レインノイズ

職員室の窓の向こうは、今にも雨が降り出しそうだった。
できれば降り出す前に学校を出てしまいたいが、今日は無理かもしれない。
俺は担任に呼び出されて、放課後職員室に来る羽目になった。
粗末な丸椅子に座らされ、担任と向かい合っている。
少し身動ぎすると、丸椅子が耳障りな音を立てた。

早く用件を切り出して欲しいのに、担任は「ちょっと待て」と言って、自分の仕事をしている。
担任はしきりに黒フレームのメガネのずれを直しながら、事務机に向かっている。みじろぎするのに合わせて、立派な下っ腹も跳ねた。

まだか。

そう思っていると、やっと終わったらしい。
俺の視線に気付いた担任は、ウォッホンと咳払いをして、引き出しをあさり始める。
せわしない人だ。
探し物を見つけ、俺の前にプリントを置いた。
再来週から始まる、三者面談のプリントだった。
もう一度咳払いしてから、担任はようやく本題を切り出す。
「桜庭、ご家族の方は何て?」
俺の正面で、担任の教師が苦い顔で尋ねる。
「母は仕事の都合がつかないので、三者面談には来られないそうです」
「桜庭の家は確かお母さんひとりだったな。普段から忙しそうなのか?」

無言で肯定すると、担任ははぁーと長いため息をついて、頭を掻いた。
「確かにご家庭には色々事情があるだろうが、それでもなーお前の進路に関する大事な面談なんだぞ」
最近こういう親御さん多くてなー、と、担任の愚痴が続く。

親を非難されることはもう慣れた。
母さんはいつも多忙で、家を何日も空けることも少なくなかった。
「お母さん、いつもあなたのために働いているのよ」と言われたこともあったが、成長するにつれ、母さんの言葉はあくまで言い訳でしかないと気付いた。
母は仕事が好きだったんだ。

家庭の内情を知った大人が、知ったような顔で『かわいそうにねえ』だの『寂しいでしょう?』と聞いてくるのが、腹立たしかった。
俺が物心つく前から、母さんは不在にしがちだったから、両親の不在を寂しがることはなかった。
ただ、まだ一人で留守番できないような小さい頃に、よく来てくれたシッターさんが、小学校中学年になる頃、こなくなってしまったのは、少し寂しかったが。

ウォッホン

わざとらしい咳払いで、我に返った。
「まあ来られないものは仕方ないが、ところで……進路調査の用紙を読んだが、専門学校志望っていうのは本当か」
「ええ。なるべく早くからデザインについて学びたいので」
少し誇らしげに答えてみせる。
だが担任は頭をかきむしり、重いうめき声を上げた。
「お前の成績はかなりいい。それをいきなり専門学校に行くのは少しもったいないんじゃないか?」

担任は受験生なら一度は聞いたことのある進学校をいくつかあげて、俺の成績なら充分安全圏だと断言してみせる。
たたみかけるように、担任は他の生徒のほとんどが普通高校を目指す中、専門学校を選んだ俺を間接的に責め、そして子供の将来に関わる重要な面談に、赴くことさえしない俺の母をなじった。

だからなんだと言うんだ。
俺は自分で目標を決めて、達成するための通過点として、専門学校への進学を決めた。
目的もなく、ただ周りに促されるまま受験するやつより、よほどましじゃないか。
それをもったいないと言われることだけは、我慢できない。
俺の目標は、今から努力しなきゃ、絶対に届かないと知っているから、専門学校へ行きたいのに。

内心を表情に出さないよう努め、担任の話を聞いているふりをする。
いつになったら長い愚痴は、終わるのだろうか。
「先生、日誌書き終わりました」
「おお 佐倉か。日直ご苦労さん」

担任の愚痴が、突如やってきた女子のおかげで中断する。
こいつは俺も知っている。
最近ひょんなことから、たまに話をするようになった同じクラスのやつだ。

といっても、俺のテリトリーにこいつがいきなりやってきただけなんだが。
最初はやたら俺を警戒していたくせに、少し打ち解けるようになったら、意外とうるさいやつだと分かった。

そしてこいつも他のやつらと一緒だった。
今まで安穏と暮らしてきたのに、周りの雰囲気に流されて焦り始める。
友達と仲が良いフリをするのに疲れて、屋上にこそこそ逃げ込む。
そのくせ俺と少し話しただけで、わかったような顔をする。俺の何も、わかっていないくせに。
そうやって毒づいてやろうとした時、俺は気付いてしまった。


『桜庭君は今私と一緒にいて話しているのは、嫌なの?』

俺に問いかけた時、こいつの声は相当切羽詰っていた。
表情は平静を装っていたけれど、どうみても虚勢だった。

俺のテリトリーから追い出そうとしていたのに、何故かしてはいけない気がした。
もし辛辣な言葉を浴びせたら、取り返しのつかないことになる予感がしたのだ。
だから『嫌じゃない』と答えてやった。
するとこいつは子供みたいに喜んで、あげくCATの新作を一緒に買いに行く約束までしてしまった。
いつでも反故にできる、たわいもない約束だが、少し後悔していた。

