Sky After The Rain
-第7話 星の川をふたりで-

 空には分厚い雲が居座り、小ぶりの雨が降っている。

 しかしこの間までのような重い雨ではなく、あと少しで晴れそうな、そんな空だった。
 かすかな雨粒が降り注ぐアスファルトの上を歩きながら、ここ最近私の身の上に起こったことを考えていた。

 仕事で少しずつできることが増えて、先輩達と仲良くしてもらって、ヨシュアさんに出会って。
 まさか死神になっていきなりトラブルに巻き込まれるなんて想像もしていなかった。

 そして今日は、今まで起きてきたトラブルに決着を付ける日だ。
 ヨシュアさんが私にどんなことを言っても受け止めよう。
 それだけは揺るがないよう、心に決めた。
 例えそれが、先輩達に背を向ける事になっても。




 大通りから少し離れたカフェの扉のノブに、そっと手をかける。
 重い手応えが返ってきた。今日は開いているようだ。

 しかし照明はしぼられており、店内は薄暗い。
 カウンター席で長身の男性が腰掛けていた。

 彼だ。

 どうやって声をかけようか考えていると、ヨシュアさんの方が先に私に気付いた。
「やあ、よく来たね」

 椅子を回して、ヨシュアさんが振り向く。
 キィと椅子の軋む音が耳に届いた。
「隣にどうぞ」

 ヨシュアさんが席を立ち、隣の椅子を引いてくれた。
「お邪魔します」

 ヨシュアさんの大人な態度にはにかみながら、私は彼の隣りに座った。
「コーヒーでも飲むかい?」
「わ、ありがとうございます。もしかして、ヨシュアさんが淹れてくれたんですか?」

 コーヒーのいい香りよりも、ヨシュアさんと名前を呼ぶことにどぎまぎしていた。
 私とは正反対に、ヨシュアさんはそういう様子をおくびも見せずに笑って応える。
「ううん、これはここのマスターが出してくれたんだよ。今はちょっと席を外してもらってるけど──砂糖とミルクは?」
「両方お願いします」
「お代わりもあるから、欲しかったら言ってね」

 彼はコーヒーの入ったポットを指差した。

 彼とぽつりぽつりと話しながら、コーヒーを飲んだりしている。
 私がマスターについて尋ねたから、マスターの話になった。

 ここのマスターはかなり気まぐれな性格で、ギャンブルが趣味だとか。
 洒落たカフェの中で、ギャンブルという言葉がどこかそぐわない感じがした。
 もちろん、ヨシュアさんが話そうとしていることは、マスターのことではない。

 いつになったら本題に入るのかなとそわそわし始めたとき、彼が微笑みかけてきた。
 思わずどきりと胸が高鳴る。
「そろそろ緊張は解けたかい?」
「緊張……してるように見えました?」
「自覚なかったの?」
「言われるまで全然気付かなかったです。そっか、私緊張してたんですね……」

 肩や顔に変な力が入ってしまっていて、こわばっている。指摘されなければ自分が緊張していることにも気付けないほど、固くなっていたのだ。
「フフフ、まああんな風にプレッシャーかけられたら、緊張してしょうがないよね。じゃあ、本題に入ろうか」

 彼の、ヨシュアさんの表情が、変わった瞬間だった。


「まずは君の知っていることを全部話してほしい」

 ヨシュアさんが、今まで見たことが無いような真剣な表情で私を見据える。
 私も彼の誠意に答えられるよう、知りうる限りのことを話した。それこそ洗いざらい。

 まず自分が死神という立場で、生きている人間ではないことと、渋谷UGで生活していること。
 ヨシュアさんが普通の人ではないと気付いたきっかけ。
 そして先輩たちに相談していくうちに、先輩たちの疑念が確信に変わってしまったこと。
 この間の騒動は、先輩たちが私を守るために起こってしまったこと。
 今後のことを鑑み、ヨシュアさんのことは公にしないと決めたこと。

 私の話を彼は真剣な表情で聞き入る。
 全てを白状しきった後、どっと緊張の糸が切れてしまったのをごまかすため、コーヒーを一口飲んだ。
 すっかり冷め切ってしまっていて、おいしくない。
「君はラッキーだね。いい先輩に恵まれて」

 彼の言葉にコクリと頷く。
「2人共憧れの先輩なんです。だからこそ、先輩達もヨシュアさんも裏切るようなことはしたくないんです」
「そう……」
 彼はわずかに残ったコーヒーを、カップを傾けて飲み干した。
 安堵の表情を浮かべ、笑う。

