まいごのねこ

先日のリベンジということで、また宮下公園のランドマークに来た。
場所を指定しなかったが、ヨシュアさんが気を利かせてくれたみたいだ。
「チケットは君が買ってきてくれるかな? 観る映画は君のセンスに任せるよ」
「いいですよ。座席の指定とかありますか?」
「それも君にお任せしようかな」
「わかりました!」
私に一任してくれたのだから、彼の期待に応えなければ! と気合を入れて答えてみせる。

が、ヨシュアさんの手が離れたとき、ふと不安が胸をよぎった。
もし、私が目を離したら、ヨシュアさんがどこかへ行ってしまうのではないか。そんな不安。
いきなり移動するのを躊躇した私に、ヨシュアさんがどうしたの? と首をかしげる。
「あ、ごめんなさい。なんでもないです!」

慌てて笑顔で取り繕う。
「いってらっしゃい」

ヨシュアさんがにこっと笑いかけて、私の肩をぽんと押してくれる。
ちゃんとここで待っているよ、と言われた気がして、ほっとすることができた。

チケット売り場の最後尾に並び、どの映画を観ようか考えながら、順番を待つ。
以前は大の苦手なホラー映画を観てしまったせいで、とんだ失態を見せてしまったから、ホラーは絶対却下だ。

前回ここに来た時は、映画館と同じフロアのカフェで魔法使いの映画の話で盛り上がったから、今日はそれにしよう。例のラブ・ロマンスを見たいけれど、何だか気恥ずかしい。

座席はどうしようと考えながら、そっとヨシュアさんの方を見る。

ヨシュアさんは、目を細めて冷めた表情でフロアの人ごみを眺めていた。

その瞳は活き活きした輝きも失せ荒みきっている。
ついさっき私に見せてくれた優しい笑みとは程遠い無表情だ。

あの時、私達が偶然にもこのランドマークで再会した時、雨雲を見上げたヨシュアさんが垣間見せた表情によく似ていた。

さっきの不安がまた胸に押し寄せてくる。
ヨシュアさんは何か悩み事を抱えているのだろうか。
もしもそうなら後でさりげなく聞いてみても大丈夫かな……。
「先頭にお並びのお客様、こちらの窓口をご利用ください!」
「あ、はい」

窓口の係員の声で我に返る。
そうだ、まずはチケットを買わないと。
ちょうど通路側の席が二人分空いていたので、そこのチケットを買い、ヨシュアさんの元へ向かった。


ヨシュアさんの浮かない表情は気になったけれど、どちらが通路側の席に座るかで少しもめたせいで、上映時間が迫っていたので、聞く余裕はなかった。
通路側だと落ち着いて見られないだろうから、とお互いにゆずらなかったのだけれど、ヨシュアさんの紳士的かつ少々強引な説得で、私が通路側から一つ離れた席に座ることになった。



そんな小さなトラブルこそあったものの、映画は面白かった。

映画を見終わった後、感想を伝え合っていたら、歩きながらじゃ落ち着かないから、とこの前来た時と同じカフェでお茶をしようとヨシュアさんに提案された。

以前は閉鎖されていたテラス席が開放されていたので、そちらの席に座った。

テラス席は吹き抜けの屋上で、中央に楕円形のプールがあり、プールから少し離れた場所に、パラソルをさしたテーブル席がいくつか並べられている。

少し暑いけれどこんな素敵な場所でヨシュアさんとお茶ができるなら、暑さなんて気にならない。
お化粧が落ちなければいいけど。

テラス席に座ってみると、パラソルのおかげで直射日光は照りつけないし、プールを吹き抜ける風が思いの外涼しくて、気持ちがいい。
私たちの他に、テラス席を使う人がいないので、実質貸切状態だ。

少し視線をやれば、渋谷の街の喧騒が見える。
せわしなく行き来する車や人の流れ、それと宮下公園の緑が見えた。
「いいところでしょ?」

物珍しくてキョロキョロしていた私に、ヨシュアさんが声をかける。

ヨシュアさんを振り返ると、嬉しそうに目を細めていた。
はしゃぎすぎてしまったみたいで、少し恥ずかしい。「あはは……、本当に素敵なところですね。この前来た時は、こんないい場所があることに、全然気付けなかったのがちょっと悔しいです」
「気に入ってもらえたみたいで良かった。もう4時を過ぎているし、ここがちょうどビルの隙間にあるから、いい具合に直射日光が当たらないんだろうね」

