三年越しの桜よ

 桜が咲いている。
 ほんのりと頬を撫でる風によって、花弁を舞わせている。果たしてこれは散っているのか、咲いているのか。

 水色の空と薄桃色の桜の花々の美しいコントラストを眺めながら、名前はそんなことを考えていた。

 一枚の花弁が鼻先をかすった頃になって、ようやく名前は我に返った。
 今日は花見に来たわけではないのだ。
 政府主催の審神者就任式に参加するため、会場である首都圏にある大学へやってきたのだ。

 本当なら、こんなところ来たくなかった。

 ある日名前の元に、突然政府から封書が届いた。内容は歴史改変をもくろむ歴史修正主義者を阻止するために、審神者となって戦場の指揮を取れ、というものだった。
 当然名前も家族も驚いたが、政府からの命令には強制力があった。

 政府に問い合わせたところ、城のような本拠地をあてがわれ、戦士達と共同生活をする必要があると答えが返ってきた。そして絶句する名前に対して、役人はこういったのだ。「あなたにしかできない仕事です」と。
 いくら英雄のように祭り上げられたところで、そんなわけのわからない戦争に駆り出されるなど、たまったものではなかったし、見も知らぬ大勢の他人と生活するなど、生理的な嫌悪感があった。

 ガラガラとカートを引きずりながら、大講堂を目指す。そこに十四時に集まるよう、封書には書かれていた。
 名前の周囲には、同じ方向を目指して進む人間が大勢いた。名前と同じく、審神者となるべく招集された人達だろう。

 何が、「あなたにしかできない仕事です」だ。

 自然と顔が歪むのを感じた。
 名前には、将来の夢があった。なりたいものになるために、名前は長い間努力し、多くの時間を割いてきた。だのにいきなり政府の命でわけのわからない戦争に駆り出されている自分が、悔しくて悔しくてならなかった。

 これでは現代の赤紙ではないか。

 ぎゅっとスーツの裾を掴む。そうしなければ、不安と不満で声を上げて泣いてしまいそうだったからだ。

 大講堂に近付くにつれ、人の数は増えていく。

「就任式会場はこちらです!」

 声高に誘導するスーツ姿の人間が、手を振っている。恐らくは政府の役人だろう。
 そして……。

 今日はなんだか変な格好の人が多いな……。

 と名前は感じていた。
 和服姿の目つきの悪い小さな少年、奇抜な形のスーツを着た大人の男性、和服姿ですたすたと歩く男性。明らかに政府の役人にふさわしくない格好の人が、沢山いるのだ。中には新選組のような浅黄色の羽織を着た、侍のような姿としている人もいた。
 仮装パーティーか何かなのか、これは。

 政府主催の正式な就任式で、まさかそんなはずはない。
 では何なのだろう。
 わからない。



 就任式はつつがなく進んでいる。名前のように政府の命で招集された人間達でいっぱいの大講堂。その座席の一つに名前は座って、壇上の──正確には大スクリーンに映し出された──スーツ姿の役人を、見上げていた。

 そして、役人の説明はこうだった。
 歴史遡行軍という我々の敵は現代武器による物理攻撃は一切できない存在らしい。そして唯一の攻撃手段は、霊的な存在による攻撃のみだと。そしてあなた方の能力で霊的な存在を呼び起こせ、と。

 そこまで聞いて、名前はそっと席を立った。

 こんなオカルトまがいの実態すらあやふやな戦争で、私の人生は終わる。使いつぶされる。

 涙がまなじりから溢れ出た。無念だった。逃げるように小走りで出口へ向かう。
 カートを忘れたことに気付いたのは、大講堂を出た後だった。

 はあ……。
 名前はポケットからハンカチを取り出し、化粧が落ちないよう目元にそっと押し当てた。
 頭上では桜の花が、先程と変わらず美しく咲き誇っていた。桜の木々が揺れる音以外、静かだった。

 逃げてしまいたい。でも、今から逃げられるのか?