「そして僕もラッキーだったよ、君達が僕のことを公にしないって言ってくれていて。さすがに僕のことを言いふらされるのは困るからね」
 彼の言葉に、私は顔を覆いたい衝動に駆られた。
 彼は『君』ではなく、『君達』と言った。
 まるで私と彼が、壁と壁で区切られた別世界にいるかのように、私と彼を区別したのだ。

 極めつけに自分が公にされたらまずい人物だとも白状している。
 やっぱり私は、あなたと一緒にはなれないの……。

「ちょっと、大丈夫かい? そんな顔するのはまだ早いよ」

 彼の声に、顔を上げる。
 いつもの軽やかな口調なのに、彼の顔は厳しいものだった。
「はっきり言うけど、今から話すことは『渋谷UG』を揺るがすことだ。触りにも入っていないのに、この程度のことで動揺するなら、話すことはできない。僕は君に『本当のこと』を話すために、それ相応の覚悟をしてここに臨んでいる。君もそうだと思っていたよ。少なくとも僕は」
「ヨ……」
「君はそんな生半可な覚悟で来たの?」

 彼はまぎれもなく、怒っていた。


 私には覚悟が、足りなかったのかもしれない。
 いや、正しく言えば私のしていた覚悟は、彼の期待していた覚悟ではなかった。
 何となく彼がUGの大切な話もするだろうと予想はしていたけれど、まさかそれ自体が本題だとは思わなかった。

 こんなことを言っても、言い訳にしかならないけど。
 ぽかんと口を開けて、相当間抜けな顔をしているだろう私を、ヨシュアさんは不愉快そうにじっと見ている。
「君は、何のために、今日ここに来たの」

 厳しい表情を崩さず、ヨシュアさんが話を続ける。話し方まで怒りがこもっている。
「君の先輩達が言ったように僕がUGにとって危険な、もしくは重要な存在かもしれない。それは君だってわかっていたはずだろう? だったら僕がわざわざ呼び出してする話と言えば、渋谷UGの根幹に関わる話だと気付くのも簡単なことだと思うけど」
「それとも、先輩の言うとおり罠だと思わなかったのかい?」
「罠……」
「そう。君を甘い言葉でたぶらかして、証拠隠滅のために、君の存在を抹消する、スパイ」

 彼が酷薄に笑いながら私に向かって手を伸ばす。
 彼の手のひらで、サイキックが発動し始めるのを感じた。
 今まで感じたことのない大きな波動に、背筋が震える。
「ごめんなさい」

 私は彼の目を見据えたまま呟いた。
 彼は、首を傾げ、それでも手を止めない。
「確かにあなたの言うとおり、私には覚悟が足りていませんでした。でも、今は違います。あなたが誰で、あなたと一緒になるためには、どんな覚悟が必要なのか、今やっとわかりました。だからあなたがこれからどんなことを話しても、私は逃げません」

 私は、彼の目から逃げずに言い切った。
 すると彼は

 クスリ、と笑って私にあと一押しで触れてしまいそうな手を戻した。
「やれやれ……。ここまで言ってわからなかったら、どうしようかと思った」

 彼の表情は、いつものように穏やかなものに戻っていた。ため息混じりに苦笑している。
 サイキックは無効化され、霧散した。
「ごめんなさい」

 私は小さくなって、謝った。
「いいよ、部下の指導も上司にとっては仕事のうちだから」

 はい、と彼が私につぎ足したコーヒーを渡してくれる。
 ありがとうございますと断って、カップを受け取り一口飲む。
 コーヒーが体を温まって、少しずつ落ち着いてくる。

 ん?
 部下? 上司?