はい、とヨシュアさんにメニューを渡される。
私達は二人共コーヒーを頼んだ。

気が合いますねと談笑していると、程なく空のカップが2つと湯気を立てているコーヒーポットが運ばれてきた。
随分早い。注文してから3分も経っていないはずなのに。

コーヒーを飲みながら見たばかりの感想を語り合い、話に区切りがついたとき、ヨシュアさんが出し抜けに呟いた。
「ところで、僕は君の事なんて呼べばいい?」
「へっ」
「僕は部下なら下の名前を君付けするんだけど、君は部下だけどそれ以前に恋人でしょう? だったら君の要望にお答えしようと思ってね」
「よ、呼び方ですか!?」
「ユウ君、ユウさん、ユウちゃん……。あと苗字っていうのもあるよね。佐倉ちゃん、佐倉さん……。で、何かご希望は?」

指折り数えながら、ヨシュアさんが呼び方候補を列挙する。
 バリエーションある呼び方がこそばゆくて、いちいち身もだえしてしまう。
「あ、でも様付けはするのもされるのも好みじゃないかな」
「様付けはさすがに私もイヤです」
「趣味が合ってよかったよ。ああ、そうだ」

いたずらっ子のように目を光らせて唇の端を上げる。
「ユウっていうのもあったね。ごめん、忘れてたよ。ユウ」
「ユウ……!」
「自分の名前を叫んでどうするの。僕のことは好きなように呼んでくれてかまわないから。ヨシュアとか、ね?」

クスクス笑いながら、ヨシュアさんが首をかしげる。
完全にからかわれている。
「それも駄目です!」
「親しくなるまでは呼び方にこだわるタイプなの?」
「そうじゃなくて! あの、恥ずかしい……」
「んー、聞こえないな」

ヨシュアさんの手で顔を包まれた。ひんやりしていて心地よいけれど、その心地よい分だけ自分がどれだけ赤面しているか気付いて、余計恥ずかしさが倍増する。

散々私をからかって満足したのか、そっとヨシュアさんの手が離れる。
あんなに恥ずかしがっていたのに、少し物足りなさを感じてしまう私は、自分勝手だ。



「君って、本当に面白いね。あの時声をかけておいて正解だったよ」

あの時といえば、多分私たちが初めて会ったときのことだろう。
そういえば、私はずっと疑問に思っていたことがあったのだ。
「そういえば、ヨシュアさんはどうしてあの時私に話しかけたんですか?」

ヨシュアさんがコンポーザーであることは、ゲームの指揮者以外には極秘事項のはず。
その禁を破ってまで、下っ端の私に話しかけたのか、実は気になっていたのだ。
「どうしてってそれは可愛い子がいたら、話しかけたくなるものじゃない?」
「ま、真面目に答えてくださいよ! もう」
「いたって真面目だけど?」

赤面する私をよそに、ヨシュアさんは余裕の笑顔だ。
子供扱いされていることがもどかしいけれど、それさえも許せてしまうのが困ったところだ。

ヨシュアさんがふと真顔に戻る。
「うーん、そうだね。君に今の渋谷がどんな風に見えるのか、聞きたかったからかな」
「渋谷がどんなふうに見えるか?」
「具体的に言えば、働きやすいかとか何か不満はないかとか……。あとは渋谷の雰囲気をどう感じているかとか」
「意外と聞きたいことがいっぱいあったんですね」
「フフ、僕は立場上現場の子達と直接話す機会って、滅多にないからそのせいかもね」

笑ってコーヒーを飲むヨシュアさんの姿が、少し寂しそうに見えた。
ならば、ここは私が張り切って答えなければ。
「職場の雰囲気は結構好きです。私のサポートについてくれた先輩たちが、すごく丁寧に指導してくれるし。あ、でもこれから本格的な仕事もしなきゃいけないから、ちょっと不安かも」
「そういえばユウは、どこの所属なの?」

言いながらヨシュアさんがカップにコーヒーを注いでくれる。
呼び方はユウで固定なのかしら。
「戦闘部隊です」
私が答えたとき、ヨシュアさんが穏やかに細められていた目を見開く。

しかし、それもほんのわずかのことで、また柔和に目を細める。
「そっか、戦闘部隊なんだ。これから大変だね」
研修お疲れ様と声をかけながら、私にカップを差し出す。

ご丁寧にカップの横にはミルクと砂糖が添えてあった。
「ありがとうございます。そうなんですよ。戦闘スキルがどうも苦手で、まだ1番弱いノイズもうまく召喚できなくて」
「うーん、それはちょっと不安だね。そのあたりも先輩たちに相談してご覧。彼らはベテランだし、戦闘には慣れているはずだから」
「はい」

何だか職場相談のようになってしまった。
先のこととはいえ、近いうちに私も独り立ちして先輩たちのように一人で戦うことになる。
まだノイズも使役できない私に、独り立ちなんてできるんだろうか。

少し不安な気持ちでコーヒーをかき回していた私を、ヨシュアさんの一言が吹き飛ばした。
「もしどうしてもダメだったら、僕のところへ相談においでよ。きっと力になるから」
「えっ!」

