シュークリームと缶コーヒー

現パロ

 いつもの仕事上がり。
 窓の外を見ると、日はとうに暮れてしまっていた。ここ数週間かかりきりだった重要な仕事が、先程やっと終わったのだ。チェックもばっちりできたし、やるべきことは完全に完了した。
 仕事が終わったら何をしようか。そんなことを考えながら、私は頬杖をついていた。心地よい温かさの室温と数週間ため込んでいた疲労に、私はうつらうつらと眠気に誘われていた。
 そんな時、つんつんと私の頬をつつく者がいた。今私がいるのはオフィスのデスクだ。こんなところでふざけた行為をする人なんて、せいぜい仲の良い女性の同僚だろう。
 油断したと思いながら、私は目を開ける。

「会社で居眠りとはいい度胸だな」
「は、長谷部係長!?」

 なんと私の頬をつついていたのは、上司の長谷部国重係長だった。
 若手ながらその実力でのし上がり、今や同期の中でもトップで成績を上げている。職場内でも「自他ともに厳しい実力者」と言われている。
 ちなみに何を間違ったか、そんな長谷部係長と私はお付き合いをさせて頂いている。今月で3カ月目になる仲だ。デートをしたことはあるが、まだ互いの家にも行ったこともない程度の仲だ。

 長谷部係長がちらりと周囲を窺ってから、言う。
「もう他の連中は退社した。残っているのは俺とお前だけだ」
「そう、ですか」
「先週から残業続きで疲れただろう。よく頑張ったな」

 そう言って長谷部係長は缶コーヒーを二本差しだしてきた。
「た、大変失礼致しまし痛いっ!」
 しかし私の額がカンっと音を立てて、長谷部係長の持っていた缶コーヒーに当たる。
「おいっ、大丈夫か?」
 長谷部係長が慌てた様子で私の額に手を当てる。
「ちょっとじんじんします……」
 涙目で答えると、長谷部係長がため息を吐いた。
「馬鹿。今のところ腫れていないし、血も出ていないから安心しろ」
 さらりと長谷部係長の手が私の前髪をかき分ける。優しい仕草にドキドキする。一通り私の額に異常がないことが確認できると、長谷部係長は再度コーヒーを私の手に押し付けた。
 いつも私が休憩時間に飲んでいる銘柄の缶コーヒーだ。
 長谷部係長はプルトップを開けて、自分の缶コーヒーに口を付けようとしている。
「長谷部係長……」
 今日もお疲れ様でした、と言おうとすると、不機嫌そうに長谷部係長が目を眇める。
「係長じゃない」
「えっ」
「国重と呼べ。……いつものように」
「あっあの」
 口をパクパク開け閉めする私を、長谷部係長が面白そうに眺めている。恥ずかしかったが、そっと彼の名を呼んだ。
「……国重、さん?」
 すると長谷部係長がぷっと吹き出した。
「何故疑問形なんだ」
「いえ、だって、会社だから」
「俺達以外は皆帰ったと言っただろうが」
 くすくすと笑う長谷部係長に、私は縮こまって缶コーヒーの蓋を開けてすすった。
 しばらく今回のプロジェクトの結果や感想についてぽつぽつと語り合っていると、長谷部係長がふと口を開いた。
「この後の予定はあるのか?」
「いえ……あとは寝るだけ」
「つまりは空いているということか」
「ええ、まあ」
 中途半端に肯定する。長谷部係長と話せるのは楽しいけれど、ここ二週間の激務がたたって既に瞼が下りそうだった。
「出かけるにはおねむなようだな」
 長谷部係長がそんな私の機微を見てとったらしい。彼は缶コーヒーを傾けて最後の一口を飲み干した。
「送っていく。その様子では一人で帰すのは不安だ」
「でも……」
「俺の運転に不満があるとでも?」
 下っ端の私が残業続きでふらふらになるくらい疲れているということは、係長である長谷部係長はもっと疲れているはずだ。そんな人に手間をかけさせるのは避けたい。
「お前の家はどの辺りだったか」
 長谷部係長の独り言のような問いに、私は渋々と自分の居住区を答える。
「ああ、その辺りなら俺の家と近いな」
 長谷部係長がにやりと笑う。
「そうなんですか? ちょっと意外です」
「俺の家は大学に入るために上京してから、ずっと変わってない。社会人になったらもう少し広い所に引っ越そうと思ったが、気付いたらここまで来ていた。まあ立地は便利だから気に入ってるが」
 長谷部係長が自分のデスクの上を片付け、引き出しから黒いキーケースを取り出す。
「おい、帰るんだろう。早く支度をしろ」
「はっはい」
 催促されるまま私はデスクを片付ける。ここ二週間激務だったせいで、デスク周りは雑然としていた。どこから手を着けようかとおたおたしていると、
「あと五分」
 長谷部係長が笑顔でトントンと腕時計を指さした。
「は、はい!」
 私は慌ててデスクの上の書類をクリアファイルにまとめて、引き出しに入れ、貴重品をバッグに詰め込んだ。
「やればできるじゃないか」
 よれよれと走り寄ってきた私の頭を、長谷部係長がぐしゃぐしゃとかきまぜる。
「行くか」
「はい」