「あのっ、今なんて」
「『部下の指導も上司にとっては仕事のうち』」

 悪戯っぽく笑みを浮かべて楽しそうに話す彼に、私は食いつくように質問を畳みかけた。
「えっ! じゃあまさか死神の幹部? それとも先輩?」

 しかし彼は首を振るばかりだ。
「外れ。僕は君の上司ではあるけど、死神じゃない」
「じゃあ、一体……。もしかして」

 私が答えを言う前に、ヨシュアさんが先回りして回答を出す。
「初めまして。渋谷UGを統治しているコンポーザーです」




 とんでもないことをのたまう彼は、どこまでも優雅にほほえんでいた。
 私のこの驚きようがお気に召したらしく、にこにこしている。
「コンポーザーって、そんな」

 口をパクパクさせる私に、彼が、コンポーザーが笑いかける。
「コウキ君の予想は、かなりいいところをついていたね。さすがはメグミ君が目をかけているだけある」

 私の知らない名前が飛び交い、頭が混乱する。
 コウキ? メグミって誰だ。
 そんな私を見かねてヨシュアさんが補足説明をしてくれる。

「あ、コウキ君って言うのは、君の先輩の狩谷君。メグミ君は僕の部下でゲームの指揮者の北虹君のことだよ」
「指揮者ぁ!?」
 ゲームの指揮者といえば、くせ者だらけの死神たちを束ねる死神で最もコンポーザーに近い地位だ。

 私がいきなり大声を上げたせいで、ヨシュアさんが目を丸くする。
「うん。メグミ君やミツキ君としては、彼に幹部になってほしいみたいだけど、彼自身の希望で今の立場にいるみたいだね」
「え、そうなんですか?」

 そんなもったいないといいかける私を、彼がやんわりと遮る。
「これで僕の立場が周囲にしれれば、どれだけ危険か、わかってもらえた?」
「はい……正直言って実感がわきませんけど」
「フフ……今はそれでいいよ。でも、これだけは守ってほしい」

 ヨシュアさんが姿勢を正す。
 釣られて私も背筋を伸ばした。
「僕がコンポーザーだってことは、黙っていてほしいんだ」
「もちろんです」
「君の先輩にも、だよ」
「はい。必ず約束します」

 私の答えに満足して、ヨシュアさんが笑う。
「本当は色々話さないといけないことがあるんだけど、今日はこの辺にしておこう。難しい話はまた今度」
「難しい話?」
「うん。僕の正体自体、死神の中でも指揮者のメグミ君しか、知らない。だから、君のことを知らせなきゃいけないんだ。メグミ君や、あとまあ上の人にも」
「え」

 彼が好きだからこそ、ここまで来ただけだったのに、もしかして、私はすごいことに直面しているのかもしれない。
 しかも、ヨシュアさんは言葉を濁しているけれど、渋谷UGの最高権力者よりもさらに上の立場、つまり上次元の人にまで話を通さないといけないらしい。
 まだ新米のひよっこな私が招いたこの事態。
 覚悟はしていたけれど、それでもやっぱり足りていなかったのかもしれない。

 今更困惑する私を、彼が見つめている。彼と目があっただけで、私の動揺が収まっていく。
 私達は時間を忘れて見つめあった。
 きっとヨシュアさんといられれば、何があっても大丈夫。
 そう私は確信できた。

 ヨシュアさんが微笑し、椅子から立ち上がった。
「君に見せたい場所があるんだ」




 私達はカフェを後にした。
 外は車のライトとネオンに照らされ、来る前より明るく賑やいでいる。
 カフェに来る時は傘を差していたが、今は傘の必要がないくらい雨足は弱まっている。
「もうこんな時間だ」

 彼が腕に巻いている時計は、短針が7を指していた。
「随分話し込んじゃいましたね」
「実は、コンポーザーの能力で時間を早めたんだ」
「えっ、そんなこともできるんですか!?」
「ウ・ソ」
「もう……」

 彼は今にも鼻歌を歌いそうなほど、機嫌がいい。
 どこかへ案内してくれるらしいけれど、どこへ行くんだろう。
「ヨシュアさん、あの、これからどこへ行くんですか?」
「フフフ……ヒ・ミ・ツ」

 さっきから何度か聞いているのだが、この調子だ。
「まあそう焦らないで。楽しみは最後にとっておくものだよ」
「そう言われると、余計気になりますよー」

 駄々をこねてみると、ヨシュアさんが愉快そうにからから笑い、いかにも渋々な感じを装って、ヒントをくれた。
「仕方ないな、じゃあヒントをあげる」
「やった!」
「ヒントその1、ここからそれほど遠くない場所。ヒントその2、君も2回だけ行ったことがある」
「2回?」

 2回とあっさり断言されて、首を傾げる。
 最近2回行った場所と言えば、キャットストリートくらいだけど、今日も入れれば3回目になる。
「うん。まだ死神になってそれほど経ってないなら、あまり行ったことはないと思うよ」
「ということは、死神に関係する場所ってことですね!」
「まあね。普通の人なら気にも留めないような場所かな」