「じゃ、そういうわけだから桜庭、お母さんにちゃんと話しといてくれよ」
「失礼します」

礼もしないで、傍らに置いたかばんを手に取る。また愚痴に付き合わされてはたまらない。
何を言われても聞くまいと、早足で出口に向かう。
背後でわざとらしいため息が聞こえた気がしたが、空耳だ。

扉に手をかけようとした時、ばたばたとうるさい足音が、俺を追いかけてきた。
「桜庭くん、よかったら一緒に帰らない?」
息せき切って俺に話しかけてきたのは、佐倉だった。

またこいつか。
何で俺がお前と帰らなきゃならないんだ。
「俺、帰りは一人でって決めてるから」
「私日直で、友達みんな先に帰っちゃったの! お願い、今日だけでいいから」
両手を顔の前で合わせて、やたら通る声で俺に哀願する。
「だから」
「だめ……?」
そう言って、こいつは不安そうに俺を見上げる。
職員室のそこかしこから、微笑ましいわね、と言わんばかりに忍び笑いが聞こえてきた。
カッと顔が熱くなるのを感じた。

ああ、くそっ! なんでこんなことに。

そのうちお節介な誰かに「一緒に帰ってあげたら?」と声をかけられそうだ。
「勝手にしろ」
「ありがとう!」
俺がやけっぱちに答えると、こいつはぱぁっと顔を明るくさせた。

ぴしゃりと扉を閉めて、昇降口へ急ぐ。
当然のようにこいつも俺の横についてくる。
たかが一緒に帰る人間がいないだけで、よく情緒不安定になれるものだ。

靴を履きかえ、昇降口を出ようとした時には、やはり雨が降り始めていた。
雨足はさほど強くないが、当分しとしとと降り続けるだろう。
……雨が降る前に帰りたかったのに。
ため息をこらえて、傘立てから自分の傘を引き抜く。

傘を指す前に、カバンからヘッドフォンを取り出して、耳にかける。
どうせこいつも一緒なんだ。音楽はかけないつもりだが、ヘッドフォンをつけているだけで気持ちが落ち着く。
俺の後ろで傘をもたもた開いているのを無視して、さっさと歩き出す。

待ってとかそんな風に声をかけられた気がしたが、ヘッドフォンをしていてよく聞こえなかった。
静かな雨音に混じって、泥水をはねとばす音が追いかけてくる。
特に話題もなかったから、俺は黙って歩いた。
しばらくすると、しびれを切らしたように俺に顔を近づけて、普段より大きい声であいつが話しかけてきた。

「桜庭くん、そのヘッドフォンよく使ってるね。音質いい?」
「当たり前だ。このヘッドフォン、誰がデザインしたんだと思ってるんだ?」
「CATでしょ」

俺の愛用するこの青いヘッドフォンは、人気デザイナーのCATがデザインを手がけた。
CATデザインというだけで飛びつく人間も多い中、『機能性とデザイン、そして話題性もかねそろえたクールな一品』『数量限定』と煽られ、瞬く間に売り切れてしまった。
俺にとって、あと少しで完売となるところを、ギリギリ購入できた奇跡の一品と言ってもいい。
だから毎日つけている。
それにヘッドフォンをつけているだけで、CATのメッセージが、『もっと楽しめ』と囁く声が、聞こえてくる気がするから。

CATの作品は、いつも俺に囁き続けている。『もっと楽しめ』『もっと楽しめ』と。
しかし、ファンの中でCATのメッセージを受け取っている人間は、そう多くないのではないか。
CATファンを自称する人間は、CATが新作を発表する度、勝手な解釈をかぶせていく。
勝手な解釈がどんどん作品にまとわりついて、CATの本当に伝えたいことが消えてしまいそうな錯覚さえ感じるほどに。

でも、CATは気にしない。
どんなに的外れなことを言われても、時に心無い批判をされても、CATは変わらない。
全力で今を楽しみ、自分のスタイルはそのままに突き進んでいく。
そんなCATのスタイルが好きで、眩しくて、だから俺はCATの作品に触れるだけで、わくわくする。
「そのヘッドフォン、実は私も欲しかったんだけど、タッチの差で売り切れちゃってさー。いいなー」
「お前も狙ってたのか」
「うん。CATの作品を肌身離さずつけていられるってだけで、魅力的じゃない!」

今のんきに笑っているこいつだって、本当にCATの魅力を理解しているかは怪しい。
俺のヘッドフォンがCATのものだと見抜いたこと、CATがデビュー間もない頃に発表したレアなグッズを持っていただけ。
だから俺は試すつもりで、聞いてやった。
「お前は、CATのどこが好きなんだ?」
「やっぱりデザインが好きだな。一つ一つの作品によって作風がコロコロ変わるところが、見ていてすごく楽しいっていうかさ」
「それだけか?」

