三年越しの桜よ

歓迎

「うう……、うう……」

 執務室の奥のドアから通じる名前の自室。その寝台の上で、名前は羞恥のあまり呻き続けていた。

 名前は恥じていた。あの政府から迎えたへし切長谷部が自分の遅い初恋の相手だという事を、本丸中に知られているらしい事実を知り、衝撃のあまり寝台で転がりまわっていたのだ。
 長谷部と恋愛関係になれない可能性も考慮して、名前は片想いしている事を秘するつもりだった。何せ職場で上司から部下に一方的に恋愛感情を傾けている状態だ。部下にとっては居心地が悪いだろうし、万が一相手に知られて破局すれば本丸の空気が一気に仕事のしづらくなることなど、目に見えている。

 それに名前自身は自分の“恋愛感情”をうまく制御できていなかった。初めて異性に傾ける激情をどう操ればいいのかわからず、持て余すばかりの日々。ただあの長谷部を手元に置きさえすれば、この感情も少しは収まると思っていた。なのに長谷部を手中となった今も、収まる気配がない。どころか、生身の長谷部がすぐ傍にいてくれるというだけで、息が詰まりそうなほどの感情が胸を満たした。
 そんな感情を、他の刀剣男士達に知られているなんて。

 何たる不覚。

 せっかく政府から呼び寄せたというのに。それも何年も審神者としての戦績を積んで、時に無理な行軍を刀剣男士達に強い、疲労する自分の身体に鞭打って事務作業を行ったのに。

 数分が経っただろうか。名前が顔を上げる。

 最近やってきたばかりの長義が知っていたのだ。長谷部に知られるのも時間の問題だろう。今更嘆いても仕方ない。
 そう思い直すことにしたのだ。でなければ、私室から出ることすら叶わないだろう。




 名前が何とか立ち直ろうとしている時、隣接した執務室の方から、名前を呼ぶ声がした。

「主、いるかい?」
「ええ、ちょっと待っていて。すぐに行くわ」

 名前は身支度を整え、すぐに執務室に向かう。そこには長谷部と歌仙がいた。

「彼の案内を済ませてきたよ。もちろん荷解きも済ませてある」
「そう」
「彼のたっての希望で、近侍部屋に居を構えることになったよ」
「えっ」

 名前の口から動揺の声が漏れる。近侍部屋とは執務室の障子を隔てた隣の部屋だ。そんな近くに、長谷部が常にいる! ……という驚きもあるが、それ以上に近侍部屋はあくまで近侍が待機する部屋であって、住居用に作られてはいない。他の刀剣用の私室と異なり、部屋は狭く収納は最低しかない。生活の場として使うには不適切だ。それに長谷部のための部屋だって用意していたはずだ。

「近侍部屋はあくまで近侍が待機するための部屋でしょう。狭いのではない?」
「俺の荷物は少ないですし、何より主命を賜るためには、常に主の身近に控えている方がよろしいかと」
「この調子でね。いいかい? 主」
 目を輝かせながら長谷部が言い、そんな長谷部を歌仙が苦笑いする。
「わかりました。もしも変更の希望があったら、遠慮なく言いなさい。部屋はあるから」
「はっ」

 長谷部が首を垂れる。自分に慇懃に接する長谷部を見て、名前はじんわりと胸が熱くなるのを感じた。二人の初対面の時は、あくまで政府に仕える身として一線を引いていた接していた長谷部。その長谷部が、やっと自分の刀剣男士として接してくれている。その事実が名前にとって、うれしくてうれしくて仕方がないのだ。もちろん、そんなことはおくびにも出さず、名前の表情は微笑のまま固定されている。

「歌仙から聞いているようだけど、あなたを近侍にしようと思っているの。我が本丸では新しい刀剣男士を迎えた時の通過儀礼みたいなものでね。新参の練度が上限に達するまでの間、第一部隊の隊長にするの。何か質問はあって?」
「それはつまり……、俺が近侍としてお仕えできるのは、一時的な物ということでしょうか?」
 長谷部の眉が落胆で八の字になる。先程長谷部は自分が主の特別な存在だと聞いていた。その上で近侍を任されると聞いていたから、本丸全ての刀剣男士を押しのけて、主の一番の座に就けると思い込んでいたのだ。
「それはあなたの活躍次第、と言ったところかしら。近侍の入れ替えはあっても、今のところ大事なことは全て歌仙に任せているのよ」
「承知致しました。主から近侍の命を賜るなど光栄の極み。この長谷部、必ずや主の命に応えてみせましょう」
「期待しているわ」

 名前が歌仙に向き直る。

「それでは歌仙、引き継ぎ業務を」
「ああ、了解した。それでは行こうか」
「失礼致します」

 歌仙と長谷部が執務室を退出する。長谷部の視界の片隅で、名前が書類を取り出して作業をしようとしているのが見えた。
 ピタリと執務室の障子を閉めた後、歌仙が厳しい面持ちで長谷部に向き直る。