 自問自答する名前の耳に、ふと人の話し声が──、いや、正確に言えば言い争う声が聞こえてきた。
 その声につられるまま、歩を進める。

 すると大講堂から出て少し歩いた桜並木の下に男が二人いた。
 一人は和服をきれいに着こなした、少し癖のある髪の男性。片手に風で折れてしまったらしい桜の枝を持って、穏やかに笑んでいる。もう一人は、裾が臑近くまである紫紺のスーツのような物を着た男性。こちらは明らかに気分を害した表情をして、剣呑な空気を漂わせている。
 和服姿の男性が、桜の枝で頭上を指した。

「見たまえ、この桜の花々を。実に風流だ。一つ詠ってみたいと思うのは自然なことだろう?」

 スーツのようなものを着た男性が、和服の男性に詰め寄る。

「知るか。もうすぐ説明会が始まるんだぞ。遅れて恥をかく気か」
「君ねえ、説明会は就任式の後じゃないか。まだ就任式も終わっていないのだから、少しは落ち着いたらどうだい? 今から会場に向かっても空だ」
「悠長なことを言って、万が一遅れでもして主の前で恥をかいたらどうするつもりだ!」

 激昂する男性に、和服姿の男性はやれやれと言わんばかりに首を振った。


「主ではないだろう」

 桜の枝で、スーツのようなものを着た男性を指す。

「僕らは政府所有の刀剣男士だ。もちろん、君もだ。そうだろう? へし切長谷部」

 ざあっと一陣の風が吹いた。桜の花弁がぶわりと男性達の間で舞い散る。
 数秒経ってから、へし切長谷部と呼ばれたが、実に不愉快そうに鼻を鳴らした。

「俺達の別個体の将来の主、とでも言えば満足か? 歌仙兼定」

 歌仙兼定というらしい男がふうとため息をついた。そしてさりげない口調で言った。

「それはそうと、先程からそこに立っているのは誰だい?」

 和服姿の男性がゆっくりと名前の方に向かって振り返る。
 名前はぎくりと身をすくませた。

 スーツのようなものを着た男性も、名前に気付いていたらしい。不機嫌な表情のまま名前を視界に入れる。そして、はたと何かに気付いたように表情を緩める。

「君は『就任式』の参加者じゃないかい? 道にでも迷ったのかな。大講堂ならあちらだ」
「す、すみません、あの」

 さすがに審神者になるのが嫌になって抜け出してきた、と正直には言えない。目の前の二人は役人に見えないが、彼らは政府関係者の証である紋が印刷された腕章をつけていた。下手なことを言ってはあまり良い結果にならないだろう。

「審神者様、どうなさいましたか?」

 そして、スーツのようなものを着た男性が、名前に話しかけてきた。
 名前とこの男は初対面のはずである。だのにやけに親しみをこめて、それでいて慇懃な物腰で名前に問いかける。

「君ね、せっかちにもほどがあるだろう。まだ就任式を終えていない人間は、審神者ではないはずだ。そうだろう?」
「は、はい」

 名前は思わず和服姿の男性に頷く。まだなってもいない職業で呼ばれるなど、それも名前にとっては不本意な形で就く職業名で呼ばれるなど、嫌で仕方がなかった。

「だったら何とお呼びすればいい。名を聞くわけにもいかん。主と呼ぶなど以ての外だ」

 スーツのようなものを着た男性が、にべもなく吐き捨てる。

「言われてみればそうだったね」

 そして名前に視線を送って、和服姿の男性が姿勢を正した。

「やあ、先程は失礼したね。僕は歌仙兼定。初期刀の一人だ。どうぞよろしく」
「へし切長谷部と申します」

 和服姿の方が歌仙兼定、スーツ姿の男性がへし切長谷部というらしい。

「歌仙兼定……。へし切、長谷部?」

 前者はともかく後者は人間の名らしくない。
 戸惑う名前にへし切長谷部が、少し不快な表情をした。しかしそれもすぐに笑顔で掻き消される。

「変な名前でしょう? 俺の前の主が茶坊主を棚ごと圧し切った記念の命名だそうですよ。俺のことはできれば長谷部と呼んでください」
「は、はあ」

 名前には意味がよく分からないが、とりあえず長谷部と呼んでほしいのならそうしよう。

「浮かない顔をしておられますね。いかがいたしましたか? 俺に出来ることがあれば、何でもおっしゃってください」

 と長谷部が名前に言う。その目は慈悲深い藤色をたたえ、声音は優しかった。

「わ、私は……」
「君の態度のせいで、彼女が怯えているじゃないか。どうだい、君も桜を愛でて心を落ち着けては」

 そう言って、歌仙が手にした桜の枝を私に差し出す。くれるのか?
 名前は戸惑う。

「そんなものを今渡しては、かさばるだろう。俺が預かる」

 そう言って歌仙の手から、桜の枝をすっと受け取る長谷部。桜の枝を大切そうに片手で扱う。手が動くたびにさらさらと枝の花が散ってしまうので、そうならないように注意してくれているのだと名前は気付いた。

