Sky After The Rain
-第6話 霧に紛れた未来のように-

細かい雨粒が強い風に乗って降り注いでいる。
注意深く傘を差していてもいつの間にか体が湿っているような、そんな雨だ。

彼と出会ったのも、こんな風に静かな雨の降る日だった。
雨が降っているからって、彼に会えるとは限らない。

それでも私は、彼に会いたかった。
あの穏やかなほほえみと、からかうような声が恋しかった。
「…………あ」

彼のことを考えていて、気が付いた。
名前を呼べない。
私は彼の名前すら知らない。
彼のことを、何も知らない。
それでも、名も知らぬ彼が恋しかった。
キャットストリートの、彼と初めて会った場所に向かう。
そこに彼がいるはず、ないのに。




──あの日、彼を逃がした直後。
先輩達は電話で話していた袋小路とは全く違う場所から飛び出してきた。
「 佐倉、あんた大丈夫だった!? 狩谷は例の男が戻ってこないか見張って!」
「アイヨー」

鬼気迫る表情でかばうように私の肩を抱いてくれた八代先輩に比べて、いつも通りのマイペースな狩谷先輩が、緊迫した空気の中で少しだけ浮いて見えた。
「ンー、西部戦線異状ナシー。ヤッコさんが戻ってくることはないと見て大丈夫ダロ」

しばらくして狩谷先輩が、こちらに戻ってきた。
「大丈夫カ?  佐倉ちゃん。飴でもなめてリラックスしろヨ」

そう言って狩谷先輩は魔法のように、どこからともなく棒付きキャンディーを取り出して、私の手のひらにそっとのせてくれた。
「で、 佐倉ちゃんに怪我ハ?」
「見た感じ、外傷はなし。ちょっと混乱してるみたいだけど、ま、時間が経てば治るでしょ」

さっきまでの真剣な表情から、いつものちょっとツンとした表情に戻っていた。
「あの……なんで追わないんですか?」
「ン?」「はぁ?」
「だって、先輩達はあの人がUGの危険人物だから、捕まえてやろうって思ってここで張ってたんですよね? だったら、チャンスだったでしょ」
「あんたねえ、確かにUGの危険因子ではあるけど、それ以前にあんたが危なかったのよ?」

八代先輩が呆れ返った様子で言う。
「ソーソー。俺らだってUGや手柄しか見てないわけじゃないんサ。ヤッコさんの身柄確保が第一なら、上に通報して取り押さえてもらうのが手っ取り早いデショ? オオゴトになる前に、 佐倉ちゃんを守ろうとしたわけサ」
「あ……」

『佐倉ちゃんの気持ちもわかるけど、今回は俺達だけの問題じゃナイ。まして、UGだけの問題でもないんだゾ』
『そうよ。UGどうこう以前に、あんたが狙われてる可能性だって高いのよ!』

先輩たちの言葉を、急に思い出した。
先輩たちは彼を捕まえることで頭がいっぱいなんだと、ずっと思い込んでいた。
 でも、そうじゃなかった。

馬鹿だ。
こんなに先輩たちに心配してもらっていたのに、それにも気付かないで悪者扱いして。
私は本当に馬鹿だ。
馬鹿、馬鹿と自分を罵っている間に、ポロポロと涙がこぼれる。
泣いている理由が、悲しいからか、安心したからか、悔しいからか、自分自身でも分からない。
「何よ、あんた何で泣いてんのよ」

つっけんどんな口調の八代先輩の、背中に回してくれた手付きはとても優しかった。
「ごめ、なさ。私、先輩たちが、ずっとあの人のこと捕まえることしか、頭にないって決めつけてました」
たどたどしい喋り方に、我ながら情けなくなる。

当の先輩たちは顔を見合わせて苦笑いをしているようだ。
「気にスンナ。俺らも事情話さなかったんダカラ」
「先輩を疑ってかかるって、あんた後輩としてどうなのよ、それ」