「僕の後任なんだ。主の近侍として恥をかくことがないよう厳しく指導するから、そのつもりで」
「ああ」
 長谷部は一つ頷いて見せたが、さらに歌仙が厳しい表情で言い募る。
「念のため忠告しておこうか。この本丸の刀剣男士はほぼ練度が上限まで達している。いきなりやってきた君が、主に特別扱いされることを厭うものもいるだろう」
「それは承知の上だ」
「君がどういう姿勢で近侍をするか僕は知らないが、君の振る舞いが本丸の空気を左右することを忘れてはいけないよ」
「…………忠告、感謝する」

 長谷部は神妙な表情で歌仙の言葉に頷く。歌仙は満足そうに「よし」と頷き返した。

「では早速近侍の仕事について教えようか。まずは……」

 歌仙がそう言いかけた時、ドスドスと重い足音が響く。遠征に出ていた部隊が帰還し、名前に報告にやってきたのだ。
「おっとぉ、見慣れない顔だな? いや、見慣れた顔って言った方がいいのか?」
 その面子の中には、同じ家に所有された経歴のある天下三名槍の一口、日本号がいた。残念ながら刀剣男士としての日本号を長谷部は知らない。政府所有時に屋内戦を主としていた長谷部は、鎗との共同任務に当たることは滅多になかったし、話す機会もなかったからだ。だが名前と顔だけは一致している、長谷部にとって日本号とはそんな存在だ。
「お知り合いでしょうか? 初めまして。僕は前田藤四郎と言います」
「へし切長谷部だ。本日からこの本丸に配属された。よろしく頼む」

 自己紹介する長谷部に、日本号がシニカルに笑う。
「お前かぁ、主がわざわざお上から取り寄せた刀っていうのは。俺のことは紹介しなくてもわかるだろう? お前と同じ御家に仕えた日本号だ。ま、殿様に所有されてたお前じゃ、俺の事なんざ覚えてさえねえかもしれねえがな」
 日本号が胡乱な目つきで長谷部を見下ろす。長谷部は突然ぶつけられた不穏な眼差しに気圧されないよう、知らず知らず腹に力を込めた。
「今の主は同じだ、それを忘れるな」
「言われなくともわかっているッ」
 挑発的な物言いに、長谷部はつい低く言い返す。睨み上げる長谷部を日本号は無表情で見下ろした。執務室の前に沈黙が下りる。
「日本号さん、主君にご報告へ参りましょう。それでは長谷部さん、歌仙さん、また後程!」
 前田がさりげない所作で間に入り二人を引き離す。日本号は不承不承という様子ではあるものの、二人は名前の執務室へ去っていった。

「ああ、そういえば日本号で思い出した。君、酒は飲めるかい? 今日は君の歓迎会があるんだ」
「……一応そこそこ飲める方だ」
「それはよかった。主が君の為に大盤振る舞いをしてね、随分いい酒を仕入れたらしいんだ」
「主が?」
 主。その名が出てきただけで、長谷部の胸は躍った。
「そうだよ。もちろん君だけが特別というわけじゃない。新入りが入ってきたら、必ず歓迎会をするし、酒も取り寄せるんだ」
「そうか」
「いいかい、重ねて言うけどね、君は主の特別かもしれない。けれど今は主が何も君に言っていないのだから、僕らは平等な立場なんだ。そのことを忘れるないでくれ。決して奢り高ぶるんじゃあないよ」
「……わかっている」

 歌仙が長谷部に何度も言葉を重ねる。しかし長谷部はどこか上の空だった。数百年ぶりに訪れた己の所有者という存在。そして己が主の初恋の君であり、特別な存在であるという事実。望まれて政府から今代の主に取り寄せられたこと。
 今の長谷部に高揚するなという方が無理からぬ話だった。







 その晩、大広間にて長谷部の加入を祝う宴会が開かれた。
 長谷部に話しかけるものは少なく、普段よりもやや控えめな賑やかさに宴は続いた。名前は長谷部に話しかけながら、この状況を不思議に思っていた。
 常なら皆新しい刀剣男士が顕現されれば嫌というほど歓迎してくれるし、ノリの良いものは宴会芸を披露してくれる。だのに宴会芸どころか長谷部に近寄るものさえ少ない。どうして?
 しかし普段の本丸の様子など知らない長谷部は、新しい主である名前の質問に機嫌よく答えている。つまみや酒にも遠慮がちではあるが手を伸ばしていた。
 ほろ酔い気分の長谷部と内心困惑する名前、二人を遠巻きに眺める他の男士達という奇妙な宴が続く。