 そして名前は同時に気付いた。長谷部がもう片方の手で握っている棒状の物。
 いや、正確には『日本刀』という名のついた武器だということに。

「ヒッ」
「これをご覧になるのは初めてでしたか? 驚かせてしまい、申し訳ありません」

 長谷部はすまなそうに刀を名前の視界に入らぬよう、そっと手を引っ込めた。

「そうか、君はまだ事情をよく聞いていないのだったね。まあいずれ聞くことになるだろうから説明するとだね──」

 歌仙の口から説明されたのは、名前の知らない世界の物だった。
 審神者は眠っている物の想い、心を目覚めさせる力を持った異能者のこと。その力で名刀に宿る付喪神をこの世に顕現させ、歴史遡行軍に対抗する。そして、歌仙達がその付喪神であると。

 名前は何もかもが信じられなかった。しかし彼らは今、名前の目の前にいて、長谷部に至っては日本刀を持っている。

「怖いのかい? それも無理はないね何せ君は女人なのだから大丈夫僕たちは誠意を持って君に仕え……」
「違います」

 ぺらぺらと続ける歌仙の言葉を名前は遮る。

「私は、そんなの怖くない。どうでもいいんです。そんなよくわからないものに、私の夢をつぶされることが、悔しいんです」

 悔しい。悔しい。
 口に出すほど、名前の胸中には悔しさがしみて、それが痛くてたまらない。

 名前の事情を察した長谷部と歌仙が、口をつぐんだ。そして気遣わしげに名前を見つめる。

「お辛いですね」

 長谷部が言う。その声音はとても真摯で、優しかった。
 名前の頑なな心がほんの少しほぐれる。

「ですがあなたは俺達刀剣に選ばれた存在です。そしてこちらに足を運んだ時点で、あなたは審神者になることを、ご自身で決められたはずです。違いますか?」

 優しい声音で、しかし長谷部は厳しい現実を突きつける。

 そうだ。
 就任式に来るまでずっと夢と政府の命を秤にかけていたが、結局夢を半ばで諦めたのは、他ならぬ名前自身だ。今の名前は、それでもやっぱり夢を諦めきれないと駄々をこねているのと同じなのだ。

「そうだね。就任式に参加する前に、断る選択肢はあったかもしれないね」

 歌仙は困ったように眉を下げる。

「困ったね。僕らの生きた時代は、戦に参加できること自体が栄誉ある事だったから、少し誤解していたようだ。すまなかったね」

 名前は何も言えず、ぐずっと鼻をすする。すると長谷部が身をかがめて、名前と視線の高さを合わせた。そして言葉を紡ぐ。

「この戦いに参加されることは、不本意なことでしょう。審神者に就任されれば、理不尽なこともお辛いことも、きっとあるでしょう。それでも、審神者様の元に別個体の“俺”が顕現されれば、必ずや審神者様を粉骨砕身で支えましょう」
「本当に?」
「ええ、必ず」

「じゃあ……、私の元に来てください」

「え?」

 長谷部が目を見開く。歌仙は顔色を変えて、長谷部に詰め寄る。

「君、わかっているだろうね。仮にも僕らは政府の所有だ。主を据えることはできないよ」
「わかっている」

 歌仙の言葉にうなずくと、長谷部は名前に向き直った。

「申し訳ありません。俺は政府に所有された刀剣男士です。審神者様に所有して頂くことはできかねます」
「どうして? 今、私の元に俺が顕現されればって言ったじゃないですか」
「ああ、それは……」

 二人の会話に歌仙がそっと補足する。

「僕らは複数いるのさ」

 意味を図りかねた名前の視線が自分の元に向かうを確認すると、歌仙は一つ頷いてから説明した。

「僕らは仮にも神だからね。元となる刀剣は一口しかないが、審神者に呼び出されれば、分け御霊が君の元に顕現されるのさ」
「言っている意味が分かりません」

 名前は首を横に振る。

 名前は嫌だった。政府のせいで長年の夢を諦めたのに、それだけでなく、目の前の長谷部まで諦めなければならないなんて、理不尽だ!