意地悪に追求してやると、こいつははにかんだ。
恥ずかしいとかごにょごにょ言い逃れようとしていたが、諦めたように口を開いた。
「……だいぶ前に何かの雑誌で、CATのインタビューを読んだんだけど、その中でね、CATがこんなことを言ってたんだ。『私の作品には全力で今を楽しめというメッセージが込められています。これは私の生きていく上でのモットーでもあります。私の作品と共にあれば、あなたはひとりじゃない。どうか違いを恐れず、人とぶつかり合って、今を楽しんでください』って。
その記事を見たとき、私学校で友達とうまくいっていなくて、本当に悩んでだ。
でもCATのメッセージを読んで、嬉しかったの。ひとりじゃないとか楽しめとか、言われたこと、なかったから。そこから私、CATが好きになったの。CATの作品を見てると、今をもっともっと楽しめって励ましてくれてる気がしてさ」

そして学生鞄から、携帯電話を取り出してかざして見せた。
少し前に屋上で俺に見せたCATのストラップが、街灯の光に反射する。
「それでこれを持ってたら、私もCATみたいにいろんなことを楽しめるようにできるって思って。だから私、携帯には必ずこのストラップをつけるようにしてるんだ。はじめて買ったCATの作品だから。ま、まあ、思い込みかもしれないけどね! こういうのなんて言うんだっけ。そ、相乗効果?」
「プラシーボ効果……」

やっぱり馬鹿だった。

でも俺の身近で、CATのメッセージをちゃんと受け取っている奴がいるとは思わなかった。
そしてただCATのレアグッズだから自慢していたわけではないことも、よくわかった。
こいつにとって、CATのストラップはお守りであり、特別な存在なんだ。俺にとってのヘッドフォンや、宇田川町の壁グラのように。

しばらくCATのインタビュー記事や作品について、語り合った。
雨は止むことなく、ささやかに降り続けていた。
雨音は会話の妨げにならない程度の、ちょうどいいBGMだった。

こいつに以前、将来の夢はあるかと聞かれた時、ないと答えたが、実際にはある。
話したところで、理解されないことは火を見るよりも明らかだったから、話さなかっただけだ。

俺の夢は、CATのように自由に生きて、周囲をあっと驚かせられるようなアーティストになること。
『CATのようなアーティストになりたい』なんて、いきなり言われたら、誰だって鼻で笑うだろう。
だが、今はそれでいいんだ。
結果は後からついてくる。
だからそれまでは、他人の目なんか気にせずただ黙々と努力すればいい。

足元でぱしゃりと水音が弾ける。
もし、今こいつに俺の夢を語ったら、どう答えるだろう。
今のこいつなら、俺の夢を肯定してくれるかもしれない。

十字路にたどり着いた時、俺たちは同時に足を止めた。
奇妙な沈黙が少し流れたあと、こいつは俺の進行方向とは逆を指さした。
「あ、私、こっちなんだ。桜庭君は?」
「俺、こっちだから」
「そっか。じゃあここまでだね。今日はありがと。無理言ってゴメンね。それじゃまた明日」
「ああ」

あいつの赤い傘は、俺に背を向けて去っていく。
さて今日はどうするか。
宇田川町までそれほど遠くないが、雨の降っている日は行くかどうするか迷う。
もしも晴れていたら、あいつにも声をかけて、壁グラを見せてもよかった。
あの壁グラを見たら、あいつはどんな反応をするんだろう。何を感じるんだろう。

そしてもしも俺の夢を語ったら……。
俺が今を楽しむことを、許してくれるだろうか。
担任の前では、決意表明のために専門学校へ行くと宣言した。

実際は、不安で誰かに肯定して欲しいのかもしれない。
CATのスタイルに憧れているが、そのスタイルを俺にも実行する資格があると。

誰とも共有したことのない、楽しくも、悲しい、辛い記憶。
記憶を思い出す度に、俺は今を楽しんではいけないと歩みを止めてしまう。
CATはこんなに励ましてくれるのに、俺はずっと足踏みをしている。

どんなに辛くても、俺はこの記憶をひとりで抱え続けなくてはいけない。
なのにそれを誰かに打ち明けて、許しを請うのは、甘え以外の何でもない。

少しずれてしまったヘッドフォンの位置を直す。
カチャリと音を立てる。
音楽をかけようとプレイヤーに手を伸ばしかけて、やめた。
今日はこのまま雨音を聞いていたい気分だった。

そういえば、あいつは俺と担任の会話を聞いていたのだから、俺の事情も知ったはずだ。
なのに俺の家庭について何も聞いてこなかったことに、好感が持てた。
あいつは、俺の思うほど悪い奴ではないのかもしれない。
そして、俺と同じようにCATに励まされながら、今日を生きている。
俺はもしかしたらひとりではないのかもしれない。そう思った。