 と──。
 ドンっと大きな音を立てて、名前の隣に酒が並々と注がれた巨大な盃が置かれた。
「よお、よろしくやってるかい。ご両人」
 大きな影が二人に被る。三名槍の一つ・日本号が愛用する盃を置いたのだ。内心長谷部との会話の種がなくなりつつあることと、周囲のおかしな反応に焦りを抱いていた名前はほっとする。しかし、日本号の目に剣呑な色が宿っていることに、名前は気付いてしまった。隣にいる長谷部に目をやると、長谷部も主との会話に割り込まれたことに気分を害した様子だった。闖入者の日本号を睨み付けている。
「日本号、来てくれて嬉しいわ」
 日本号が名前の右隣にどかりと座る。名前の左隣には長谷部、右隣には日本号に挟まれた状態だった。自分より上背のあるもの達に囲まれることに名前は慣れていたが、何とも言えない威圧感を二人から感じていた。
「そうかい? 俺も主の傍で飲めて酒が美味いぜ、ははっ。おっとお、悪いね」
 名前が日本号の空いた盃に酌をする。ぐいっと日本号が一息に飲み切る。そして空になった盃に日本号が手酌で持参の徳利から酒を注ぎ、長谷部の前に置いた。

「飲めよ、へし切。主の酌じゃなきゃ飲めないなんて、言うつもりじゃないだろうな?」
 日本号がにやりと笑って長谷部を挑発する。
「無礼な」
 挑発とわかりきっていたが、既に酒を飲んでほろ酔い気分だった長谷部はそれに乗ってしまう。日本号に差し出された盃を、ぐいと一息に煽ってしまう。酒が長谷部の喉を、身体を熱くする。
「どうだ、飲んだぞ」
「そんなの見りゃわかるさ」
 得意げに胸を反らす長谷部を、日本号が鼻で笑う。そしてゆらりと顎を突き出し、長谷部を睨み付ける。
「お前と同じ御家に仕えていたよしみで教えてやるよ。お前、今代の主の初恋の相手だか何だか知らねえが、主の特別と知って粋がるなよ」
「日本号!」
 名前がたまらず叫ぶ。

「待って、どこまで知ってるの? うそでしょ?」
 名前が慌てて質問を重ねる。彼女は耳まで朱色に染めていた。名前が明らかに動揺しているのが、日本号のみならず周囲の刀剣男士達にも伝わった。
「あんた、口調がいつもと違うぞぉ」
「あっ、これは!」
「無理に繕おうとする癖、いい加減やめた方がいいぜ」
 にやりと日本号が人の悪い笑みを名前に向ける。
「うっ……」
 名前は日本号の鋭い指摘に言葉を失った。
 全てばれているんだ。私の恋心も、虚栄も、何もかも……!
 黙り込んだ名前に代わり、日本号が口を開いた。
「そうさな。俺が知っているのは今目の前にいる朴念仁に、主がお熱ってところだな。お前達だって知ってるだろう?」
 なあ? と日本号が呼びかけると、様子を見守っていた刀剣男士達が、一斉に頷いた。つまり、『長谷部は初恋の君』という隠し事は、本丸中に知れ渡っていたということだ。
「うそでしょ……何で」
「すまない、主。僕がうっかり話してしまったのが、いつの間にか広まってしまったようで」
 呆然とする名前に、遠くから歌仙が口を挟む。やはり歌仙が誰かに言ってしまったことが、本丸中に広まってしまっていたらしい。

 先程までは控えめな話し声で満たされていた大広間が、いつの間にか静まり返っていた。

「主……」
 新入りの長谷部だけが、所在なさげに名前を見る。これで長谷部本人にも恋心を知られてしまった。もう隠し通せない。
 名前は観念して大きく息を吸い込み、そして口を開いた。
「皆に隠していてごめんなさい。確かに私は、審神者就任式で会った、このへし切長谷部に恋愛感情を持ちました。そして彼を傍に置きたくて、政府に無理を言って彼を呼び寄せました」
 静まり返っていた大広間がざわりと困惑の声で満たされそうになる。
「でも!」
 名前が再度声を張り上げると、すぐに皆口を閉ざした。
「でも、本当は、長谷部に好意を伝えるつもりもなかった。もちろん長谷部を特別扱いするつもりもなかった。今も、これからも──。それだけは信じてください」
 そして名前はくるりと長谷部に向き直る。
「長谷部」
「はっ」
「今私が言ったことは事実です。ですがあなたに個人的な交流を強要するつもりも、特別扱いするつもりも一切ない。あなたはあくまでこの本丸に在籍する、刀剣男士の一振りよ。それだけはわかっていて」
「はっ……」
 長谷部の高揚していた気分が一気に下降する。温かかった体内に、突如氷を投じられた気分だった。自分は主の特別だ。そう鼻を高くしていた長谷部の自信をへし折ったのは、主である名前自身だ。