優しい言葉をかけてくれる狩谷先輩に、全く逆のことを言う八代先輩。
かけてくれる言葉は違うけれど、2人共私を心底心配してくれていることが、痛いほど伝わってきた。
「今回は大目に見てあげる。でも次はないからね。覚悟しなさいよ。ほら、いい加減顔上げなさいよ!」

私の背中を撫でていた手で、気合を入れるように1度だけぱんと叩く。
必死で涙をぬぐって顔をあげると、八代先輩がハンカチを突き出していた。
らぱんちゃんが薄紫色のガーゼの上で笑っていた。


彼はもう私の前に現れることはないだろという先輩たちの目算で、上層部への通報はせず今回のことはこのまま忘れることになった。
本当なら報告だけでもしておいた方がいいのだろうが、先輩たちは私を気遣って彼のことを公にしないでくれた。

きっと、先輩たちは私の気持ちに気付いていたんだろう。
だから多少の危険に目をつぶって、私の気持ちを配慮してくれたのだ。
なるべく私が傷つかないように、せめて綺麗な思い出だけ残しておこうという“配慮”。

あんなことがあったのだから、普通はいい加減こりるはずだ。
なのに私はここで来るあてのない彼を待っている。
あの一件で改めて、先輩たちは後輩思いのいい先輩だとわかった。

でも、やっぱり私は彼が好きだ。
さっさと諦めてしまえば、楽になれるかもしれない。
でも忘れるなんて、できるわけがない。
1度自分の気持を知ってしまったら、止めようがなかった。




雨は変わらず、静かに降っている。
キャットストリートの片隅にある名前の知らないカフェは、あの時と同じように閉まっていた。
カフェの前に彼はいなかった。
当たり前だ。
そう都合よく、彼に会えるわけがない。ないのに、私は何を期待しているんだろう。
「はあ……」

扉に体を預けて、通りを眺める。
雨が降り出したせいもあって、人影もまばらだ。
濡れた体で屋外にいるせいで、随分寒いような気がした。
むき出しの肩を抱くと、冷たくなっていた。
上着も羽織らずノースリーブでぶらついたことを後悔した。
向こうの大通りで、水たまりを跳ね飛ばしながら、車がいくつも走り抜けていく。
「やあ、また雨宿りかい?」

え!?

伏せていた目を開くと、魔法のように『彼』はいた。
彼が私を狙う敵かもしれないとか、それなのに彼のことが好きなことが先輩たちに申し訳ないとか、ごちゃごちゃした気持ちが、吹き飛びそうなくらい驚いた。
「今日は随分、水もしたたるイイ女になってるね」
「何で……ここに」

私の疑問が、無意識に口をついて出た。
「偶然通りかかったら、知り合いのカフェの前でずぶ濡れの女の子がいて、気になって近づいてみたら君じゃないか」
「あ……」
「今日は僕が君にハンカチを貸す番だね」

私の格好を見下ろすと、彼はポケットからスマートな手付きで、インディゴブルーのハンカチを取り出し、私に手渡してくれた。
「なにかあったのかい?」
「なにかあったように、見えますか?」
「うん、僕でよかったら聞いてあげるよ。今日は暇だから」

そう言って目を細めた彼を見た途端、私の中で今までこらえていた何かが弾ける音がした。
彼に私の抱える全てを、預けてしまいたい。そう思えるほど優しい笑顔が途端にぼやけて見えなくなってしまった。
「そんな顔をしないで欲しいな。どうしたら、泣き止んでくれるかな?」

少し困ったような笑顔で、私に聞いてくる彼。
笑って謝って、大丈夫ですと言って、安心させたいのに。
喉がつぶれたように、声が出ない。
凍りついたように顔が動いてくれない。
ぐすぐす情けなく泣いているしかなかった。

彼が近付いてきた。
ふっと視界が暗くなったと思ったら、私の頭に腕が回されていた。
えっ、と思った矢先に、なにか温かいものに押し付けられる。
温かいものの正体が、彼の胸板だと気付くのに、大分かかった。
「あっ、ごめんなさい! せっかくの服が濡れちゃう」
「気にすることないよ。服はクリーニングにでも出せばいいし。この間なんかずぶ濡れでも平気で歩いてたでしょう?」
「でも……」
「それじゃあこの間逃がしてくれたお礼っていうことで」

