覚悟なき者の窓辺

北虹寵は焦っていた。
階段を蹴る足音は荒く、早い。
『私は戦闘部隊に転属願を出すつもりです』

つい数秒前に会った、佐倉の真摯な瞳と声が蘇る。
よりにもよって佐倉に会って、また迫られるとは予想外だった。

補助部隊のギルドに用があって出向いたはずなのに、佐倉から逃げるためにあてもなく階段を駆け上がっている。

『北虹さんの役に立ちたいんです』

出世狙いの擦り寄りならば鼻で笑ってあしらえたが、佐倉はそうではなかった。
佐倉の目は真剣そのものだった。
長年上層部にいるせいか、ゴマすりかそうでないのか、俺にはよくわかってしまう。

だからこそ、佐倉の言葉は純粋に俺の役に立ちたいと本気で思っていたのだと、すぐに気付いてしまった。
言葉に潜められた、もう一つの意味にも……。

気付きたくなかった。
あの時、佐倉を突き放し皮肉な言葉を浴びせて、俺は早々に立ち去った。
本来なら渋谷川の奥にある死神組織の本部に戻って、 残った仕事があったのに、それさえ忘れて、気付いたら自宅に戻っていた。
佐倉が雨に濡れてしまったかもしれないと気付いたのは、淹れたてのコーヒーを口にしてからだった。

俺が佐倉の好意に応えることなど、できるはずがない。
渋谷の現状とコンポーザーの疲弊ぶりを見れば、あの方の補佐をする俺が色恋沙汰にうつつを抜かすなど、以ての外だ。
コンポーザーは渋谷の未来が見いだせないと嘆かれている今、補佐役の俺がしっかりしなければならない。
渋谷には多くの可能性が残されている。
だからこそ、例え時間がかかっても、渋谷を更生できるはずだ。

しかし、あの方の表情は晴れない。
俺が不甲斐ないから、もっとお役に立てるように努力しなければ──。

『私は私なりに努力してみたいんです。どうすれば北虹さんの力になれるのか……』
頭を振って佐倉を追い出そうとする。

だがいくら頭を振ろうとも、佐倉の声が、言葉が、無垢な目が離れてくれない。

ふと廊下の突き当りにある窓から外を覗くと、ちょうど佐倉がギルドから出て行くところだった。




佐倉ユウ。
俺が出会った参加者の中でも、特に珍しいタイプだった。

彼女のような、消極的で補助的な能力に特化した者は少なくないが、実際に『死神のゲーム』で生き残り、死神になるケースは滅多にない。
ゲーム中に稼いだポイントが高ければ、生きかえることになるが、不幸なことに佐倉よりパートナーの方が、生きかえる為のポイントも試練もクリアしていた。

死神になる参加者は、『生前のコンプレックス』を克服できないまま、ゲームを終えたため、UGに残らざるを得なかった者が多い。
いわゆる居残り補習のようなものなのだ。
コンポーザーが施してくださった慈悲、猶予期間とも言える。

