桜の夜

 あれは桜が見頃の時だった。
 部署の有志で会社の近所の桜の名所に花見をしに行った。めいめいに酒や食べ物を持ち寄って、盛の桜を楽しむ中、一人ぽつんと佇む姿があった。
 長谷部の意中の相手、苗字名前 だった。
 なんだかその横顔が寂しげで、つい長谷部は声をかけた。

「一人でどうしたんだ?」  いつも苗字と行動している同僚がいたはずが、いないことに気が付いた。
苗字が言うに、その同僚がたまたま今日の花見会に予定が合わず、来たはいいものの手持ち無沙汰になっていたらしい。
「長谷部係長こそ、飲んでいますか? よければお酌しますよ!」
 悪戯っぽく笑う苗字に、長谷部は首を振った。
「いや今日の俺は桜を楽しみに来たんだ」
 長谷部はそう言って頭上を見上げた。提灯に照らされた薄紅色の花弁がちらほらと舞っている。
「桜を……?」
 苗字はきょとんとした様子で、長谷部と同じように頭上を見上げている。
「……今日は車なんだ」
 ぼそりと長谷部が言うと、苗字は納得したようだった。
 ついでにお前のように浮いてしまっている後輩の手助けもかねて、だと言おうとしてやめた。
 もしも苗字が花見に来ていて困っていたら、声をかけようと思っていたのだ。また前回の新人歓迎会のように飲まされて前後不覚に陥っていたら大変だと思ったからだ。
 今日はいい酒を用意していると聞いていたが、それを反故にして車で帰ることにしていたのは、苗字に何かあった時、すぐに対応できるようにしたかったからだ。

 しかし長谷部の心配は杞憂に終わったらしい。
 今日の苗字は酒に酔った様子がない。はにかみながら長谷部を見上げている。
「先日はご迷惑をおかけして、すみませんでした」
「気にするな。誰だって飲みすぎることはある」

 苗字はゆるゆると首を振った。
「あの時は……本当にお恥ずかしい所をお見せしました。皆さんが良くしてくださるから、つい、飲みすぎてしまいました」
「新人ならよくあることだ」
「それに……係長があまりに真剣に心配してくださるから、つい……その……」
「つい?」
「ちょっと大げさに、酔ったふりを、しちゃいました」

 酔ったふり?

 長谷部が驚いて目を見開き、苗字を振り返る。
 俯いた苗字の顔は、影になっていて見えない。

 どういうことだ?

 長谷部はそう言いかけて口をつぐんだ。
 わざわざ分かり切ったことを言わなくてもわかる。苗字は長谷部の気を引きたくて、あえて大袈裟に酔ったふりをしたのだ。
 とはいえ、普段は真面目な苗字がそんなことをするなど、理由はきっと……。

「お前のことが知りたい」

 長谷部の口から零れ落ちたのは、そんな言葉だった。
 苗字は一瞬戸惑った様子だったが、ふっと微笑んだ。

「はい……。私も長谷部係長のことを、もっと、知りたいです」
「そうか」

 長谷部は苗字と同じ気持ちであることにほっとした。もしもこれが長谷部の独りよがりな気持ちであったら、部下に関係を強いたと非難されても仕方がない状況だった。
 ふと周りを見渡してみれば宴もたけなわで、誰も長谷部達を見ていなかった。

「どうだ、この後……」

 長谷部はいきつけのバーに行こうかと誘おうとして、舌打ちする。今日の自分は車だ。だから酒は飲めない。苗字の為を思ってしたことが、却って裏目に出てしまった。

 さてどうしたものか、と長谷部が立ち往生していると、苗字が「あの」と声をかけた。
「係長の都合が良ければ、あちらのカフェで、お話し、致しませんか?」

 苗字はそわそわと落ち着きなく長谷部を見上げている。彼女の指先にはうっすらとライトアップされた洒落た雰囲気のカフェがあった。普段長谷部が昼休みや外回りの仕事の休憩などに使っているカフェだ。今日のカフェは、少し照明が控えめに落とされていて、雰囲気が異なる。
 どうも夜は酒を出す店にもなるらしい。

