視線にご用心

 長谷部は思う。この不器用な部下を何とかできないかと。
 今長谷部は仕事で小さなミスをした部下である苗字を叱っている。苗字は小さなミスはするものの、真面目な生活をしており、細かい所に気が付く性格だ。そして何より周囲を気遣える優しさも持ち合わせている。
 以前苗字の前でうっかり長谷部自身が失態を晒した時があるが、決して周囲に長谷部が自分のミスで落ち込んでいたことを吹聴したりはしなかった。
 職場での様子を見るに、苗字はまだ入社したててで会社に慣れていない。周囲の視線をプレッシャーに感じているらしい。長谷部はどうすべきか、考えていた。
 確かに苗字はミスをした。だから注意だけはしなければならない。しかし……。目の前ですっかり小さくなってしまった苗字を見て、長谷部は言い過ぎたかと思った。
 だからこそ一旦小言を中断した。
「その…なんだ…」
「?」
 長谷部が励ましの言葉をかけようとすると、部下は不思議そうな顔で見上げてくる。
「確かに今回お前はミスをしたが、それでもお前はよくやっている。そう落ち込むな」
「すみません……。視線がプレッシャーになっているようで」
「そ、そうか」
 入社したての社員に自然と目が行くものだが、特に苗字を凝視していたのは、何を隠そう長谷部本人である。先日仕事でミスを犯し落ち込んでいた長谷部に、目の前の苗字は差し入れをし、傍にいてくれた。あの日からどうにも苗字のことが気になって仕方がないのだ。だから自然とつい苗字のことを目で追ってしまうようになってしまった。
 長谷部はわずかに赤面しながら咳払いする。
「すまない」
「いえ……」
「あー……違う。お前が至らないから見ているわけではない。そんなつもりはなかった」
「そ、そうですか」
 すっかり恐縮した様子の苗字だったが、ほっと肩の力を抜いた。
「とにかく! お前が努力しているのは理解している。ミスは俺がフォローするから、その調子でな」
「はい! ありがとうございます」
 お説教が終了し、苗字がとことこと自席に戻っていく。隣席の女子社員と何やら楽しそうに話しているのが見えた。いや、と長谷部が首を振る。
 先程自分の視線のせいで部下に誤解され、委縮させてしまったばかりではないか。あまり凝視してはいけない。
 気になる異性には極力優しくしたい。できることならもう少し個人的な付き合いをしてみたいものだが、会社の部下と上司という関係上、なかなか距離を縮めるのは難しいものだ。




