三年越しの桜よ

本丸へ

 キィ、と音を立てて扉が開く。政府所有の刀剣男士達の屯所の一室。その十二畳ほどの板張りの部屋が、長谷部にあてがわれた私室だ。私室といっても、長谷部だけのものではない。開け放たれた部屋の窓。ちょうど大ぶりな桜の枝が窓の外で広がっている。枝で咲き誇る花びらが、ぽつ、ぽつと部屋に入り込んで来ていた。

「話は済んだのかい?」

 窓の傍でゆったりと椅子に腰かけていた歌仙兼定が、長谷部の気配に気付いて顔を上げた。長谷部の同室者は彼である。

「ああ」
「そうか」
「ここを出ることになった」
「ほう」

 歌仙兼定がわずかに目を見張る。

「何かしでかしたのかい。君に客人が来たと聞いていたはずだけれど」
「いや。俺を引き取りたいという方がいらっしゃった。その方の手配で、本日付で政府所有ではなくなる」
「随分急じゃないか」
「三年前の審神者就任式を覚えているか? ちょうど今と同じくらいの時期に、俺とお前で説明係をさせられた」
「もちろん。君に執着している審神者候補がいたが……。もしやその時の」
「そうだ」

 歌仙は驚きにしばし目を見張った後、興味深そうに肩を揺らした。

「あの時は何を世迷い事をと思ったが、まさか実現するとはね」
「俺も驚いている」
「先程本丸に戻られたが、即座に俺を連れていけないことに不服そうだった」

 長谷部が笑って言う。歌仙も微笑ましそうに目を細めた。

「変わっていないね」
「ああ、全く」

 他愛のない話をしながら、長谷部は自分の荷物を整理すべく、箪笥を開いた。

 三年の時を長谷部はここで過ごした。出張任務で引っ張りだこで、あまり過ごす時間は多くなかったため、物の整理ができていないが、長谷部の私物はもともと少ない。今日中には荷物をまとめることができるだろう。

 必要な荷物を茶色のトランクに詰め込んでいく。長谷部がいつも出張で使用していた物だ。

「うらやましいことだ。それだけ人間に執着してもらえるなんて」

 荷物を精査する長谷部の背中に、歌仙が声をかける。

「僕もその場にいたというのに」

 わずかに拗ねた色を混ぜて、歌仙はつぶやく。果たして己に向けた言葉だったのか、ただの独り言なのか。長谷部には判断がつかなかったため、返事はしないでおく。

 長谷部がふっと笑む。ここに配属されたばかりの頃のこと。歌仙と長谷部は同じ日に配属された。初対面の挨拶もそこそこに、互いの荷解きをした。

 その間中、歌仙が長谷部にひっきりなしに話しかけてくるのだ。窓から覗く桜や景色を見ては、しきりと雅だ雅だ君も見たまえとはしゃいでいた。いや、三年付き合っていたから、長谷部にはわかる。この歌仙兼定という刀は、不慣れな相手との沈黙が耐え切れなくて、つい口を開いてしまうのだ。

 そんな長谷部の笑む気配に勘付いた歌仙が、むっとした顔になる。

「君、随分嬉しそうじゃないか」
「いやそうではない。いや、そうか……。そうだな、嬉しいな」
「どっちなんだい」

 今度こそ歌仙はぷいと横を向いてしまった。完全に拗ねている。

「去り際にのろけるなんて、いい趣味をしているね」
「すまん、そういうつもりはなかった」

 少し経ち、歌仙は思い直したらしく、長谷部の背に尋ねる。

「それでここはいつ発つんだ」
「明朝、迎えにいらっしゃる」
「本当に急だな」
「俺の所有権をめぐって、今日の面会の直前まで政府に直談判していたそうだ。急ぎの用がないのであれば、できるだけ早く本丸に迎えたいと」
「はあ……。すごいね」
「語彙力がなくなっているぞ」
「そんなことはないさ」

