キャット・ピープル

「おはよー」
「おはよ」

朝の学校は騒がしい。
真面目に予習をしている生徒もいれば、芸能人の話題で盛り上がる生徒もあり、朝礼までの余った時間の過ごし方は様々だ。

そんな中、オレンジ色の髪の男子生徒が入ってきた。私の隣の席の、桜庭音操君だ。
周りのクラスメートは扉が開いたときにちらっと桜庭君を見ただけで、後は特に気に掛ける様子もなく友達と盛り上がっている。
桜庭君も誰にも声を掛けることなく、自分の席に向かった。
肩から下げた学生かばんを重そうに机に下ろして、つけていたイヤホンを外す。
隣に座る私は、桜庭君に声をかけようか悩んだ。

しかし、悩むだけである。
同じクラスになって3ヶ月近く経つのに、この無口な隣人と話す機会は、1度も無かった。
それは私以外のクラスメイトも、ほとんどが同じだと思う。

桜庭君自身が他人との接触をかたくなに拒否しているのだ。
学校が始まったばかりの頃は声をかけられていたが、桜庭君は必要最低限の言葉だけで会話をシャットアウトさせ、いつしかクラスメイトも話しかけなくなった。
今の桜庭君は、登校しても誰かと話すこともなく、黙々と授業を受けているだけだ。
5月頃までは彼の消極的な態度を悪く言うクラスメイトもいたが、今ではそれさえなくなった。
自然とクラスの枠から桜庭君が抜け落ちそうになっていた。
友達どころか、話す相手さえいないという状態は、きっと私には耐えられないだろう。

しかし人を極端に拒む桜庭君の気持ちは、私にもなんとなくわかった。
四六時中誰かといることを強制されるような人間関係に、私は息苦しさを感じていたのだ。

1人になりたい。
私は休み時間が来るたび、いつも思っていた。そして私は、ようやく1人になれる場所を見つけた。
そこは学校の屋上だった。
薄暗い踊り場にある重い扉を開けば、打ちっぱなしの床と少しの雑草とコケしかない、殺風景な景色がある。
屋上には、以前亡くなった生徒の幽霊が出るという噂があり、そのせいか滅多に人は来ないのだから、好都合だ。

私は3日に1度くらいの頻度で、昼食を屋上で取るようになった。
1人でいるからと言って、特別なことをするわけではない。
音楽を聴きながらお弁当を食べたり、本を読んだりするくらいだ。
今のところは屋上で、誰にも出くわしたことはなかった。
あの日までは──。




いつものようにお弁当を膝の上に広げ、さあ食べようと思った矢先、突然今まで開くことのなかった扉が開いたのだ。
重い音を立てて、扉が完全に開く。
闖入者が現れるとは思ってもいなかった私は、じっとそちらを凝視していた。

そこにいたのは、パンを抱えた桜庭君だった。
桜庭君は私を見た瞬間、心底驚いた顔をした。多分私も同じような表情だったと思う。
私は彼と初めて真正面から目を合わせた。

しかし、桜庭君はすぐに不愉快そうに唇を結んで、視線を外してしまった。
何故先に来ていた私が、そんな顔をされなければならないのだろうか。
むしろこっちが嫌な気分なのに、と内心嫌な気持ちだった。
戸惑う私を気にすることなく、桜庭君は私からかなり距離を置いた場所に腰を下ろす。
しばらく桜庭君の様子をこっそりうかがっていたが、本人は全く気にする様子も無く、パンをかじり始めた。

警戒しているのがいい加減アホらしくなって、私もご飯を食べることにした。
何か話しかけてくるだろうかと思ったが、そんな機会はなかった。
桜庭君は私と視線を合わせないように、伏し目がちになってパンを咀嚼している。全くおいしくなさそうな顔をして食べているので、せっかくのサンドウィッチがもったいない。
あれは購買で買ったのだろうか、それともコンビニでだろうか。
そんなことを考えていると、桜庭君が視線に気付いたのだろう。迷惑そうに私をにらむ。
あわてて私もあらぬ方に視線を向けると、桜庭君はまた顔を下に向けた。

普段はもっと時間をかけて、お弁当を味わっているのだが、今日に限ってすぐに食べ終えてしまった。
いつもなら授業時間前ぎりぎりまで、ここでくつろぐのだが、今日は桜庭君がいる。
妙な居心地の悪さを感じ、私は屋上からそっと抜け出した。
扉を開けて出ようとした時、桜庭君が私を見ていた気がした。




そして時間は経ち、6月になった。
6月は学生にとって1番憂鬱な時期だと、私は思う。
雨の日が続くだけでもうんざりするのに、6月は祝日がないから他の月と比べて、休みが極端に少ない。
体育祭は先月終わり、イベントが全く無く、とても味気ないのがこの6月なのだ。
こんなことを考えているのは、今受けているのがあまりに退屈な授業だからだ。
生徒のため息の理由を、ぎゅっと凝縮させた1ヶ月が始まった。