 二人で手早くオフィスの施錠を確認してから、セキュリティシステムをオンにする。そこまで作業を終えてから、二人でエレベーターへ乗り込んだ。
 エレベーターは地下駐車場で止まった。
 少し歩いた先に、長谷部係長の車がぽつんと止められていた。

 長谷部係長は手元の電子キーを押し、車のロックを解除した。そして助手席のドアを開け、うやうやしく右手で助手席を指した。
「どうぞ」
「ありがとう、ございます」
 おずおずと助手席に座ると、長谷部係長がバンとドアを閉め、運転席に回り込む。
 長谷部係長の車に乗せてもらうのは、初めてではない。

 車の中に漂うわずかな煙草の香りを嗅いで、ふと思い出した。以前も長谷部係長の車に乗せてもらったことがあったのだ。



 あれは深夜まで残業が続いた時のことだ。長谷部係長が仕事で重大なミスをしてしまったことがあった。ミスの影響が甚大で被害を最小限に食い止めるために、皆がキーボードを叩き続け、残業は深夜まで及んだ。
 長谷部係長始め皆が一丸となってミスの修正に入ったため、甚大な損害は防ぐことができた。
 業務から解放される頃には、午前零時を回っていた。ぎりぎりで帰れた人もいたが、何人かは終電を逃し帰れない事態になった。
 会社に取り残された人の中には、長谷部係長もいた。
 長谷部係長は自車通勤だったため、自力で帰宅することができた。なのに長谷部係長は「今日の残業は俺の責任だから、ぜひ送り届けさせて欲しい」と言ってきかない。
 恐縮して断っていた同僚達も、長谷部係長の必死の説得に頷かざるを得なかった。
 そして最後に自宅に送り届けられたのが、私である。
 長谷部係長は自分のミスを詫びながらも、いつもと変わらない様子で話していた。仕事の話は避けて、趣味の話。アクション映画が好きらしく、最近見た面白かった映画の話や趣味のボルタレンの話。色々語ってくれた。
 しかし最初は三人乗っていた同僚も、一人また一人と降り、私と長谷部係長の二人になった頃には、互いに話題が尽きてしまった。
『どうだ、苗字は何か趣味はないのか?』
『いえ、仕事をこなすのに精いっぱいで、なかなか……』
『そうか……』
 この調子である。二人きりの車内には、車が風を切る音とエンジン音だけが響く。
 私は後部座席の窓際の席で、縮こまっていた。実を言うと当時の私は、後輩に厳しく指導していた長谷部係長が、苦手だったのだ。だからありのままの自分をさらけ出すことが怖かったから、上手く答えられない。長谷部係長もそんな私の様子を察してか、口を閉ざしてしまった。
 気まずい空気が車内にこもる。

