「いじわる」

 ぺたぺたと廊下から軽い足音が聞こえる。
 自室で読書をして暇をつぶしていた長谷部は、手にしていた文庫本を閉じた。主である名前が来たのだと、足音だけで判断したのだ。あらかじめ自室の障子を開けておく。そうすれば名前も入室しやすかろうという配慮からだ。
 長谷部は伸ばしていた足を曲げて胡坐をかき、名前の来訪を待った。

「はせべぇ」
 少しすると舌足らずな声が長谷部を呼んだ。まだ年端も行かない小さな女の子が、部屋に入ってきた。巫女装束に着られたといった風情の幼女──、名前がやってきたのだ。
「主、どうされましたか?」
「おみみかしてぇ」
 名前がせがむままに、長谷部が身を屈める。
 胡坐をかいた長谷部の足の上に、名前がぴょんと飛び乗ってきた。そしてそのまま長谷部の首筋にかじりつく。名前はこうして長谷部に甘えるのが大好きなのだ。
 長谷部の耳にふわっと名前の温かい吐息がかかった。
「今日のおゆはん、ピーマンあるって」
 ひそやかなボリュームの名前の声は、明らかに落胆した様子だった。長谷部は名前の耳元に顔を寄せる。
「主はピーマンがお嫌いなのですか?」
 長谷部は囁き声で名前に尋ねる。長谷部の問いに名前はこくんと頷き、また長谷部の耳にひそひそと顔を寄せる。
「歌仙くんにね、おのこししたらいちにんまえの“しゅくじょ”になれないよって言われたの。“しゅくじょ”ってなあに?」 大方厨で仕込みをしているところに名前が入って、夕飯にピーマンがあることに難色を示したら注意をされたのだろう。この本丸では日常茶飯事だ。
「そうでしたか。歌仙の奴は意地悪ですね」
 名前の髪を梳きながら何と答えてやるべきか、長谷部は考える。
 まだ幼い名前に女性らしさや気品について説いても、理解するのは難しいだろう。少し考えて妙案が浮かんだ長谷部は、そっと 名前の耳に手を添える。
「淑女とは、姫様のですよ」
 本来の意味は異なるものだが、それほど間違ってはいないはずだと、長谷部は思う。

「おひめさま!?」
 名前がきらきらと目を輝かせる。やはり名前にとってはお姫様という存在は、特別なものなのだろう。しかしすぐに名前はしょんぼりした様子でひそひそ話を続ける。
「でも、わたし、ピーマンどうしてもたべられないよ。どうしよう……」
 お姫様に憧れる名前だが、ピーマンという障壁があまりにも高すぎる。名前は意気消沈していた。
 そんな名前を長谷部が抱いてあやす。

 名前がよく野菜を残して歌仙や堀川等に窘められているのを、長谷部は何度か見ている。名前が健やかに育つよう何でも満遍なく食べてもらいたい一心で、彼らは名前を窘めるのだ。
 名前の健康を思いやる彼ら気持ちはわかるが、あまりに毎日厳しくしすぎては名前がかわいそうだと長谷部は思っている。だから時には名前の苦手な物をこっそりと長谷部が食べてやることもあった。
 こっそりと食べているつもりだったが、いつもより皿の空くのが早いと目ざとい歌仙や堀川らにたちまちに露見し、長谷部は怒られるのだ。名前を甘やかしすぎだ、と。

 しょんぼりと顔を俯かせる名前に、長谷部がにこりと笑う。お耳を拝借と言って名前の耳に顔を寄せる。
「でしたら俺が主の分までピーマンを食べて差し上げましょう」
「ほんとう!?」
 暗かった名前の表情が、一気にぱっと明るくなる。長谷部は名前の笑顔が大好きなのだ。
「長谷部はピーマンすきなの? すごいね!」
「……なんでも好きですよ。主がくださるものなら、なんでも」
「わたしね、にんじんもあんまりすきじゃないの」
 長谷部はああ……と思う。名前はよくにんじんも残していたなと。
 ちなみに長谷部もにんじんはあまり好きではない。青臭かったり苦かったりする野菜の中で、異彩を放つあの甘みが、どうにも好きになれない。食べられないほどではないが、食卓に並んでいると何となく箸が進まなくなる程度には。
「俺もにんじんはあまり好きではありませんよ、お揃いですね」
 すると主はにっこりといたずらっぽく笑う。
「おのこししたら“しゅくじょ”になれないよ?」
「俺は男だからよいのです」
「ええー、なんでー! ずるいよー! 長谷部はおひめさまになりたくないの?」
 長谷部は一瞬女人用の着物を身にまとい、床に這わせる己を想像しかけた。いや違う、そうではない。
「俺は男ですから……強いて言うならお殿様でしょうか」
「おとのさまってなに?」
 名前がくりくりとした目で長谷部を見上げる。これはまた難しい質問だ。
「……そうですね、この本丸のように大きな城と家臣を統べる、立派な男のことですよ」
「それってわたしはおとのさまってこと? わたしは、おひめさまに、なりたいのに!」
「あっ、いえ、そういう意味では。……主!」
 長谷部が止めるも名前はするりと長谷部の腕をすり抜け、長谷部の元から出て行ってしまう。
「もういいもん! 長谷部のいじわる!」
 ぷりぷりと怒りながら、名前はぱたぱたと部屋の外へと駆けていく。
 しかし長谷部は名前を追いかけたりはしなかった。
 長谷部に意地悪と言って逃げたところで、名前の気分はすぐに変わる。名前に何かあればまたすぐに甘えてくることを、長谷部はわかっている。こういう時にしつこくしては、却って逆効果になるのは火を見るよりも明らかだ。
 だから長谷部は名前のいじらしい反抗に、今更戸惑ったりはしない。
 しかし先程は言葉選びに失敗してしまったと、長谷部は苦く思う。名前と二人きりの蜜月を過ごせる機会は少ない。何せこの本丸での名前は皆の主で、とても多忙で人気だからだ。せっかくの絶好の機会を、長谷部自身がふいにしてしまった。
 殿様などという言葉を選ばなければよかった。
 しかし姫様の対義語に相応しかった言葉は何だろうか。

「王子様、か」
 長谷部は目を細め、名前の去ってしまった方向を凝視する。既に名前は廊下の向こうに去ってしまった後だった。





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2020年10月6日

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