 呆然とする歌仙を長谷部が茶化すと、むっとした声が返ってきた。

 長谷部は荷物を選別しながら、先程政府の役人から聞いた説明を思い出していた。所有権譲渡の関係で、様々な注意事項を言い含められた。

 ここで知った個人情報や機密情報は漏らしてはならない、万が一本丸配属後に体調に異変があった場合は、すぐ審神者様かこんのすけに報告すること等々……。そして。

「良いことばかりではない」
「と言うと?」
「俺の所有権が政府から審神者様に譲渡されることで、俺の練度は初期化されるそうだ」
「それは……」

 長谷部は政府の刀剣男士として様々な業務に従事し、三年間働く内に気が付けば練度は上限に達していた。

 特に屋内での隠密調査や鎮圧作戦に多く参戦していた。屋内戦では、誰にも負けないつもりだった。本丸で審神者に従事している、どのへし切長谷部よりも。

 三年間積み上げてきたものが、全て帳消しにされる。政府所属の管狐に通達された時、長谷部はいまいち実感が湧かなかった。

「参考までに理由を聞いてもいいかい」
「霊力の問題だそうだ。今の俺は政府によって顕現された身。それがある日突然主が変わった場合、俺や審神者様の身体に影響が出る可能性があるそうだ」
「なるほど。審神者という職業は思ったよりも繊細な物だからね、仕方がないかもしれない」
「そうだな、仕方がない」

 荷物の整理が終わり、長谷部はパチンとトランクを閉める。長谷部がここで過ごした三年間は、ビジネスバッグサイズのトランクに全て収まってしまった。

 着替えも本丸で用意されているそうだが、念のため下着類だけは持っていくことにした。あとは暇つぶし用の本が二冊ほど。本は出張の度に持ち歩いていたため、読み古された跡がある。ライターと煙草、そして桜の押し花。

 これは長谷部達と名前と出会った審神者就任式で、歌仙が持っていた桜の枝から拝借したものだ。処分するのは忍びなく、なんとなく取っておいたのだ。名前から一時的に預かる、と約束していたから。




 日が暮れ、あっという間に夕食が済み、最後の消灯時間がやってくる。

 長谷部は簡素な二段の寝台の下段に入り、目を閉じようとした。

 まどろみの最中、配属初日にどちらが寝台の冗談を使うかで歌仙と言い争ったことを、長谷部は思い出す。
 あの時は狭い下段では敵襲に対応する際不利になると主張する長谷部と、物珍しい二段の寝台なら当然上段がいい歌仙とで、互いに譲らなかった。最終的に何か……恐らく腕相撲のようなもので勝負をして、歌仙に譲ることになった。もしかしたらじゃんけんだったかもしれない。

 過去を回想し徐々に長谷部の意識が遠のきかけていた時、上の寝台から歌仙が話しかけてくる。

「今日で君と過ごすのも最後か。なんとも寂しいじゃないか」
「……そうだな」
「せっかくの最後の夜だ。ゆっくりお休み、へし切」
「長谷部と呼べ」
「はいはい」

 そうして夜は更けていく。



 翌朝。部屋の扉を何回かノックする音が、低い位置から響いた。

「へし切長谷部殿、いらっしゃいますか」
「ここに」

 扉を開けると、政府の遣いである管狐がちょこんと座っていた。

「本日貴方様の案内係を務めますこんのすけと申します。準備はできておりますか?」
「ああ、完了している」
「では参りましょうか。もうすぐ審神者様がお見えになります」
「了解した」

 長谷部は既に身支度を整えた後だった。最後に部屋の姿見で自分の姿をちらりと確認し、茶色いトランクを持ち上げる。

「いってらっしゃい。気を付けるんだよ」
「ああ。いってくる」

 歌仙と最後の挨拶を交わし、長谷部は部屋を出た。まだ夜が明けたばかりの廊下に人気はなかった。歌仙は長谷部との別れを惜しむために、起床時間よりも早く起きていてくれたのだ。

 振り返らずに、管狐に続いて廊下を歩く。

 到着した先には、物々しい鉄製の扉があった。管狐が専用の足紋認証機に肉球を押し込むと、ガチャンと音を立てて施錠が解除された。天井にまで届く大型の筒状の機械があった。横に細長い扉がついている。長谷部にはそれが何なのかよくわからなかった。