 彼の言葉にふと浮かび上がったのは、死神組織の本部だ。
 あの臭くて昼でも薄暗いどぶ川を抜けた先にある、滝が流れていたり、ジュークボックスが置いてあったりする、おしゃれな部屋。
 確かにあそこなら死神になったときと、正式に組織の一員として認められたときの2回しか行ったことがない。
 もしかして、幹部の方々にご挨拶するのかな、とぼんやり考えていた。




 私の予想はある意味的中していた。
 私が2回しか行ったことがなくて、死神に関係していて一般人なら気にも留めない場所。
「ここだよ」

 渋急渋横線渋谷駅の改札口から少し狭い路地に入ったところを、彼が手で示した。

 あのおしゃれな死神本部か、そうでなければもっとロマンチックな場所だと思っていた。

 しかし彼が行きたい場所は、私の予想していた場所に行く道中にあったようだ。
 臭くて昼間でも薄暗いどぶ川。
 渋谷川こそが、彼の見せたい場所だった。

 一応確認しておこう。
「ここ、ですか……」
「違うよ。ここで間違いない」
「そ、そうですか……」
「がっかりした?」
「えっ、えっと、ううん……」

 私の心中を察して、ヨシュアさんが笑う。
「まあ、ここの普段の様子しか知らないなら、無理もないね」

 さして気にした様子もなく、渋谷川の壁を解除して進んでいく。
 私もヨシュアさんを追う。
 生温い空気と鼻をつくどぶの臭いが漂う。

 私がヨシュアさんに追いつくと、ヨシュアさんは1度解除した壁を入念に張り直した。
「君は生前、渋谷川があったことを知っていた?」
「いいえ。死神になるまでは全く。あ、でも、川に関する都市伝説があるって聞いたことはあります」
「そうか。それは好都合だな」
「え?」
 私に答えず、ヨシュアさんは進む。

 私に答えず、ヨシュアさんは進む。
 ヘドロの悪臭に慣れ始めた頃、ヨシュアさんが止まった。
「よし、この辺でいいかな」

 彼が足を止めたのは、岸と岸を隔てる川がある場所だった。
 普段は進入者を阻むために、ここにも強力な結界が施されており、橋も解除されている。

 ヨシュアさんが川の上で手をかざすと、まるで蜘蛛の糸のように白い糸がより集まってくる。
 糸は見る間にしゅるしゅると伸び、岸を結ぶ橋になった。
 ヨシュアさんが軽やかな足取りで、橋の中心まで歩み、こちらに手を伸ばした。
「おいで」

 遠慮がちにヨシュアさんの大きな手を取ると、意外にも強い力でヨシュアさんの隣に引かれた。 
 私達の足元を轟々と流れる濁流を、しばし見下ろしていた。
 一体、何が始まるんだろう。

 おもむろにヨシュアさんが口を開く。
「知ってるかい? この渋谷川は、今でこそどぶ川になってしまったけれど、明治の始めまではとても綺麗な川だったんだって。毎年夏になると、蛍がそこかしこを飛び回っていたらしいよ。ほら、こんな風に──」

 ヨシュアさんがすっと指でコンクリートの川岸を指す。
 光の粒が、1つ地上から夜空へと浮かび上がっていく。
 儚げな光が、1つ、また1つと増えて、私たちの周りに温かい光が満ちていく。
「わあ……!」
 思わず歓声が漏れる。

 すごい。
 こんなにたくさんの蛍を見られるなんて、夢みたいだ。

 私が目を瞬いている間に、1つ、2つと光の数が増え、いまやあふれんばかりになっている。
 まるでミルキーウェイのようだった。

 いつの間にか足元の川も澄み切っていて、空気もずっと昔に感じた綺麗なものになっている。
 明治時代にタイムスリップしたかのような錯覚に陥る。
「江戸時代には夏の風物詩として、将軍に献上するほど美しいと評判の蛍だったそうだよ。気に入ったかい?」
「はい、とっても! だって私、蛍なんて見たのこれが初めてです! すごく綺麗!」
「そう、よかった」

 ヨシュアさんも優しく目を細めて、いとおしそうに幻想的な景色を見やる。
「君に、この景色を見せたかった……」

 溜息のような言葉を漏らしたヨシュアさんが、私の肩を優しく引き寄せる。
 気ままな光がそこかしこを群れる中、遥か上空で久し振りの満月が輝いていた。

 月の光が街の湿った地面を照らしている。
 既に雨はやみ、雨雲ははるか遠くへと押し流されていた。
 街に傘を持っている人は、どこにもいない。
 梅雨が明けようとしている──。