思わずスプーンから手を離してしまった。カップの淵にあたって、甲高い音を立てる。
まさか冗談のつもりかと思ったけれど、ヨシュアさんは真顔だ。
「ヨシュアさんがですか?」
「うん、何かおかしなことでも?」
「だってそんな、1番偉い人が下っ端の私なんかにわざわざ指導しなくても……。それより、ヨシュアさんも戦えたんですか?」

ぷっとヨシュアさんが吹き出した。呆れたように笑いながら、手を左右にひらひら振る。
「あのねえ、力も使えずにどうやってコンポーザーになれると思うの。それに渋谷で最もうまくイマジネーションを使いこなせるのは、僕なんだよ?」
「え、そうなんですか?」
「だってここは僕の土地だもん」

きっぱりと、だけど少し拗ねた口調で断言してみせる。

ああ、そうだ。
この人はコンポーザーなんだと思い知らされる。

今は1mも離れていないこの距離が、随分遠くに感じた。

「まあ僕の言ったことは小耳に挟んでおく程度に考えておいてくれればいいさ。それで質問の続きなんだけど、渋谷の雰囲気をどう思う?」
「渋谷の雰囲気って、つまりRGも含めてって意味ですか?」

ヨシュアさんは鷹揚に頷いてみせて、コーヒーをすする。

渋谷と言って真っ先に思い浮かぶのは、やはり渋谷駅ハチ公口からすぐのスクランブル交差点だ。
ちょっと前までゲームの参加者だった私にとって、あそこがスタート地点のようなものだった。

RGをスキャンしてみると、RGの人達にとっても似たような認識のようだ。
渋谷に来て、これからどこに向かうかを決めるスタート地点、もっと言うなら渋谷の原点とさえ言う人もいた。

スタート地点であるスクランブルから、他のエリアの様子を想像し、渋谷の印象を考える。

黙り込んだ私に、ヨシュアさんが少し気まずそうに頬を掻いた。
「質問が漠然としすぎてたかな」
「ううん、ちょっと時間がかかっちゃったけど、なんとか答えられそうです」
「へえ、本当。楽しみだな」

かしこまって咳払いをひとつしてから、答えを伝え始める。
「渋谷の印象を一言で言うなら、生き急いでいるって感じです」
「生き急いでいる?」
「駅を出てすぐのスクランブル交差点から、皆色んな方向に早足で移動するせわしない雰囲気が、生き急いでいるような気がするんです」
「ああ、やっぱりあのスクランブルが印象に残りやすいんだ」
「テレビでよく流れていたし、死神のゲームってあそこから始まる日が多いから。正直言うとまだ生きていた頃って、渋谷の雰囲気がちょっと苦手でしたね。
でもUGに来て、いろんな人の気持ちを聞いていたら、逆に渋谷が好きになりました。私とは逆に、この渋谷の雰囲気がすごく好きっていう人もいるんですよね。
渋谷がそういう色んな考え方で溢れている場所だって思うと、何だか不思議な感じがしませんか?」
「……そうだね。きっと渋谷の本質って、君の言ったそういう部分にあるんだろうね」

ちょうど吹いてきた風に、ヨシュアさんは目を細める。
ヨシュアさんの淡い色の髪が、はらはらと風に揺れていた。



そろそろ日が暮れネオンが輝き始めたところで、私たちは席を立つ。
ランドマークから出ると、夕方から夜の空気へと様変わりしていた。
「今日はありがとう。いい話が聞けてよかったよ」
「そんな……こちらこそありがとうございます。私もすごく楽しかったです」
「僕もだよ」

朗らかに笑うヨシュアさんを見て、私は心に残った申し訳なく思ったことを伝える。
「あの、さっきの『渋谷がどう見えるか』っていう話、あんな漠然とした感じでよかったんですか? 今度はもっと渋谷の様子をもっと詳しく見て……あの……」

私が続きを言いかけたとき、ヨシュアさんの視線に気付いた。
じいっと私を見つめてから、くしゃくしゃと私の髪を撫でる。
「なな、何ですか!?」
「その敬語も取ってくれたら、花丸満点をあげたいくらいだよ」
「あっ……」
「礼儀正しいのは美徳だけど、せっかくいい関係を築けたんだから、ずっと敬語を使っていたらちょっと寂しいよ」
「ごめんなさい、努力しま、するよ」
「うん」

本当に嬉しそうに、ヨシュアさんが笑った。
こんな些細なことで、彼を喜ばせるなら、私はなんだってできるのに。

結局今日はヨシュアさんが何を悩んでいるのか聞くことができなかったけれど、もしいつかヨシュアさんが打ち明けてくれたら、必ず力になろう。

ヨシュアさんはこんな笑顔の方が似合うから。