『あっ、次の信号を左に曲がったところで止めてください』
 自宅に近付いたところで、私は長谷部係長に声をかけた。
『わかった』
 長谷部係長は私の言った通りの場所に車を寄せて、停車した。
『長谷部係長、今日は送って頂いてありがとうございました』
『気にするな。お前も遅くまで付き合わせてすまなかった』
『いえ……』
 私は首を横に振るだけで精いっぱいだった。もっと社会人経験が長ければ、長谷部係長を慰める言葉を言えたかもしれないが、まだ入社して数か月の新米社員。それも顔を見るだけで委縮してしまう上司が相手では、とてもうまい言葉を思いつくことなどできなかった。
『それでは失礼します』
『気を付けて帰れよ』
 そして私は長谷部係長に会釈して、車を降りた。

 おなかがすいた。

 今にも鳴りそうなおなかを撫でさする。
 その日の私は、オフィス内の緊迫した空気に煽られて、夕飯を食べ損ねてしまったのだ。
 すぐそばにあったコンビニに入り、お弁当コーナーを見る。といっても時間が時間なだけに、ほとんどお弁当コーナーに商品は残っていない。
 パスタサラダにパンコーナーの総菜パンを二つ。それにスイーツコーナーに残っていたシュークリームを自分のご褒美に。そしていつも購入している缶コーヒーとミネラルウォーター。こんな時間にコーヒーを飲んでは目が冴えてしまいそうだが、どうしてもコーヒーを飲みたい気分だったのだ。

 会計を済ませて店外に出る。
 自宅への帰り道を歩いていると、見覚えのある車が目に入った。
 形も色も、先程長谷部係長が運転していた車そっくりだ。
 チカチカとテールランプを点滅させて、車は停止している。

 運転席をそっと覗くと、うつ伏せになった長谷部係長がいた。

 帰ったんじゃなかったの?

 長谷部係長は私に覗かれていることにも気付かず、微動だにしない。窓越しに何やらぶつぶつと呟いているのが聞こえてきた。
『駄目だ……こんなミス……どうして……』
 尋常ではない様子に、私は思わずこんこんと運転席の窓をノックしていた。
 車が揺れる勢いで、長谷部係長が顔を上げた。私をぽかんと口を開けた情けない顔で見上げてくる。長谷部係長をよくよく見れば、スーツやシャツは皺だらけ。髪は乱れて目の下に隈が浮かんでいる。
 運転席の窓が開く。
『何故ここにいる? 帰ったんじゃなかったのか?』
『近くのコンビニで買い物をして、戻るところだったんです』
『そうか……』
『あの、長谷部係長は夕飯食べられましたか? もしよければこちら、どうぞ』
 私は先程コンビニで買った袋を、そのまま長谷部係長に差し出した。
 ここまで憔悴した人を放ってはおけない。
 けれど上司を慰めるスキルなんてなかった私には、自分の夕食を譲るくらいしかできなかったのだ。
『いいのか? お前の夕飯だろう』
『少し、買いすぎてしまったので。よかったら……』
 私とコンビニ袋を見比べて、長谷部係長が困ったように笑う。
『ありがとう。そこに立っていたら辛いだろう。よかったら乗れ』
『は、はい』
 長谷部係長が助手席を指す。私は恐る恐る助手席のドアを開けて、乗り込んだ。
 長谷部係長はオーディオを操作した。車内に深夜ラジオの賑やかな声が流れ始める。
『本当に食べるが、いいのか?』
『構いません』
『お前は何が食べたい?』
『えっと……じゃあツナパンと缶コーヒーを』
 私が一番食べたかったものを取ると、長谷部係長は遠慮のない手つきで総菜パンのフィルムを開けた。
『いただきます』
 二人の声が車内で重なる。私と長谷部係長は黙々と総菜パンを食べた。私がツナパンを半分食べた頃に、長谷部係長はパスタサラダに取り掛かっていた。プラスチックのフォークを器用に使って、パスタをからめとっていく。
 パスタサラダを半分食べ終わったところで、長谷部係長が口を開いた。
『さっきはすまなかった』
『……いえ』
『部下に弱みを見せるなど、上司としてあるまじきことだった。忘れてくれ』
『はい』
『…………』
『…………』
 何故か食事の途中で長谷部係長と見つめ合う。別に長谷部係長の弱っているところを見たからと言って、吹聴するつもりなんて最初からなかった。だが長谷部係長はどうにもきまりが悪いらしい。もごもごとパスタを咀嚼しながら、気まずそうにしている。
 私はツナパンを食べ終わり、缶コーヒーのプルダウンを開けた。
『こんな時間にコーヒー?』
『はい、どうしても飲みたくて』
『好きなのか』
『はい』
『そうか』