 管狐が機械の前にある足紋認証機に触れると、扉が開かれた。そこには空間があった。長谷部の本体が、すっぽり入ってしまうような空洞があった。空洞からは青白い光が放たれていた。

 機械はゴウンゴウンと駆動音を立てている。何となく、長谷部は嫌な予感を覚えた。

 長谷部の動揺を知らぬ管狐が、振り返った。

「これより正式に貴方様の所有権を、政府から加賀国の第二百五十八万三百三十一本丸の審神者様に譲渡されます。そのために、一度貴方様の練度を初期値へ戻す必要があります」
「昨日聞いている」
「一度顕現を解かれた後、こちらの機械で貴方様の練度を初期値へ戻します。最終確認です。よろしいですか?」
「ああ」

 長谷部の胸中に迷いはなかった。はっきりと管狐に頷く。

「承知致しました。では貴方様の本体を機械の中へお入れください」
「わかった」

 管狐の言に従い、長谷部は本体を箱に差し入れた。すると、音もなく長谷部の身体が掻き消えた。顕現が解かれたのだ。

 管狐はそのまま扉を閉め、再度足紋認証機に足を押し込む。数分後、ゴウンゴウンと音を立てていた機械が、停止する。

 それを見計らったように、入り口の扉が開いた。長谷部を引き取りに来た、苗字名前だった。先日長谷部と面談した時は黒いスーツ姿だったが、今日は朱色が鮮やかな巫女装束を着こなしている。隣には歌仙兼定が付き添っている。彼は長谷部が見慣れた歌仙兼定とは異なる衣装を身につけていた。

 名前が管狐に会釈する。

「お世話になっております」
「これはこれは審神者様、ようこそいらっしゃいました。既にへし切長谷部殿の譲渡の準備は済んでおります。さ、そちらの扉をお開けください」
「こちらを?」
「はい」

 名前は力を込めて、扉を開ける。思ったよりも重い感触でもって、ゆっくりと扉は開いた。白い煙が部屋に充満するが、すぐに霧散する。その機械の中に一口の打刀が安置されているのが見えた。

 名前がちらりと管狐を振り返る。

「私の望んだへし切長谷部で間違いありませんか?」
「はい。相違ありません。念のためこちらで長谷部殿を顕現させて、ご確認いただけますか?」
「わかりました」

 名前は打刀を手に取り、霊力を込める。すると、桜の花弁がぶわりと立ち上り、一人の刀剣男士が名前の目の前に降り立った。

「へし切長谷部、と言います。主命とあらば、何でもこなしますよ」

 審神者の呼び声に刀剣男士が応じ、名乗りを上げた時点で主従の契りは完了するが、長谷部は念のため補足する。胸に手を当て、名前に頭を垂れる。

「三年前の春に開催された審神者就任式で貴女にお会いした、へし切長谷部です。貴女にお仕えできることを、光栄に思います」

 そこでやっと名前は緊張していた肩の力を解いた。

「よくぞ私の願いに応じてくれました。あなたを迎えることができて嬉しいです。これからよろしくお願いしますね。長谷部」
「はっ」

 名前の足は迷いなく出口へと向かう。すると傍に控えていた歌仙兼定が顔を上げた。名前は歌仙に一つ頷いて、そのまま屯所の出口へと歩く。そんな名前に歌仙が尋ねた。

「もう戻るのかい? せっかく桜が見頃だというのに」
「ええ。もうここに用はないから」
「それはいいが、まだ自己紹介もしていないだろう」
「ああ、そうだった」

 長谷部の前を歩いていた名前がくるりと振り向く。

「ごめんなさいね、ちょっと浮足立っていた。私……のことはいいわね。もうご存知でしょう? 今日付き添ってくれているのは、『歌仙兼定』。私の初期刀で、今日からあなたの世話係をすることになっているの」
「主の近侍を務める歌仙兼定だ。どうぞよろしく」
「元政府所有のへし切長谷部だ。よろしく。ところでこちらの歌仙兼定は、俺の知る歌仙兼定と装束が異なるようですが」
「ああ、これかい?」