桜庭君と会った日以降も、私はたまに屋上に行っている。
雨の日に傘をさしてまで行くような物好きではないので、ここ1月は天気がいいとき限定だ。
また、お弁当を食べるのが、1人のときもあれば、2人のときもあった。
もちろんお昼が一緒だからと言って、お弁当のおかずを交換するどころか、話したことさえ1度も無い。

随分私を警戒していた桜庭君は、少しずつ態度を軟化させていった。
私と鉢合わせしても、嫌そうな顔をしなくなり、極端に離れて食事をとる事もなくなった。
そして私も以前のように、桜庭君がいるからといって、早くご飯を切り上げないようになった。
誰かといるときに無言だと、とても居心地が悪くなる。
だが、桜庭君と言葉を交わさずに、2人で違うことをしながら過ごす時間に、私は自然とくつろげるようになった。

しかしながら、いくら心安らぐ時間でも、そばに誰かがいたら話してみたいと思うときがある。
話しかけたいのは山々だが、きっかけが見つからなかった。
それに、今まで散々他人とのコミュニケーションを嫌がっていた桜庭君に話しかけるのは、なんとなくタブーのような気がした。
何かきっかけがあればいいのに、と思いながら、私は隣の席に座る桜庭君に、ちらっと視線を送った。
本人は私に見られていることに気付かず、真剣な表情で板書をノートに写していた。




そんなある日、桜庭君がイヤホンをヘッドフォンに変えて登校した。
よくよく見てみれば、桜庭君のヘッドフォンは、今人気のデザイナーCATがデザインしたものだ。発売された当初から人気で、今では手に入りづらくなっている。
もしかしたら、このヘッドフォンが、桜庭君と話すいいきっかけになるかもしれない。
大事そうにヘッドフォンをしまう桜庭君を見ながら、私は昼休みが待ち遠しくなった。


昼休み。
昨日まで雨が降り続いていたので、もしかしたら地べたに座れないかもしれないと心配したが、大丈夫なようだ。
地面にたまっていた雨水はすっかり乾き、十分昼ごはんを食べられるくらいになっていた。
定位置に座り、弁当箱を開ける。

桜庭君は来るだろうか。

少しそわそわしながら、食べていると、やはり桜庭君は来た。
今朝と同じように、耳にはヘッドフォンがかけられている。
どのタイミングで話しかけようかとドキドキしながら、桜庭君を見つめる。
桜庭君がいつもの場所に座ったところで、私は意を決して話しかけた。
「桜庭君」

話しかけられた当の本人は、はじかれたように顔を上げる。
まっすぐ注がれる視線にひるみながら、私は続けた。
「それ、もしかしてCATデザインのヘッドフォン?」

ついに話しかけちゃったと興奮する気持ちと、取り返しのつかないことをしてしまったと思う気持ちで、私は顔が赤くなるのを感じた。
桜庭君はといえば、相変わらず珍獣を見るような目で、私を見ている。
私が不安になるころ、桜庭君がぶっきらぼうにつぶやいた。
「……そうだけど」

だからなんだよお前には関係ないだろなんで話しかけるんだよ
桜庭君の心の声が聞こえた気がして、少しひるんだけれど、会話の種が枯れないうちに、私はすかさず話しかける。
「やっぱりそうだったんだ。そのヘッドフォン、今すっごい人気でしょ? よく買えたね」
「並んで、買ったから」

桜庭君は私に見られているのを気にしてか、ヘッドフォンの位置を居心地悪そうに直している。
「並んで?」
「……そうだけど?」

驚いて聞き返す私を、だからなんだよ、と言いたげに桜庭君がにらみつける。
「あ、ごめんね。実は私も、CATのデザインしてるキーホルダー、結構前に並んだことがあるんだ。……ほら」

かばんの中から、キーホルダーを探って取り出す。すると、桜庭君の顔が変わった。
「それ、もしかして、2年前に出た限定のグッズか?」
「そうだよ。桜庭君、通だね! これ、なかなか知ってる人がいなくてさ」
「知ってる。2年前と今のCATでは趣向が全く違うから、今のCATしか知らないやつには、絶対見分けられない」

CATのことを話す桜庭君は、いつもより少しいきいきして見えた。
これはいけるかもしれないと、しばらく私はCATの話題を振った。
お互いに昼食をもそもそ食べながら、今まで買ったCATのグッズや好きな作品について話し込んだ。
話しこんだと言っても、盛り上がったわけではなく、私が何か言えばポツポツ桜庭君が返してくれる程度のことだ。
それでも桜庭君とは今までと比べて、随分打ち解けることができたと私は思う。

昼食を食べ終える頃には、すっかり意気投合していた。
「あー、なんかここまでCATで盛り上がれる人がいるなんて、思わなかったよ」
「俺も。最近はにわかが多いから、話してもつまらないし」

桜庭君がペットボトルのお茶を飲みながら、言った。あんまりな物言いに、私は苦笑する。
「にわかねー。好きでもないのに、周りが持ってるから、自分もCATのものを買おうっていう人見てると、ちょっと違うんじゃない? って思うよね」