「ああ……。そうしよう」
「はいっ!」

 長谷部が頷くと、苗字は嬉しそうに笑った。

 店に足を運ぶと、いつもと違う店員がやってきて、二人を席に案内した。二人用の小さなテーブルの上には、ベージュ色の明かりがともっていた。それはよく見ると、小さな蝋燭だった。
 頭上に広がる明かりも蝋燭と同じ温かな色合いで、店内を静かに照らしている。
 苗字と長谷部はそれぞれメニューを見て、注文を考える。

「ほう……。昼とは大分メニューが変わるんだな」
「係長はここを利用したことがあるんですか?」
「会社の近くだからな。打ち合わせや休憩に使うこともある。夜も営業しているのは知らなかった。ここのブレンドはうまいぞ」
「そうなんですか……。あ、ブレンドもありますよ」
「そうか」
 夜用のメニューは酒やディナーメニューに切り替わっていたが、ブレンドも頼めるらしい。

「苗字、どうする? ここで夕飯を食べていくか」
「はい……。係長がよろしければ」
 サラリーマンが使う店だから、夜のメニューもさして高価な物ではない。せっかくの初めてのデートを、安価な物で済ませても良いものかと長谷部は悩んだが、苗字は嫌がらなかった。

「私、こういうお店、初めてなんです」
「そうなのか? ただのカフェバーだぞ」
 苗字は全国チェーンの安価なカフェの名前をいくつか挙げた。
「そういうお店に行ったことはあるんですけど、こういう……ちょっとおしゃれなお店は初めてで、緊張、してます」
「これでドレスコートの必要な店に入ったら卒倒しそうだな」
「ほ、本当です」
 高価な店を想像したらしい苗字が、身体を縮こませる。その様子がおかしくて長谷部は笑った。
「ははは……」
「笑わないでください!」
「悪いな。さて、ここで食っていくならメニューを決めるとするか。俺もここで夕飯を食べるのは初めてだ」
 ちらりと長谷部はメニューに視線を走らせる。
 季節の魚のムニエルがうまそうだ。これで白ワインがあればいいのだが……。ちょうどメニューにワインが載っているが、帰りのことを思うと長谷部は飲酒できないのが悔やまれる。
 長谷部は魚のムニエルに決め、メニューを閉じる。ちょうど同じタイミングで苗字もメニューから顔を上げた。
「係長! シュークリームがありますよ!」
 ぶっと長谷部は吹きそうになった。

『すみません。随分綺麗に食べられるなと思って』

 とある事情から長谷部が苗字の前でシュークリームを食べていた時の言葉が、蘇る。
 確かにデザートメニューに桜の花びらで彩られた『季節のデザートシュー』というものがある。あるがさすがに初デートで男が食べるものじゃないだろう。

「いいからっ、苗字は決まったのか?」
「え? 私ですか? はい!」
「すみません!」

 長谷部は手を上げて店員を呼ぶ。すぐにやってきた店員に
「季節の魚のムニエルのライスのセットを」
 ちらと苗字に目で合図をする、すぐ苗字も注文を始める。
「サーモンのスープパスタと季節野菜のサラダを」
 苗字は長谷部の方を見ると、にまっといたずらっぽく笑った。
「それと食後に季節のデザートシューを二つください!」
「おまっ……」

 長谷部がお前と言いかけてあやうく言葉を飲み込む。

「はい。季節の魚のムニエルとライス、サーモンのスープパスタと季節の野菜サラダ。食後に季節のデザートシューを御二つですね」
「すみません、食後にブレンドも追加で。二つ……」

 長谷部が言うと、店員が手元でメモを取り、復唱した。
 注文を取り終わった店員はすぐに厨房の方へ速足で去っていく。

「苗字……、なかなか肝が据わっているな」
「いえあの、そういうわけじゃ! ただシュークリームがすごくおいしそうだったし、係長もお好きって聞いていたから」
「はあ……」
 長谷部はため息を吐く。