 長谷部がそう問いかけると、歌仙が嬉しそうに頷く。

「僕は修行に出て、己の真の力を手に入れたのさ」
「修行? 真の力……?」
「聞いたことがない? 貴方達刀剣男士は、十分練度を上げた状態で特定の道具を持っている場合、修行に旅立つことができる。修行先で自身を強化し、本丸に帰還する」
「その状態を、僕らは“極”と呼ぶんだ」
「噂には聞いたことがあります。事実だったのですね」

 長谷部も聞いたことがある。具体的な内容は一切不明だが、審神者に従う刀剣男士は練度を上げる他に、さらに己を強化する秘密の手段があることを。詳細な情報は政府に伏せられており、役人や管狐に問うても答えは得られなかった。

「あなたもいずれは修行に旅立つ日が来るかもしれない。でも、今はまず本丸に慣れることから始めてちょうだい」
「はっ」
「ああ、その意気だ。君もいずれは僕と同じく境地に至れるだろう僕が世話役をするのだから何も心配はいらないなにせ僕は本丸に最も長く在籍する刀剣男士なのだからねそれで早速なのだけれど」
「歌仙、落ち着いて」

 突如洪水のごとく話始める歌仙を、名前が慣れた様子で止める。

「歌仙は初対面の相手に多弁になる癖があって。それを差し引いても頼りになる刀剣男士よ」
「君、わざわざ彼に言うことはないだろう!」
「だってあなた、私が止めなきゃいつまでも長谷部に語り続けていたでしょう?」
「お気遣いなく。慣れておりますので」

 苦笑交じりの長谷部が言う。

「慣れる?」
「俺の同室者が歌仙兼定でした」
「もしかして就任式で一緒だった?」
「はい。ですので、初対面の歌仙兼定の様子もわかっております」
「それはよかった。歌仙がお喋りすぎる刀剣男士と誤解されてしまうかと心配だったわ」
「おやおや、お喋りすぎるなんて心外だな」
「だって、歌仙は以前にも大倶利伽羅と……」
「それ以上は言わなくていい」

 そうして名前達は賑やかに本丸へと向かう。



 屯所内専用の転送門をくぐると、長谷部達を大輪の桜が出迎えた。はらはらと散っていく桜の花弁が、長谷部達の周囲を取り巻いているような錯覚を受ける。転送門を通ったことで、本丸内に移動したのだ。

 桜吹雪を抜けた先に、城の影が見えた。広大な敷地にどっしりと構える城。遠くから刀剣男士達のはしゃぐ声が聞こえる。どこかで短刀達が遊んでいるのだろう。


 ──これが、本丸。

 長谷部は名前の背中を見やる。そしてもう一度前方の城に視線を移す。

 自分がこの本丸の刀剣男士になれたことに、いよいよ実感が持ててきた。

 長谷部達を迎える刀剣男士が一人いた。日の光に銀髪が照らされ、碧眼が柔和に笑んでいる。

「おかえり。無事だったかな」
「ただいま、長義。お出迎えありがとう」
「そちらが噂の新入り君かな」
「へし切長谷部だ。よろしく」
「俺は山姥切長義。俺こそが長義が打った本歌、山姥切だ。よろしく、新入り君」

 山姥切、と聞いて長谷部の脳裏に浮かんだのは、同じ名を持つ山姥切国広だった。彼は度々屯所内で見かけたし、任務を共にしたこともある。しかし、目の前にいる山姥切長義という刀剣男士は、初めて見る。

「打刀で、あなたと同じく元政府所属だったの。長谷部は長義を知っているかしら?」
「いえ、初めて見ます」
「同じではないさ」

 名前と長谷部の会話を、さらりと長義が訂正する。

「彼は政府“所有”、俺は政府“所属”だ。政府所有は本丸を監査する権限を持たない。何より政府所属は、政府を主とはしない。請われて政府の元に降り立ってはいたが、政府に生死を握られている所有刀剣とは、全く異なる。それに屯所も違うし管轄部署も違う」

 その言葉に思わず長谷部は反論しそうになった。どう言い繕おうと、結局政府の管理下で従事していたことは同じではないか。長谷部の不穏な気配を感じ取り、長義が流し目で笑う。