「ごめんなさい。せっかく来てくれたばかりなのに。居づらくなったよね? もしもここにいるのが嫌だというなら──」
 名前が申し訳なさそうに謝罪の言葉を紡ぐ。挙句、長谷部を手放そうとする勢いだったので、長谷部は思わず叫んだ。
「滅相もございません!」
 そしてそのままの勢いで畳に三つ指をつく。
「確かに俺は主の言に従い、主の元に馳せ参じました。ですが! それは審神者様が俺の主に足る人物だと、俺自身が確信したからです! どうか俺を手放すなど、努々思わないでください! 俺は全く問題ありません」
 長谷部は三つ指をついた体勢でぴくりとも動かなくなった。名前が己を手放さないと確約してくれるまで、その場から動くつもりはなかった。
「でも……」
 名前は長谷部の勢いに気圧され、言葉を続けられずにいた。
「ま、本人がそう言ってるなら、いいじゃねえか」
「日本号……」
 固まってしまった二人に、日本号が柔らかく言葉を挟む。
「ごめんなさい、長谷部。来て早々に嫌な思いをさせてしまって。でもあなたがこの本丸でいいと言ってくれるなら、もちろんこのまま本丸にいてほしいと思っているの」
「もちろんです! 主が俺をお望みなら、なんでもこなしてご覧に入れます!」
「そう……よかった。改めて、これからよろしくね、長谷部」
「はい。末永く、お傍にお仕え致します」

「悪かったな。上機嫌な所に水を差して。ほら、飲めよ」
 そう言って日本号が名前と長谷部に徳利を差し出す。長谷部はもう一度座り直し、名前はおずおずと空だったぐい吞みを日本号の方に向けた。日本号が「よしよし」と目を細めて、名前のぐい吞みに酒をとくとくと注ぐ。
 するとそれを皮切りに皆が長谷部達の元に、わらわらとやってきた。皆名前が「長谷部を特別扱いせず本丸に迎え入れる」宣言に安心して、長谷部を仲間として認めたのだ。
 めいめいに長谷部と主に質問を重ねていく。
 二人の出会いや政府での仕事内容等々、話題は尽きない。それに長谷部が応えていく内、夜は更けていく。





 いい時間になったので、名前の「そろそろお開きにしましょう」という言葉で解散することとなった。
 皆が片付けに奔走する中、日本号がのっそりと立ち上がる。その背に名前が声をかける。

「日本号」
「んん?」
「さっきはありがとう」
 日本号は後ろ手に頭を掻きながら、照れ臭そうに笑った。
「なあに、俺がやりたくて勝手にやったことさ。同じ御家出身のよしみとしてな。それに……あいつは持ち主の気に入られると思うと、それを鼻にかけるところがあるから、な」
「そうなんだ。でも日本号は長谷部と初対面なんだよね?」
「ああ、この姿になってからはな。昔同じ御家……黒田家に仕えていた頃の話さ。といっても、俺は黒田のお家の家臣に仕えていたんだ。顔なじみのやっこさんに話しかけようとすれば、まあ色々偉そうに言われたもんだ。今回も同じことになったら厄介だと思ってな。あんたが特別扱いしないと断言してくれて安心したぜ」
「そうだったんだ。色々教えてくれてありがとう。とても助かった」
「そうかい? そいつはよかったぜ。……ところであんたのその口調」
「ああ、さっき日本号に言われて、もうやめることにしたの。無理に主らしくするのは」
「そうかいそうかい」
 名前の言葉に日本号は嬉しそうに頷く。今までの名前はいつも威厳を持って刀剣男士に接しようとしていた。何故なら男所帯を女手一つでまとめあげねばならなかったからだ。彼ら刀剣男士達は立派な前の主達に仕えた経歴を持つ神々だ。名前がこの本丸の主であるためには、どうしても肩肘を張らざるをえなかったのだ。そのためにやや居丈高な言葉遣いだった。
 だが日本号のおかげで、もう虚栄を張ることに意味はないと、名前は気付いたのだ。

「主、空き瓶はどちらに置きましょう?」
 話していた二人の間に長谷部が割って入る。それをうるさそうに日本号が顔を向けた。
「おお、それなら俺が教えてやるよ。新入り殿」
「お前には聞いていない」
 そんな二人のやり取りを聞きながら、名前はわずかに微笑む。

 あの桜並木で出会った長谷部は、もっと穏やかで厳しくも優しい人という印象だった。が、どうやら違う側面もあるようだ。
 審神者就任式で出会った長谷部は、間違いなく名前の初恋の相手だ。けれど、これから少しずつ、名前の知らない長谷部の側面を見ていこう。  宴会の片付けをてきぱきと指示しながら、名前は思った。





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2020年8月24日

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