 後日──。
 新人歓迎会の飲み会の日のことだ。その日は係長の長谷部と苗字も参加していた。しかし残念ながら長谷部と苗字の席は遠くに配置されている上、苗字は課長に気に入られたらしく、なかなか離してもらえないようだった。
 長谷部の内心は複雑だったが、上司に気に入られるのはよいことだと自分を慰める。
 長谷部は他の部下や上司と飲み交わしていたが、次第に苗字と話せないことに虚しさを感じ、外へ出た。そして胸ポケットからジッポライターと煙草を取り出す。  すると背後から「長谷部係長」と自分を呼ぶ声がした。
 振り返ると苗字がいた。
「どうした? 酔ったのか」
 長谷部がそう声をかけるくらい、苗字の様子は普段と違っていた。目は潤んで火照った顔でにこりと微笑む部下は、普段と別人のように屈託がなかった。
「少し……飲みすぎてしまいました」
 苗字が笑う。
「あまり飲みすぎるなよ」
 と長谷部は言ったが、苗字はふにゃりと気の抜けた笑みを浮かべるばかり。何やら機嫌がよさそうだ。それが少し長谷部の胸をちくりと刺した。鬼のいぬ間のなんとやら、か。
「随分楽しそうじゃないか」
 煙草を取り出し、火をつける。ふうと煙と共に嫌味を吐いた。
 俺がいないほうが楽しそうだな、などと女々しい言葉が口から出かかってしまうのを、慌てて止める。何を言っているんだ。しっかりしろ。長谷部は内心で自分に喝を入れて、苗字から顔を背けた。
「皆さん、よくしてくださるのでえ」
 苗字が背後で楽しそうに笑う。
「それはよかったな」
 と答える長谷部の声は、幾分冷たいものだった。
 しばしの沈黙。いくら待っても苗字の声が返ってこない。
 おかしいと思い、長谷部は振り返った。するとそこには、口元に手を当てて膝を折る苗字の姿があった。
「どうした!?」
 慌てて苗字の元に駆け寄ると、「う……」と苦しそうに苗字が呻いた。
「大丈夫か?」
 長谷部が声をかけるが、苗字は「気持ち悪いです…」と口元から手を離さない。長谷部は慌てて手元の煙草を携帯灰皿でぐしゃりとにじって火を消す。
「掴まれ、吐いてもいいからな」
 そう言って長谷部は苗字を両腕で部下を担ぎ上げて、店に戻った。会社の連中は皆何事かと目を丸くした。
「飲みすぎたようなんです。水を!」
 傍にいた店員に声をかけると、すぐさまグラスに注がれた水が運ばれてきた。
「ほら、飲め」
 長谷部は苗字の肩を支えてやりながら、ゆっくりと水を飲ませる。その様子を周囲の人間が、囃し立てる。
「はしゃいでいる場合か! ここまでなるまで飲ませたのは誰だ!」
 長谷部は盛り上がる周囲を一喝した。いくら飲み会でも限度というものがある! と怒る長谷部の腕を、苗字が弱弱しく掴んだ。
「すみません、係長…。声が頭に響いて…」
 つらいです…とこぼす苗字に、「すまん」と長谷部が詫びる。さすがにきまりが悪い。
 少し経つと苗字の顔色もよくなり、呂律が回るようになった。長谷部はほっとして苗字の肩から手を離した。
 しかしまだ苗字の身体はふらふらしており、とても飲み会を続行できる雰囲気ではない。
「帰り支度をしろ」
 長谷部は脱いでいた上着を羽織り、苗字に声をかける。
「え?」
「その状態で一人で帰すのは不安だ。家まで送る」
「で、ですが係長……」
 苗字は恐縮した様子で長谷部を上目遣いに見る。
「家まで付き添われるのに抵抗があるなら、最寄り駅まででどうだ。さすがに一人では帰れないだろう」
 長谷部の言葉に苗字は迷っている様子だったが、最終的には「はい」と頷いた。周囲にさんざん囃し立てられて、二人は店を出る。
 しかしそこで長谷部は気付いた。今日は飲み会だったから足が、車がないことに。
「すまん……。今日は車がないことをすっかり忘れていた。歩きになるがいいか? それともタクシーを」
 呼ぶか、と言いかけて、長谷部は息を呑んだ。苗字が長谷部の手首を掴んだのだ。
「いえ……。一緒に歩いて帰りたい、です」
 苗字が顔を真っ赤に染めて俯く。長谷部の顔も次第に赤くなっていく。
 飲み会で倒れるほど飲まされたのだ。きっと今の苗字は酔っているのだ。長谷部は自身に言い聞かせた。
「……行くか」
「はい」
 長谷部はその手を振りほどくことなく、ゆるゆると駅へと歩き出す。道中「お前の最寄りはどの方面だ?」「飲み会で勧められるままに飲むのは危険だぞ。気を付けろよ」と一方的に長谷部が話しかけ続ける形になったが、苗字は幸せそうな顔でうんうんと頷いていた。
 電車を乗り継ぎ、暗い夜道を歩く。駅から離れた小さなアパートが、苗字の住居だった。
「足元に気を付けろよ」
 照明の暗い階段をゆっくり上がり、苗字の部屋に辿り着く。
「長谷部係長、今日はご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
「迷惑などではない。身体には気を付けろよ」
 苗字が部屋の扉を開け、「お礼にお茶でもいかがですか?」と尋ねた。
 長谷部は一瞬思案したが、すぐに首を横に振った。
「いや、今日のところは遠慮させてもらう。お前も早く休めよ。じゃあ」
 そう言って長谷部は苗字の返事を待たずに、カンカンと足音を立てて階段を下りた。
 意気地なし、と責める声が脳内で響いたが、それでもこれでよいと安堵する自分もいた。何故なら長谷部にとって苗字はたった一人の大切な人だからだ。酒の勢いに任せて行為に及び、関係を築くことは避けたかったのだ。苗字との関係を深めるなら、別の機会がいずれ訪れるだろう。
そう自分を宥めながら、長谷部は帰路を急ぐのだった。



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2020年12月4日

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