「長義、私の言い方が気に障ったなら、謝りましょう」
「わかってくれたのならいい」
「長義は元々はこの本丸を監査するためにやってきた刀剣男士。出自は多少異なっても、貴方と同じ、私の刀剣男士であることに変わりはない。遠慮せずに付き合ってあげてちょうだい」
「監査、ですか」

 政府所有の刀剣男士が、本丸を訪れることはある。長谷部も何度か経験した。
 その全てが本丸の運営に問題を抱えている場合、本丸の主が消息を絶った場合、そして謀反の疑いがかかっている場合の三通りだ。その全てが、調査ではなく制圧や後処理が目的だった。刀剣男士が本丸を監査するなど、長谷部は聞いたことがなかった。

 この本丸は謀反の疑いが、ないしは何らかの嫌疑がかけられていたのかと、長谷部の胸中に黒い予感がよぎる。

 しかし、目の前にいる名前は、恐らく無実だ。それは長谷部自身が、今この本丸にいることが、何よりの証拠だ。もしも何か問題を抱えていたとしたら、政府所有の刀剣男士を引き取ることなど、到底できなかっただろう。

「誤解のないように言っておこうか。放棄された世界への潜入調査を通して、俺はこの本丸の戦力を監査した。ちなみにこの本丸は文句なしの“優”だ。万が一本丸に問題があるようなら、俺がここに顕現されることもない」
「放棄された世界? どういうことだ」

 聞き慣れない言葉に、長谷部が反射的に聞き返す。すると長義は眉を上げて驚いた表情を作る。

「話には聞いていたが、そちらは情報規制が激しいようだな」
「一気に情報を増やすと君も混乱するだろう。おいおい話そうじゃないか」

 疑問符だらけの長谷部を、歌仙が取りなす。

「まずは長谷部の荷解きを済ませましょう。歌仙、長谷部を部屋に案内して」
「わかった。では行こうか」
「ああ。では主、失礼致します」
「ええ、また」

 名前に一礼し、長谷部と歌仙が去っていく。名前は二人に手を振り見送った。

 そんな名前の様子を、長義がからかう。

「感動の再会、と言ったところかな?」
「そうとも言える。でも、これからが始まりよ。三年間ずっと待ち望んだ刀剣男士を迎えられた。これからが本番」
「気合十分といったところかな。俺にはあの長谷部が特別なようには見えなかったが」
「あなたにはそうでしょう。でも、私には違う」
「へえ」
「少なくともあの長谷部がいなかったら、この本丸はここまで戦果を挙げることができなかった。もしかしたら私は審神者にならなかったかもしれない」
「ふうん」

 長義が長谷部の背中を目で追う。紫紺のカソック姿は随分小さくなっていた。

「これから長谷部を育て上げて、強化するつもり。いずれは修行にも出すことになるでしょう」
「へえ」

 名前の言葉に長義は生返事で返す。

「不満そうね」
「まあ、当然かな。来て早々の新入り君を、いきなり“近侍”に抜擢すると聞いたら、な」
「三年間到来を待ち望んだ刀剣男士だもの。それくらいは許してね」
「初恋の相手を傍に置いておきたい、といったところかな」
「その言い方はやめて。照れるでしょう?」

 名前は長義の言葉を否定せずに、涼しい顔で受け流す。長義は苦笑せざるを得なかった。



 さて、長谷部達である。

 本丸の玄関を上がり、広々とした廊下を二人で並んで歩く。そこが厨、あれが手洗い場など、歌仙が指をさして案内を進める。

 その間に時折本丸の刀剣男士達とすれ違う。その度に長谷部は自己紹介をするのだが、皆「ああ、噂の……」と思わせぶりな苦笑を返すのだった。三回目の「噂の……」と言われた時、さしもの長谷部もたまらず尋ね返した。