「くろーんのようなものだと、政府の御役人は申していました」
「クローン? そんなの嫌です。あなたがいいんです!」
「申し訳ありません。お気持ちは大変喜ばしいのですが……」

 名前は長谷部に詰め寄った。そのスーツの裾を引っ張って、懇願した。しかし長谷部は困ったような笑みを浮かべるだけだった。

「人の子に求められるというのは羨ましいことだね。僕らに応える術がないのが残念だけれど」

 二人の悶着を見ながら、歌仙が目を細めた。



「おい、そこで何をしている!」

 高圧的な声に名前の身が震えた。スーツ姿の初老の男がいた。恐らく役人らしい。
 名前は自分を咎められたのかと思ったが、怒鳴られたのは目の前の歌仙と長谷部のようだった。二人は慌てて居住いを正した。

「就任前の審神者との接触は控えろとあらかじめ言われているはずだ!」
「申し訳ありません。この方の顔色が優れなかったもので」
「それは失礼しました! 救護室に行かれますか?」

 初老の男性は名前に向き直り、心配そうに声をかける。長谷部達への対応とは天と地ほどの差があった。
 長谷部の弁明には耳も貸さず、頭ごなしに怒鳴りつけ、就任式を無断で退席した名前には一転して気遣う。
 名前は反吐が出そうだった。
 こんな役人達に長谷部が所有されていることを思うと、今すぐにでも連れ出してやりたくなった。

「あの」
「はい、なんでしょう?」

 一つ息を吸い、名前は男に言い放った。

「このへし切長谷部を所有したいんです。できますか?」

 その場にいる全員が、ぎょっとした表情で名前を凝視した。



 就任式はいつの間にか終わっていた。

 名前は初老の男に別室に連れられた。
 数人の役人に囲まれながら、名前は長谷部達と出会った経緯を話し、どうかあの長谷部を私の本拠地に連れて行かせてほしいと懇願した。初老の男は額に汗を浮かべ、低姿勢で名前の頼みを断った。

「申し訳ありません。あの刀剣は政府所有の物でして。お譲りすることはできません」
「どうしてですか? あの長谷部が私の元に来ないって言うなら、私は審神者になんかなりません!」
「困りましたねえ……」

 初老の男は額の汗をぬぐう。困り切った様子だった。
 すると男の背後にいた別の役人が一歩前へ出た。

「刀剣男士は一口につき一人存在するわけではありません。あのへし切長谷部にこだわる必要はないのですよ。刀を持って貴女様の能力を使えば、あれと同じ姿、性質の刀剣男士を呼び出すことが可能です」
「それじゃ意味がないんです! あの人がいいんです、あの長谷部が」
「今ここにいる我々に、あの刀剣の所有権を変更する権限はありません」
「じゃあ上の人を呼んでください」
「申し訳ありません」「申し訳ありません……」

 そして長谷部に固執する名前は、話の流れで非常に熱意のある審神者として招集されてしまった。就任式は名前の説得の間に終わってしまったので、役人によって改めて職務の説明を受け、簡易的な就任式を行った。
 長谷部も歌仙も、姿を現すことはなかった。

 そして時は流れる。





 名前が審神者になって、三年が経過した。名前は精力的に刀剣男士達を育成し、政府の望む以上の戦果を挙げ続けた。

 今、名前がいるのは政府の所有する刀剣男士達の駐屯地、その面会室だ。名前の視線はまっすぐ前を向き、迷いがない。三年前の駄々をこねていた彼女は既にいない。実績と貫禄を備えた一人の審神者として、そこにいた。