 ゆっくりとコーヒーを飲む。これを飲み終わったら、退散させてもらおう。そう思った時、長谷部係長に『苗字』を呼ばれた。
『なんでしょう?』
『今日は忙しかったが、ちゃんと夕飯は取れていたのか?』
『……いいえ』
『いくら忙しくても、食事と休息を忘れるな。最終的にパフォーマンスが悪くなる』
『はい』
『だめだぞ。自分の身は自分で守らないと』
『……はい』
 長谷部課長の優しい口調に私は助手席で小さくなる。
 そこまで言って、長谷部係長は苦笑した。
『こうやって何かにつけて説教くさいことを言うから、怖がられるというのに。すまん』
『えっ、いえ、そんな』
 まるで心を読まれたかのような言い方に、ドキリとする。
『すみません……』
『いいんだ。嫌われ役も上司の役割だ』
 長谷部係長が再びパスタサラダに戻る。私はなんとなく退席するタイミングを失って、そのまま助手席に座っていた。

 そして長谷部係長の手が、コンビニ袋に残っていたシュークリームに伸びる。
『これも俺が食べていいのか』
『お嫌いでなければ、どうぞ』
 シュークリームがどうしても食べたいわけではなかったし、人前で食べるのは苦手だったので長谷部係長に譲った。噛むごとにクリームが中から噴き出してしまうので、上手く食べれないのだ。
『……ありがとう』
 長谷部係長はお礼を言ってから、シュークリームにかぶりつく。クリームを噴出させることなく、綺麗にシュークリームを食べていく。

『あまり見るな』
『すみません。随分綺麗に食べられるなと思って』
『……好きなんだ。昔から』
『そ、そうでしたか』

 私は居心地が悪くなり、空になったコンビニ袋にごみをまとめることにした。
 長谷部係長はシュークリームを幸せそうに味わっている。

 そして出たごみを見て、言った。
『本当は俺の為に買ってきたんじゃないのか?』
と。
『いえ、あくまで私の夜食用です』
 何故そんなことを言うんだろう。不思議に思って首を横に振る。
『それにしては買いすぎじゃないか。多すぎるだろう』
『す、すみません。どうしてもおなかが空いて……』
 私は顔を赤らめた。どうしようもなくおなかがすいて、食べ物を買いたい欲求を抑えきれなかったのだ。だからある意味長谷部係長がここにいてくれて、ラッキーだったかもしれない。
『ああ、そうか……』
 私の事情を察した長谷部係長が、気まずそうに顔を逸らした。そして、ふっと吹き出した。
『いくら腹が減ったとはいえ、これは買いすぎだ。深夜にこれだけ食べたら明日にも響くぞ』
『き、気を付けます……』

 長谷部係長の食事も終わったので、今度こそ私は降車した。

『お気をつけてお帰りください』
『苗字ももう遅いんだから気を付けて帰れ』

 長谷部係長の車は、テールランプの余韻を残して闇夜へ走っていった。

 その日からである。

 私が残業していると、長谷部係長が缶コーヒーを差し入れてくれるようになったのは。それも私の好きな缶コーヒーだ。
 お互いにあの夜のことを会社で何も言わなかったが、覚えていてくれたらしい。
 そして私が遅くまで残業していると、デスクにトンと缶コーヒーを置いて声をかけてくれるのだ。
『ちゃんと食っているか』
『少しは休め』
 普段は厳しい長谷部係長が優しい声で私に耳打ちする。
 そこから私たちは少しずつ距離を縮め、お付き合いするに至ったのだ。

 長谷部係長の車の助手席に乗りながら、私は過去のことに思いを馳せていた──。

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2021年1月31日

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