「噂のとはどういうことだ?」
「聞いていないのですか?」

 長谷部と話していた一期一振が、首をかしげる。

「貴方が来られるのを主が三年間待ち望んでいたと」
「それは知っている」
「貴方は主の初恋の相手で、貴方を迎えるために我々は三年間しゃかりきになって働いておりました。お陰様で我々はすっかり強くなれました」
「初恋の相手?」
「ええ。貴方は三年間待ち望んでいた初恋の相手だと」
「初耳だ」

 思わぬ単語に長谷部が顔をしかめる。

 長谷部が政府の命を受けていた頃、よく話題に上ったのは審神者と刀剣男士の恋愛事情だった。何故なら恋愛感情が元で審神者や刀剣男士が問題を起こす事例が、多かったのだ。

『あなたが欲しいんです。長谷部』

 屯所の面談室で長谷部にそう乞うた名前の顔が、思い浮かぶ。興奮でわずかに紅潮した頬、潤んだ瞳、震える声。

 何故名前が自分にそこまで執着するのか、長谷部にはわからなかった。

 なるほど、恋慕か。やっと長谷部の合点がいった。なるほどと思ったところで、長谷部に緊張が走った。刀剣男士に恋着されるあまり、失踪した事例、刃傷沙汰になった事例、審神者の死亡ないしは刀剣破壊に発展した事例。様々なよくない事例を、長谷部は見聞きしていたからだ。

 せっかく仕えることになった主が、最悪の場合になってしまったらと考えると、不安になるのも当然だった。

「一期一振、それは果たして僕らの口から言っていいものかな。主が長谷部本人に伝えていないなら、もしかしたらまだ言わないほうがよかったのかもしれない」
「ああ、それは参りましたな。聞かなかったことにしてください」

 歌仙がくるりと長谷部に振り返る。

「すまないが、今聞いたことは内密にしてくれ」
「わかった」

 一期一振と別れた後も、歌仙による本丸案内は続く。途中で歌仙が口を開いた。

「主はああ見えて感情表現が苦手でね。三年近侍を務めた僕にも、なかなか本心を話してはくれないんだ。だからもしかしたら君と話していた時に、行き違いがあったのかもしれない」
「そうか」
「ああ、それと」

 歌仙の目がひた、と長谷部を見据える。

「君の荷解きが済み次第、僕に代わり君が主の近侍になる。心構えをしておいてくれよ」
「はっ?」
「主の命で、君を近侍に据えることになった。後々主から通達があるだろう」
「……そうか。承知した」

 長谷部は驚きと同時に嬉しさを顔にのぞかせ、歌仙の後ろをついていくのだった。



 さて同時刻の名前の私室に視点を移そう。



『初恋の相手を傍に置いておきたい、といったところかな』

「もう、もう、長義の馬鹿!」

 執務室の隣のこじんまりとした、名前の私室。ぼふ、ぼふと枕を殴る音と共に、押し殺した名前の悲鳴が上がっていた。名前がベッドの上で枕に顔をうずめ、殴っているのだ。ぎゅううと枕を握りしめる。

「あんな言い方しなくてもいいじゃない! というか、なんで知ってるのよ」

 名前はいつも主に相応しい立ち振る舞いを意識している。だから刀剣男士の前で照れたり、取り乱したりするなど、意地でもしてこなかった。が、今回は別である。

 あのへし切長谷部が名前の初恋の相手だという秘密は、近侍の歌仙兼定にしか言っていない。彼を自分の元に迎えた時、どうして初期刀に自分を選んだのか、と理由を聞かれた。その時に話の流れで、つい名前は就任式で出会った歌仙と長谷部の話を漏らしてしまったのだ。

 長谷部が初恋の相手だということが本丸内の公然の秘密だと、名前は気付いていない。だから比較的新顔の長義が秘密を知っていたという事実が、ひどく名前を動揺させた。照れるどころの騒ぎではない。

「歌仙ってば、まさか話したの? 確かに口止めはしてなかったけど!」

 はたと名前は気付いた。長谷部は今、歌仙と本丸内を散策している。あのちょっとお喋りな歌仙のこと。もしかしたら長谷部まで秘密を知ることになるかもしれない!

「なんで……なんでよお……」

 名前はひとしきり枕と格闘し、呻くことになるのであった。

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2020.05.17

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