そう言ったとき、間の抜けたチャイムの音が響いた。
「もう昼休み終わりか、次の授業は英語だっけ」

お尻についた砂埃をはたいて、立ち上がった。
桜庭君もゴミを片付けている。
私が扉に手をかけても、一向に追いつかない桜庭君を呼ぶと、「誤解されたくないから」と言われた。
 なるほど。
「じゃ、またね」
「ああ」

私は桜庭君に手を振って、屋上を後にした。




あの日から屋上で桜庭君と会うと、話をするようになった。
やはり話題の中心はCATである。
最初の方は2人とも緊張してぎこちなかったが、最近では少しずつプライベートな話もできるようになった。
そんないつもの昼休みのことだ。
少し先に来ていた桜庭君は、すでにお昼を食べ終えていたらしい。横にはゴミの入ったビニール袋が置いてある。
「よう」
「おはよ」

教室で会っているはずなのに、いまさらおはよはないだろと思った。
「桜庭君さー、将来のこととか考えてる?」
真っ青に晴れた空を見ながら、私は桜庭君に尋ねた。
「別に。考えてない」
聞かれた桜庭君は、雑誌をめくりながら気の無い様子で答える。
「だよねー。まだ私ら15なんだから、もうちょっとのんびりしてていいと思わない?」
「なんで急にそんな話になるんだ?」
「親がいちいちうるさいんだ。今から目標とか持って動いた方がいいって。でももう友達で進路決めてる子がいて、ちょっとあせってんの」
「ふぅん」

しばらくパラパラ雑誌を読んでいた桜庭君が、顔を上げた。
「なあ、なんでお前は友達がいるのに、ここに来るんだ?」
「え?」
桜庭君の質問に、私はすっとんきょうな声を上げてしまった。
「そいつらと食べればいいだろ」

これはどう答えればいいんだろうか。
「うーん」

私はしばらく考え込んでいると、桜庭君は静かな目で私を見ていた。
ぽつりとつぶやく。
「けんかでもしたのか?」
「ううん! 仲はいいほうだし、けんかもないよ。たださあ……窮屈に感じちゃうんだよね。教室移動も一緒、トイレ行くのも一緒、出かけるのも一緒。たまには1人になりたくなるんだよ。せっかく友達になれたのに、嫌なやつだなーとは自覚してるけど」
「…………」

桜庭君は遠くを見ていた。何か考えているようだ。
「俺はそういうの、嫌いだ。他人の考えてることなんか理解できないし、干渉されたくない。だから俺は学校も、人ごみも嫌いだ。1人がいい」
「そっか。私もその気持ち、わからなくはないよ」
「なら、何でお前は……」

そこで言いかけて、桜庭君は口をつぐんだ。
「なに?」
「いや、別に」
「じゃあさ、桜庭君は今私と一緒にいて話しているのは、嫌なの?」

桜庭君の目をじっと見つめると、桜庭君は目を逸らした。
「嫌?」
もう1度聞くと、
「別に、嫌じゃない」
「本当?」
「……ああ」
「よかった」
「友達でもないのに、なんで『よかった』なんだ?」

桜庭君は不思議そうに首をかしげた。
「え」

どうやら桜庭君は、私を友達とは思ってくれていなかったらしい。
想像以上に私はがっかりした。
「何でそんな顔するんだよ」
「いや、私はてっきり桜庭君といい友達になれてたと思ってたんだけど……」
「はぁ? 友達!?」

冗談じゃない! とばかりに、桜庭君は目をまん丸にする。
「そこまで嫌がらなくてもいいじゃん」
私がふくれっつらになると、桜庭君は居心地悪そうに雑誌に視線を落とした。
「あ、じゃあさ、友達がいやなら、CAT仲間っていうのはどう?」
「CAT仲間?」
「そう、CAT仲間。CATファン同士の集い、みたいなさ」
「……別に、いいけど」 
「やった! 決まりね」

にこにこする私を、桜庭君はおかしなものを見る目で見ている。
「今度CATの新作出るよね。桜庭君は買いに行く?」
「ああ、当たり前だ」
「もしよかったら、一緒に買いに行かない?」
「一緒に?」

桜庭君はうさんくさそうな顔をした。
「うん。多分発売日に買いに行ったら、絶対並ぶことになるでしょ? だったら話しながら時間つぶせるから、どうかなと思って。あ、嫌だったらいいよ!」
ついでに、深い意味もないから! と念押しすると、桜庭君はこくりとうなずいた。
「……考えとく」

桜庭君の気が変わらないうちに、私ははりきって立ち上がった。
「よーし、それじゃ発売日の7時に、ハチ公前で待ち合わせね!」
「おい、まだ行くとは言ってないだろ!」

桜庭君は迷惑そうに装っている反面、笑っているようにも見えたのは、私の気のせいではないだろう。
CATの新作発売日は夏休みをまたいだ9月。
その日はきっと楽しい日になるはずだ。