 あの時。
 苗字が入社したての時、長谷部は仕事で大失敗をした。何とか損害を出さずに済んだが、部署内の何人かは終電を逃して帰れないという迷惑をかけた。苗字もその内の一人だ。
 長谷部は苗字を自宅付近まで送ってやったのだが、その時ちょっとした縁があって苗字と車中で軽食を取った。
 その時にうっかり言ってしまったのだ。「シュークリームが好きだ」と。どうも苗字はそれを覚えていたらしい。
 あの夜のことは正直忘れていてほしかったが、仕方あるまい。
 長谷部はため息をついて
「忘れろ……」
 とこぼした。
 そこで二人が頼んだ食事が運ばれてきた。長谷部の前にムニエル、苗字の前にスープパスタが置かれる。
 二人で「頂きます」と声を合わせてから、フォークを手に取る。
「そんなこと、言わないでください」
 フォークで器用にパスタをからめとりながら、苗字が言う。
「せっかく係長に教えて頂いたことなんですから、もっと係長のこと知りたいです。もし、私のしたことが余計なことだったなら……申し訳ありません」
 ムニエルを切り分けていた長谷部が、ふと表情を緩める。
「いや……、俺も少しむきになりすぎた。悪かった」
「いいえ」
 苗字がはにかむ。つられて長谷部の頬も緩んだ。いつものオフィスとは違う、少しばかりロマンティックに飾り付けられたカフェ。カフェの外を見れば満開の桜が白く際立つ幻想的な風景。そしていつもと少し違う二人の距離感が、どうにも二人にとってくすぐったく感じられたようだ。

 静かに二人で外の景色を堪能しつつ食事に舌鼓を打つ。会社の同僚の話、仕事の進捗を話した後、話題は好物に移った。
「苗字は何か好きなものはあるのか」
「そうですね。シュークリームも好きですが、プリンも好きです」
「プリン?」
「残業や立て込んだ時は、自分へのご褒美にプリンを買うのですが、『あの時』はたまたま好きな銘柄のプリンがなくて、シュークリームを買ったんです。でも係長に喜んで頂けて、よかったです」
「……プリンと言えば、ここから歩いて五分ぐらいのケーキ屋のプリンがうまいという噂があるな」
 プリンかと独り言ちながら、長谷部は頭の片隅に思い浮かんだことを口にする。
「知ってます! いつか買いたいと思ってるんですが、いつもお店が閉まっていて……」
「そうか? 今ならまだ開いているだろう」
「いえ、プリンは残業のご褒美と決めているので」
「『自分へのご褒美』は残業がなくても適度に取っておくのがコツだぞ。何でもない日に自分を時折喜ばせると、活力になる」
「あまり、自分を甘えさせるのもよくないかなって」
「なら苗字の分のデザートは、プリンの方がよかったか?」
「残念ながらプリンがメニューになかったんです」
「それなら仕方ない」
 二人で控えめに笑い合う。長谷部はケーキ屋のプリンの味を思い出していた。以前同じ部署の女性社員が差し入れに買ってきてくれたことがあった。
 シンプルながら卵の味が濃厚で、おいしかったと記憶している。
 雑談をしながら二人で夕飯を食べる。長谷部の頼んだムニエルは、意外に上品な味で美味だった。苗字も美味そうに舌鼓を打っている。初めてのディナーだったが、おおむね楽しんでもらえているようでよかった。
 長谷部はひそかに胸を撫で下ろしていた。

 二人がメインディッシュを食べ終えて皿が下げられた後、すぐにデザートが運ばれてきた。桜の花弁が散らされた、シュークリーム。砂糖で白くコーティングされ、いかにもおいしそうだ。
「桜の花弁は食用ではありませんので、避けてお召し上がりください」
 そう告げて去ろうとするウェイターに、苗字が声をかける。
「あの、こちらのシュークリームがとても素敵なので、写真を撮らせて頂いても、いいですか?」
「ええ、問題ありません。どうぞ撮影されてください」
 するとウェイターはにこやかに答えた。
「ありがとうございます!」
 嬉しそうにはにかむ苗字に、ウェイターが笑って立ち去る。
 うきうきとスマートフォンを構える苗字を、長谷部は意外な目で見ていた。時折部署内でスイーツが配られることもあるが、苗字が撮影しているところを見たことがなかったのだ。
「苗字は映えというものを気にするのか?」
「いえ、普段は全然……。でも今日は特別な日ですから」

「そうか」
 今日は特別な日という言葉を聞いて、長谷部は体温が上昇するのを感じた。酒も飲んでいないのにおかしなことだ。
「随分と気障なことを言うじゃないか」
「いえ、その、本当ですから!」
 照れ隠しににやりと笑いながら桜の花弁を脇によけると、苗字は慌てた様子で弁解する。その初心な様子がくすぐったい。どうにも苗字の初々しさが長谷部には眩しく感じた。