 面会室のドアがノックされる。「どうぞ」と名前が声をかけると、ドアが開いた。
 その先には、一人の刀剣男士がいた。紫紺のカソックをまとい颯爽と歩く、へし切長谷部。

 彼は名前に会釈をして、向かいのソファに座ると柔和に笑んだ。

「ご無沙汰しております」
「お世話になっております。審神者様。御立派になられましたね」
「お言葉ありがとうございます。あなたもお変わりないようで、何よりです」

 名前の言う通り、目の前にいるへし切長谷部は、就任式で出会った時と変わらぬ様子だった。
 名前はずっと、あの時の長谷部を探し続けていた。三年前の審神者就任式の手伝いをしていたへし切長谷部を探すのには、想像以上に時間と労力がかかった。
 やっと今、名前の念願が叶おうとしている。何せ、三年間探し求めたその長谷部が、今目の前にいるのだから。

 少しの雑談の後、長谷部が言う。

「早速ですが、本日のご用件をお伺い致します」
「率直に申し上げます。あなたを私の本丸に迎えたいのです」

 しばし長谷部は目を瞬かせた。そしてわずかな困惑と共に苦笑する。

「まるで三年前の出来事の焼き直しのようですね。繰り返しますが、俺は政府所有の刀ですよ」
「ええ、知っています。ですが、あなたがいいんです」
「ご存知かと思いますが、“俺”の希少価値はそう高くありません。審神者様の元にも、別個体の俺がいるのではありませんか? 複数所持することなど……」
「刀解しました」
「は?」
「全て、刀解、致しました。あなた以外のへし切長谷部など、不要でしたから」

 長谷部は目を見開く。名前の言葉が想定外だったらしい。長谷部の驚く顔に、名前はわずかな優越を感じながら、話を進める。

「私は三年前のあの時、絶望の淵に居ました。それを救ってくれたのは、あなたです。私を“審神者様”と呼んだのは、へし切長谷部、あなたです。だからこそ私は審神者として第一線で戦っているんですよ。つまり、今の私があるのは、あなたのおかげなのです」
「……………」


「三年です」
「はい」
「三年。あなたともう一度会うためにかかった時間です。その間あなたを忘れたことは一度もありませんでした。私はただ、あなたと再び出会うために審神者になり、最前線で戦い続けました」
「……ですが先程も申し上げたように、俺は政府所有の刀です。俺の意思で覆すことはできかねます」

 名前の言葉は本心だった。三年前の就任式、名前は政府の命令で夢を失い、失意のまま審神者になることを強要されていた。その絶望を慮り、寄り添おうとし、名前を奮い立たせたのは、今目の前にいるへし切長谷部、その人なのだ。他の誰でもない。
 長谷部は困惑した表情で名前にそっと返答する。

「そうでしょうね」

 名前は頷いた。そんなことは百も承知だったからだ。

「ええ」

 へし切長谷部はあからさまに肩の力を抜いた。名前は内心安堵した目の前の男の肩を揺さぶってやりたくなった。
 けれど、ここは我慢だ。
 名前は一呼吸おいてから、言い放った。

「ですから先程“上”と掛け合って、あなたの所有権を私に変更するよう申請しました。結果、受理されました」

 決して名前と目を合わせようとしなかった長谷部が、初めて名前の瞳を、驚きを隠せない様子で凝視する。 普段は取り澄ましたような態度を取るらしいへし切長谷部が、こうもあからさまに動揺するのを見るのは愉快だった。
 そうだ。私を見ろ。あなたの素顔を、私にもっと見せて。

「必要なのはあなたの合意だけです」

 名前は長谷部の目を見据える。長谷部の藤色の瞳は、当惑に揺れていた。

「一度情けをかけたなら、最後まで責任を持たれるべきです。違いますか?」
「俺は……」
「あなたが欲しいんです。長谷部」

 ダメ押しの言葉を放つ。
 しばらく肩を上下させ、長谷部はついに頭を垂れた。

「御意」

 そして名前は、一口の刀剣男士を手に入れたのだ。
 政府所有の刀剣男士を、初恋の相手を手に入れるために、名前は三年間努力し続けた。距離を縮める機会も時間も、これから本丸でいくらでもあるのだ。

 名前は喜びを抑えきれない表情で、長谷部を連れて駐屯地の廊下を歩いた。

 窓の外で、晴れ渡った空の下、桜の花が咲き誇っていた。


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2020年5月1日

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