タイトルは『渋谷の現状について』。

これはプロデューサーに宛てた、渋谷の現状についての報告書だ。
僕らのいる次元の更に上の世界から、目をつけられてしまった。
上の次元の人達には、渋谷崩壊まで秒読みだと言っている者もいるらしい。

渋谷は安泰。心配無用。
と胸を張って言えれば、どれほどいいだろうか。

渋谷が危ういのは、管理している僕自身が一番よく理解している。
上の次元で高みの見物をしている彼らにも、とっくにお見通しだったらしい。

だから信頼できる補助部隊の者やメグミ君を、秘密裏に動員し、渋谷の現状をレポートさせて、こんな言い訳じみた報告書を作る羽目になってしまった。

平和ボケしているつもりはないけれど、僕の認識が甘かったということか?
一体、いつ、僕は道を誤った?

過去はどうでもいい。
今をどうするかが重要だけれど、つい嘆いてしまう自分が愚かしい。
「君とはいつまで一緒にいられるんだろうね……」

ここにいないユウの姿を思い浮かべ、広大な審判の部屋で、僕は一人、ため息を吐いた。