生きかえれなかった参加者は、RGへの未練や諸々の理由から、攻撃的になっている者が多いにも関わらず、佐倉はただ呆然と『消滅』の選択肢を選ぼうとしていた。

だが、佐倉は本人さえも気付いていなかった持ち前の事務処理能力と観察眼の高さを、俺とコンポーザーが評価し、死神──補助部隊の死神として、受け入れることとなった。

結果から言えば、佐倉の補助部隊入隊は、成功だったと言える。
佐倉の潜在能力に気付き、適材適所の人事をされたコンポーザーを、さすがだと思った。

だが、今更になって、何故俺だけではなくあの方の意に背くような真似をするのかと、俺は密かに 佐倉の裏切りに怒りをくすぶらせていた。

それと同時に、佐倉への恐怖も湧き上がってくる。

俺は、俺の内面に踏み入ろうとする人間は苦手だ。嫌悪するとさえ言っていいほどに。

今までは消極的で、従順だった佐倉の豹変ぶりに、俺は余計に混乱し佐倉を恐れていた。

ゲームの指揮者の俺が、一介の補助部隊の死神たった1人に、──それもノイズ精製さえできるか怪しい実力の──おびえることが、ひどく滑稽だった。

3日前、コンポーザーとの定例会議で、コンポーザーは俺の異変をあっさり見抜いていた。
渋谷UGの現状を憂うコンポーザーと、現状と打開策を話し合っていた時だ。
「メグミ君」
「なんでしょうか」
「君には渋谷が余程深刻に見えるようだね」
「は……!? いえ、とんでもございません。先程申し上げました通り渋谷は少しずつ改善の兆しを見せています。だのに、何故いきなりそのようなことを?」

渋谷の展望に悲観的なコンポーザーへ、俺がいくつか実例を上げ、渋谷にまだ可能性があると応えた時だった。
「さっきから、ううん、少し前からメグミ君、どことなく上の空の時が多くてね。それに加えて、今日のメグミ君は随分焦っているみたい。……焦っているというより、おびえている、に近いかな」
「な……」
「ああ、思い出した。最初に様子がおかしかったのは、例の全体集会があった次の日だよ。てっきり集会でトラブルがあったのかと思ったけど、報告に来た当の本人は真っ青な顔で『つつがなく終了した』って言うし、気になっていたんだよね」

朗らかに言い切ったコンポーザーは、柔和に目を細めて、俺を見据える。
俺はコンポーザーを前に、ただ眉を寄せて棒立ちするしかなかった。

あの全体集会後の俺と佐倉のやりとりを、現場にいなかったはずのコンポーザーが、俺達2人の気付かないうちに、横でほほ笑んで鑑賞していたのではないか。
そんな愚かしい妄想まで浮かんできてしまう程、コンポーザーに何もかも隅々まで見通されているように思えてならなかった。
それほどコンポーザーの瞳は、迷いなく真っ直ぐ俺に向けられていた。

背中に不快な汗が浮かぶ。
時折見せる、コンポーザーの底知れない観察力に、めまいを覚えた。
「メグミ君?」

黙り込んだ俺に、コンポーザーが声をかける。
他意はないだろうが、俺を急かしているように聞こえてならなかった。

コンポーザーに、洗いざらいを吐露すれば、気が楽になるだろうか。
解決策がわかるだろうか。

いいや、と俺は悪魔の囁きを追い払う。
ただでさえ渋谷が不安定な状態だ。
たった1人で渋谷の歪みを背負うコンポーザーに、俺の個人的な悩みをさらに重しに加えてどうするのだ。

渋谷は安泰、俺も正常だ。
そう心の中で唱え、俺は改めてコンポーザーに向き直る。
「──失礼致しました。近頃少し仕事が立て込んでいたもので、疲れが出たのかもしれません。見苦しいところをお見せして、申し訳ありません」
「…………。そうだね。この間の全体集会の手配も、その後のゲームも、君が手配してくれたんだから、疲れて当然さ。今日はもう下がって、しっかり休んで、疲れを取るんだよ」
「お気遣いを有難うございます。それでは失礼致します」
「うん。気を付けてね。明日はそんなひどい顔を、見せないでよ」
「……肝に銘じます」

最敬礼をし、俺はコンポーザーのお部屋から退室した。
コンポーザーの釘を指す言葉が、痛かった。




それからというもの、俺はいつもの慌ただしくも俺の心を揺り動かすものが何もない静かな日常に戻ったと思い込み、平常心を心がけてきた。
なのに、佐倉にばったり出くわした途端、この体たらくだ。

己の未熟さが腹立たしく、思わず窓枠に拳を叩きつけたい衝動をこらえる。

なんとしても、佐倉の戦闘部隊入りは、阻止しなければならない。
……いや、問題を短絡的に考えてはいけない。
切り札を使うタイミングがいつなのか、もっと慎重に吟味しなければ……。

もはや佐倉もいなくなり、人通りの途絶えた眼下に広がる渋谷を、俺はひとり、見下ろしすのだった。