 2日後。

「先輩、ごめんなさい!」
 狩谷先輩と八代先輩の2人に手を合わせて謝る。
「はぁ!? またあの男に会ったわけ? バッカじゃないの! あたしらの苦労を……」
 今日もまたセンター街のフルーツパーラーで打ち合わせだ。

「違うんです! あの人、誤解を解くためにわざわざ会ってくれたんです。それに先輩たちが思うような悪い人じゃなかったんですよ」
 気象庁がつい先日梅雨明けを宣言し、日差しの強さがいよいよ夏に迫っているのを感じさせる、そんな昼下がりだ。

「悪い人じゃない? どういうことよ」
 気色ばむ2人の前には、特大のフルーツパフェがでんと置かれている。

「えっと、あの人は渋谷を改善するために外部から来てくださった、エージェントだったんです」
 私の前には、申し訳程度にお水と手つかずのアイスティーだけ。

「証拠はあるのカ?  佐倉ちゃん」
狩谷先輩の疑問はもっともだ。
 だからこそ、私はヨシュアさんに用意してもらった『証拠』をカバンから取り出す。
「はい、もちろん! これです」

 私は用意していた用紙をテーブルの上に広げる。
 先輩たちはそれぞれ用紙を読み進め
「ゲッ!」
 同時に目をまん丸にして声を上げた。
 驚くタイミングまで息ピッタリだ。
「何これ、コンポーザー公認のエージェントですって!? 相当優秀な人ってことじゃない。ご丁寧にコンポーザーと指揮者のサインまでしてある……」
「オイ、卯月。今回はまずいかもナ」
「ま、まずいで済むと思ってるわけ? 極秘のエージェントを危険因子だって決めつけたあげく、罠まで張っちゃったのよ。どうすんのよ!」
「あ、あの、そのことなら大丈夫です」
「ハァ?」

 また2人の声が重なる。
 思惑通りに事が進むせいで、湧き上がってくる笑いをかみ殺す。
「彼も自分の存在を公にさえしなければ、今回のことはなかったことしてくれるそうです。彼のこと、指揮者とかごく一部の人だけのヒミツみたいなんです」
「そ、そうなのカ?」
「そうです! 先輩達のことは、まだ誰にも話さない代わりに、それで相殺しようって。あと先輩達のこと、すごく褒めてましたよ。UGについて真剣に考えていて、仕事熱心ないい死神だねって。こっそり上の人に口添えしておくよとも言ってましたよ」
「何ですって! なんだー、あの人最初は怪しいと思ってたけど、いい人なんじゃない!」

 八代先輩が狩谷先輩の肩を思いっきりはたく。
 バシンといい音がして、狩谷先輩が目を白黒させる。

「グホッ……卯月、もうちょっと加減してクレ」
「うっさいわね! あんた男なんだからそれくらい我慢しなさい」

ヒドイ……と小さくなった狩谷先輩が、私に向き直る。
「とにかくこれで一件落着ってことで、いいんダナ?」
「はい! ……あの2人共、私のことをすごく気にかけてくれて、ありがとうございました。それにご迷惑をおかけして本当に申し訳ありませんでした。お礼に今日はおごりです。何でも召し上がってください!」

 私は頭を下げる。
 ヨシュアさんを追いつめることになってしまったけれど、路地から飛び出してきた時や、相談に乗ってもらっていた時、先輩達はいつも真剣に私と向き合ってくれた。
 だからささやかながらお礼をしたかった。
「あんた……おごるはいいけど、まだひよっこのくせに大丈夫なわけ? 気持ちは嬉しいけどさ」
 言葉では私を気遣ってくれているが、八代先輩の目はテーブルにデンと置かれた特大パフェ(1650円)に釘付けだ。
「はい。あの、この間お給料が初めて出たので、大丈夫です! 遠慮しないでくださいね」

 先輩らしい“配慮”を期待しているけれど、ここはぐっとこらえる。
 特大パフェと私とを交互に見て、先輩方はにっと笑った。
「遠慮しなくていいんだナ?」
「えっ、は、はい」
「よーし、じゃああたし、サンドウィッチも頼んじゃお。お昼まだだったのよねー。すいませーん!」
「えっ」
「オッ、卯月ズルイゾ。じゃあ俺モー」
「ちょっちょっと待ってください。そんなに頼んだら……」
「あ、そういえばここフラッペもおいしいらしいわよ」
「いいネー、食後のデザートに頼むカ」
「せ、先輩……」

