幼い恋心

 ぱたぱたと軽い足音が廊下から聞こえてきた。
 長谷部は私室であぐらをかいて、読んでいた本を閉じ、来訪者を待つ。するとそこには巫女装束の十歳前後の少女が立っていた。長谷部の今代の主である審神者だ。
「長谷部っ」
「はい、どうされましたか? 主」
 主は幼い頃に審神者となり、今ではすっかり刀の主としての風格が出てきたが、まだ幼い。就任したての頃の主は、ぶかぶかの巫女装束で本丸を練り歩き、嫌いな野菜を長谷部に食べてもらっては、周囲のものに『甘やかしすぎだ』と、長谷部ともども怒られていたっけ。出陣部隊が負傷して帰還する度、大泣きして周囲があやしたこともあったなあ……などと長谷部が回想する。
「入ってもいい?」
「もちろんです。どうぞ、そちらに」
「お邪魔します!」
 主は長谷部の許可を得ると、ぴょんと長谷部の正面に正座した。
 主が小さい頃なら、あぐらをかいた長谷部の足の間に飛び乗ってくれたのに……と、長谷部は少しばかり寂しく思う。
「それでどうされたのですか? 夕餉に何か嫌いな食べ物でも入っていたのですか?」
「もうっ、私はピーマンもにんじんも食べられるようになりました! 長谷部に頼らなきゃ食事も取れないような、子供じゃないんですー!」
「左様ですか」
 長谷部のからかいに主がぷっと頬を膨らませる。それを見て長谷部はくすくすと笑った。
「ではどのようなご用向きで? 近侍の任命でしょうか?」
 長谷部はわずかに期待に胸を膨らませながら、主に問いかける。もしも近侍に抜擢されたら、全力を尽くすつもりだった。
 しかし主はゆるゆると首を横に振った。
「実はさっき演練に行ってきたんだけどね」
「はい」
「その時お相手の審神者さんと話す機会があって。すごく綺麗な女の人だったんだ。それでね、その人、歌仙さんとお付き合いしてるんだって」
「左様でしたか」
 長谷部は今日の演練には参加していなかったので、その女審神者がどういう人物かはわからない。けれど、主がこれから言おうとすることを、薄々察していた。
「その審神者さんと歌仙さん、すごく仲が良くて、去り際に手を振ってくれたんだけど、自然に歌仙さんが審神者さんの手を取ってエスコートしていたの。ああいう関係っていいよね」
「そう、でしょうか?」
 長谷部は困惑する。何せ長谷部達刀剣男士は末席とは言え神と呼ばれる存在だ。それを人間がおいそれと恋仲になるなど、危険ではないか。
 しかし長谷部の気も知らず、主は「はぁ~」と悩ましげに溜息を吐いている。
「いいなあ。私も恋、したいなあ」
「左様、ですか」
 長谷部は内心で主も大人の階段を上っているのだなあと思う。もしも主が想い人を見つけて紹介してくれたら、自分はどんな心持でいられるだろうか、きちんと祝福してあげられるだろうかと長谷部は夢想する。
「ねえ長谷部、恋ってどういうものなの?」
「恋、ですか…」
 長谷部は返事に窮した。今の主は恋を知るにはあまりにも幼すぎる。できるならもう少し成長してから、体験してほしい。こんな神だらけの空間ではなく、現世か演練で人間に恋してほしいのだ。
「それは主がもう少しだけ、大人になってから知るものですよ」
 長谷部は咳払いを一つして、主から視線を逸らす。
「はせべ」
 主が甘えた口調で長谷部を呼ぶ。
「何ですか?」
「今、知りたい」
 主の瞳はきらきらと輝き、長谷部だけを見つめていた。
 長谷部は困り切った。
 そして、長谷部は、主の頬に、ちゅっと唇を触れさせた。
「今は、ここまでで、しまいです」
 長谷部に頬にキスされた主は、何が起こったのかわからないと言った様子で、ぽかんと口を開けて長谷部を見つめていた。
 そして自分の目の前で真っ赤になる長谷部と、頬に残る柔らかい感触に、主はかぁっと顔を熱くさせた。
「長谷部のバカ! エッチ! もう絶交!!」
 主は長谷部にキスされた頬を押さえながら、転がるように長谷部の私室から出て行った。
 バタバタと派手な足音を立てて走る主に、通りかかった歌仙が「廊下では走らないっ」と声をかけているが、「知らない! 長谷部が悪いんだもん!」と言って、さらに本丸の奥へと走っていった。
「長谷部」
 唇を押さえて先程の己の行いが正しかったのかと自問自答する長谷部に、廊下から歌仙が呼び掛けてきた。
「今主が癇癪を起こしていたようだけど、何かあったのかい?」
「主が恋について知りたいとしつこくおっしゃるから……」
「だから?」
「頬に接吻してしまった」
 長谷部の言葉に、歌仙がはぁーと溜息を吐く。
「君も大胆なことをするものだね」
「いや、そんなつもりはなかったんだ。俺はただ主の好奇心を押さえたかっただけで……!」
「君に下心がないのはわかるさ。君にとって主は愛娘のような存在だからね。全く……、これで主に余計な気が起きないことを祈るよ」
「ああ……」
 長谷部は頬を赤く染めたまま、しゅんと歌仙を見上げるのだった。






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2023年3月31日
長谷部国宝記念日70周年おめでとうございます。

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