 長谷部はシュークリームに手を伸ばし、クリームが中から漏れないよう加減して、一思いにかぶりつく。
 ほんのりと花の香りが漂う上品な味。季節のデザートシューを謳うだけあり、中のクリームもカスタードに桜のペーストが練りこめられているようだ。しつこくない甘さとわずかなしょっぱさが食欲を掻き立てる。
「おいしいですね!」
 苗字がにこやかに笑う。こちらはシューを一つまみちぎって、クリームを撫でる食べ方をしているようだ。
「ああ、そうだな」
 長谷部は顔を上げて苗字の笑顔をじっと見つめるのだった。


 二人がデザートシューを食べ終わる頃、食後のコーヒーが運ばれてきた。
 長谷部はシンプルなブラックが好きなので何も入れずに飲んだが、苗字はミルクをたっぷり注いでゆったりと珈琲を味わっている。

 まだ打ち解けたばかりの二人なので、話題は尽きない。
 長谷部が腕時計を見る頃には八時半を回っていた。
「そろそろいい時間だな。八時を過ぎた」
「えっ……、もうそんなに?」

 苗字が時間を確認している間に、長谷部はさっさと伝票を取りレジへ会計に向かった。
「長谷部係長!」
 慌てた様子で長谷部を追いかける苗字だったが、長谷部は目で苗字を制した。
 初めてのデートなら、自分に出させてほしいと長谷部は思ったのだ。

 苗字は困惑した様子だったが、会計を済ませた長谷部に「ごちそうさまです」と居心地悪そうに見上げている。
 長谷部はまだ奢られ慣れていない苗字の頭をぽんと撫でた。
「行くぞ。送っていく」
「あ、ありがとう、ございます……」
 苗字はぽっと頬を赤らめて長谷部を見上げた。


 二人で会社の駐車場に向かう。薄暗い地下駐車場で、長谷部は車のロックを解除した。
 長谷部はいつも通りに運転席のドアを開けようとしたが、その時に苗字が困った様子で立ち尽くしているのに気が付いた。どの席に乗るべきが迷っているのだ。以前同僚達と一緒に苗字を乗せた時は、そんなことは意識していてなかった。あの時の苗字は後部座席の真ん中で窮屈そうにしていたと、長谷部は記憶している。
 長谷部は助手席側に向かい、ドアを開けた。
「どうぞ」
「す、すみません!」
 顔を真っ赤にした苗字が慌てて助手席に座り込む。その拍子に「あっ」と助手席の入り口に頭をぶつけていたのを、長谷部は見なかったことにした。
 長谷部も運転席に乗り込み、シートベルトを締める。苗字もシートベルトを締めたのを確認し、車にキーをさした。ブルンと車が音を立て、カーナビが作動する。
「苗字の住所を教えてくれ。大体でいい」
 カーナビを指先で操作しながら長谷部が問うと、苗字がたどたどしい口調で住所を読み上げる。まだ先程頭をぶつけてしまったことを気にしているらしい。
 職場での働きぶりは安定しているが、どうもこの部下は人に失敗を見られると、尾を引いてしまうタチらしい。

 長谷部が住所を入力し終えると、ガイド音声が『目的地を設定しました』と告げた。その大まかなルートを見て、長谷部の脳裏にある光景が閃いた。
 最近会社で話題になっているデートスポットがあり、そのスポットがたまたま苗字の自宅から少し離れた場にあるのだ。
「少し寄り道をしたいんだが、いいか?」
「えっ? はい」
 苗字は不思議そうな顔で頷く。長谷部は再度目的地を設定し直した。『目的地を設定しました』と再度アナウンスが流れた。

「わあ!」
 苗字が歓声を上げる。
 長谷部が連れてきたのは夜景が綺麗な海岸線だった。海の上に大きな白い橋が架かり、そこを何台もの車が行き来している。車のテールランプが行き来する様を、苗字が目を輝かせて見ている。
 苗字の様子を、長谷部は目を細めて見ていた。
 連れてきてよかった、長谷部は心からそう思った。


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2021年2月5日

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