 先輩達は私の抗議を軽く聞き流して、目をキラキラさせながらメニューをのぞき込んでいる。
 私の懐事情はともかく、
 今日も渋谷は平和だ。




 1時間後。

「ごめんなさい!」

 私は息せききって、ハチ公前に走った。
 あれから先輩達が注文しまくったおかげで、待ち合わせにギリギリになってしまった。
 汗だくでぜーぜー言っている私を、ヨシュアさんが携帯電話を閉じて上品に笑いかける。
「ギリギリセーフだね」
「よかった、間に合った……」
「でも困るなあ。せっかくの初めてのデートで、滑り込みセーフなんて。先が思いやられるよ」
「ご、ごめんなさい。先輩たちが容赦なく注文するものだから、時間がかかっちゃいました」
「今回は許してあげるよ。はい」

 目の前にライラック色のハンカチが差し出される。
 遠慮なく額に浮かんだ汗を拭う。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。それで今日はどこに行く?」
「映画! 映画を見に行きましょう」

 この間のリベンジだ。
 初めてヨシュアさんと映画を見た時は、無様な醜態を見せてしまったのだから、今度こそ大人らしくスマートなデートにしよう。
「ああ、前回は映画に集中できなかったものね。ホラーシーンやグロテスクなシーンにさしかかる度に、君が顔を隠してぶるぶる震えていたから」
「知ってたんですか!」
「知ってたよ。僕は笑いをこらえるのに必死だったもの」

 あの時のことを思い出したのか、ヨシュアさんが吹き出す。
「ひどいです! 声をかけてくれればよかったのに」
「いやいや、それだけホラー映画を堪能しているんだなあって思ったから。邪魔したら悪いでしょ?」

 真面目腐った顔を装っているが、どう見ても笑いをこらえている。
「そういう問題じゃないです」
「フフフ、それは失礼。今度からは気をつけるよ」
「もう」
「今日はホラー映画以外のものを見ようか。君は苦手みたいだから」
「そうしてください」

 むっつり答える私を、子供にするように頭を撫でるヨシュアさん。
 子供扱いしないで、と言えればいいけれど、これはこれで嬉しいのが複雑だ。
「じゃあ行こうか」

 ヨシュアさんに促されて、歩き出そうとしたら、急にこちらを振り向いた。
「っと、その前に……」
「ん?」
「君の名前は?」
「え?」

 わけがわからない。
「知ってたんじゃないんですか!?」
「知らないよ。だって今まで君を名前で呼んだこと、なかったでしょ?」
「コンポーザーなら部下の名前くらい調べられるんじゃ」
「何言ってるの。そんな野暮なことしちゃ台無しじゃないか。君に直接聞くことに意味があるんだから。それに、僕はこの瞬間のために我慢してたんだから。お楽しみは後にとっておかなきゃね」

 ヨシュアさんがご褒美を待つ子供のような目で、私を見つめる。
 本当にこういうところが、彼らしいというか、何というか。
 思わず顔をほころばせながら、私はヨシュアさんに向き直った。
「 佐倉、ユウです」
「佐倉ユウ君か。よろしくね、佐倉ユウ君」
「こちらこそよろしくお願いします。ヨシュアさん」

 どちらともなく手をつなぎ、私たちは歩き出した。
 歩いていくうち、ここ1ヶ月に起こった色々なことを思い出した。

 初めて出会った雨の日のカフェ。
 先輩達の心配する顔。
 ヨシュアさんと映画館のカフェで語り合ったこと。
 先輩達からヨシュアさんを逃がしたこと。
 ずぶぬれの私をヨシュアさんが抱きしめてくれたこと。
 カフェで私に試練を出したヨシュアさんの厳しい顔。
 そして、渋谷川で見せてくれた、失われた景色。

 あの日見た天の川に、私はこっそり『ヨシュアさんとずっと一緒にいられますように』と願ったけれど、間違いだった。
 祈るだけではなく、自分なりに努力したからこそ、ヨシュアさんが私の隣にいてくれる。
それが無性に嬉しい。
「ほら、ぼーっとしてると危ないよ」
「あ、はい」

 回想を頭から振り払い、ヨシュアさんに導かれるまま、私も歩き出す。
 陽の光が歩く人々を照らして、街をキラキラと輝かせている。
 まるで渋谷川で見た、ミルキーウェイのように。
 光の川の中を、私たちは手をつないでどこまでもいっしょに歩いた。

Sky After The Rain 完