そう言いながら、彼は私の濡れた頬と髪を撫でる
彼の手も、胸も温かかった。
風はまだ吹いているし、雨も止んでいない。
それでも彼がそばにいるだけで、先程の寒さが嘘のように霧散していた。


雨はしとしとと降り続いている。まるで永遠に止むことのない雨のようだ。
そしてそんな雨に囲まれて、私は彼に抱かれている。
顔を押し付けられた彼の胸が、呼吸するたび上下する。
彼の体温やほのかにただよう香水の香りが、私の心を落ち着かせてくれた。
ずっとこのままでいたい。
「いつまでも、こうしていようか」

私の心を見透かしたかのようなタイミングで、彼が言う。
彼の優しい声で、冷え切った心が溶けていく。
でも、私には彼に隠していることがある。
こんなにも優しくされているのに、隠し事のせいで全部を預けることができない。

彼の腕の中で、私はそっと首を横に振った。
そっと顔をあげると、彼の穏やかな目と目が合う。
私の額にかかる濡れた髪を、彼の細長い指がそっとかき上げた。
「お願いがあるんです」
「なんだい?」
「あなたの名前を、教えてもらえませんか?」
「名前?」

彼が目を丸くして首をかしげた。
「名前を知らない人を、探すのも待つのも辛いです」
「…………誰にも言わないでくれるかい?」
「約束します」

こくりと頷くと、彼の唇が耳に近付く。
「ヨシュア、だよ」
「よしゅあ……、ヨシュアさん?」

私が復唱すると、嬉しそうに笑みを深めた。
「そう、そうだよ。ただ僕の名前を呼ぶときは、君のお友達がいないときにしてくれるかい?」
「お友達?」
「ピンクの髪の女の子と、飴が大好きな彼、2人とも君のお友達でしょう?」

私は息を呑んだ。
ヨシュアさんの言っている友達は、八代先輩と狩谷先輩たちのことだ。
「ごめんなさい。気付いてたんですね」
「詳しいことは今は聞かないでおくよ。それより君は早く帰った方がいい。こんなずぶ濡れのままでいたら、風邪引くよ」

そう言うと、羽織っていた上着を脱いで、自然な動作で私の肩にかけてくれた。
「ちょっと待ってて。さっきタクシーを呼んだから、それに乗っていきなよ。多分すぐ来ると思う」

ヨシュアさんの言うが早いか、タクシーが通りから滑り込むように私たちの前に止まった。
ヨシュアさんと離れたくないがためにささやかな抵抗をしたけれど、やんわりとけれどちょっと強引に彼の手によってタクシーの中に押し込められられてしまった。

不服そうな顔をする私のために、ヨシュアさんは窓から手を差し伸べて私にシートベルトを締めてくれた。
彼が身動きするたび、彼の柔らかい髪と息が私の肌をかすめて、どきどきしてしまう。
そして少しいい匂いがほのかに漂う。
香水……かな?
さっきはこんなものじゃなかったのに、今更密着していたことを意識して、顔が赤くなってしまう。

すぐにシートベルトは締め終わり、ヨシュアさんの腕は外へ出ようとしてしまう。
何故だかもう2度と会えない予感がして、反射的に私はヨシュアさんの手首を掴み、叫ぶように問うた。
「また会えますか!?」

ヨシュアさんはかがんで私の耳元に唇を寄せる。
「3日後のこの時間に、今日と同じ場所に来て」

最後に私ににっこり微笑んでから、運転手に目配せすると、心得ておりますと言わんばかりに運転手が頷き、タクシーが発車する。

体をよじってヨシュアさんを振り返ると、先程に比べて雨は小ぶりになっていた。
ちらほら晴れ間が覗く雨雲の中、ヨシュアさんが手を上げて笑いかけていた。
気まぐれに手を軽く振ったり、握る仕草をしたりしている。
私も手を振り返す。
ヨシュアさんは、見えなくなるまでずっと手を振り続けていた。