事の発端は、指揮者の北虹さんからかかってきた電話だった。
「コンポーザーが時間になってもいらっしゃらないんだ。どういうことだ」
「落ち着いてください。コンポーザーがいらっしゃらないって、どういうことですか?」
同じ質問を畳み掛けてくる北虹さんを、何とかなだめようと声をかける。
普段の落ち着き払った北虹さんからは考えられないくらい、緊迫した声が携帯電話から伝わってきた。
「二時から私と会議があったのだが、コンポーザーがいらっしゃらなくて、コンポーザーの部屋を訪ねたがやはりいない。君はコンポーザーの行く先を知らないか?」
手首に巻かれた時計を確認すると、時刻は十四時三十二分。
約束の時間はとうに過ぎている。
途端、私の胸に嫌な予感が沁み込む。
「いいえ。てっきり会議に行かれたのかと」
「そうか……。君の方でも探しておいてくれないか?」
「了解です」
通話を終えた私は、鞄に携帯を放り込んで走り出した。
あの北虹さんが動揺を隠し切れないほど激しく狼狽するのも、無理はない。
本来コンポーザーが審判の部屋から離れることは滅多にない。
コンポーザーはプライベートで審判の部屋から離れることはあっても、勤務中に部下に声をかけることなく、どこかへ行ってしまうことはなかった。
だからこそ北虹さんがコンポーザーの身に何かあったと結論付けるのは、当然のことだった。
北虹さんの不安に煽られるように、私は人混みの中を走り回った。
人の多さに内心舌打ちしながら、キャットストリートからトワレコに向かう途中、ヨシュアはあっさり見つかった。
なんとコンポーザーご本人から電話があったからだ。
「迷子になっちゃったから、迎えに来てくれない?」
と。
ヨシュアの指定した場所に駆けつけてみれば、104ビルの屋上で不良少年のように座り込んでいるヨシュアがいた。
「僕、消えるかもしれない」
出し抜けに言い放ったヨシュアに、私はどう答えていいかわからなかった。
「え?」
無理矢理笑顔を作って首を傾げたけれど、ヨシュアはつまらなそうに私の間抜けな顔を見上げている。
「そ、それはどういう意味?」
「どういうも何も、そのままの意味だよ」
「何で急にそんな冗談言うの」
「冗談でこんな縁起の悪いこと、言うと思う?」
やれやれと言わんばかりに首を振られてしまった。
どうやらお得意の冗談でも何でもなく、本気らしい。
「何かあったの」
「なんていうか、もう疲れたよ」
ヨシュアはそれっきり、長身を弛緩させて黙り込んだ。
相当疲れきってしまっている様子だ。
本当なら北虹さんにヨシュアが見つかったと連絡を入れるのが筋だけれど、こんなヨシュアの姿を見たら、余計に混乱することは目に見えている。
何と言っても北虹さんは、ヨシュアを神か何かのように崇拝しているのだから。
握り締めていた携帯電話は、ヨシュアから見えないようにカバンに閉まった。
北虹さんには申し訳ないけれど、もう少し辛抱してもらおう。
ヨシュアは悩ましいため息を吐いて、かろうじて起こしていた上半身を反らして完全に寝転んでしまった。
「ちょっとヨシュア、ここで寝たらだめよ」
「寝ないよ。ちょっと休むだけ……」
今にも寝入りそうな顔で、目を閉じてしまった。
「そうじゃなくて、ここで寝たら汚れちゃうって」
「いいの」
私の言葉を遮って、ヨシュアは背を向けてしまった。これは簡単に動きそうにない。
会議に連れて行くことを諦め、私はヨシュアの傍に膝をついた。
風がゆるく吹き、見上げれば穏やかな青空がある。
絵に描いたような平和な光景だ。
不意にヨシュアが呟く。
いつもに比べて随分小さく、ともすれば風音でかき消されてしまいそうな力のない声だった。
指折り数えて思い出そうとして、やめた。
「さあ……、大分経ったかな」
「そうか、もう君が思い出すのもイヤになるくらい経つんだね」
呆れたようにヨシュアが顔を背けた。
「ごめん、そういうつもりじゃないの」
「いいよ、もう。ユウに余計な手間かけさせてご・め・ん・ね」
「ちょっと、ヨシュア……」
ちょっとふざけたつもりが、完全にヨシュアの機嫌を損ねてしまったらしい。
ヨシュアは本来、UGよりさらに上位の次元に属していた。
その類まれなる強烈なイマジネーションで、神に上り詰めるまであと少しという優秀な人だ。
そんな折、あるUGに危機が訪れた。私達が今いる渋谷UGだ。
数年前、以前から囁かれていた渋谷崩壊の兆候が強まり、渋谷は混乱を極めた。
事態を収束させるためには、優秀な統治者が不可欠だった。
今私の目の前でふて寝をしている彼のような。
「もう数年も経つんだね」
ヨシュアが微かに語気を強めて言う。
「うん、そうね」
「僕が渋谷のコンポーザーになって数年も経つのに、事態は悪化するばかりってどういうことなんだろうね」
「ヨシュア」
私が慌てて止めようとしたけれど、ヨシュアのネガティブ思考の洪水は止められなかった。
「君が数えるのもげんなりする程長い間、一体僕は何をしていたんだろうね。考え得る方法は全部試した。それでも事態の収束どころか現状維持さえできなかった」
「……うん」
「たった数年だけど、自分の街には愛着もあるから、崩壊させるのはギリギリまで我慢してた。でも、世界のことを考えると、そんな悠長なことを言っていられる時期はとうに過ぎた。だから僕は──」
渋谷を終了することにしたよ。
生温い風が、頬を撫でる。
ヨシュアを慰めているようにも、あざ笑っているようにも感じられる、風だった。
「ヨシュアはそれで後悔しないの?」
「しないよ」
ヨシュアは迷いなく言い切った。
「しない。自分の街より『世界』を優先する。それが僕らのルールだから」
重ねて言うヨシュアは、空を仰ぐように腕を伸ばした。
口調はいつもより少し固く、飄々とした雰囲気はかけらもなかった。
「僕らの、じゃなくて上の次元のルールでしょ? 本当はそんなこと望んでいない癖に」
「僕はもう人ではないけれど、上の次元にも社会がある。僕ら天使だって社会に属するなら、そのルールに従うことで円滑に社会生活を進めることができる」
「我を通せないなんて、コンポーザーは不便ね」
ヨシュアの顔を覗き込むと、瞳に今日の空が映りこんでいた。けれど、きっとヨシュアが見ているのは空なんかじゃない。
この渋谷を救う方法か、世界への影響を最低限にするための方法か。
はたまた全く別のことを考えているのか。それは私にはわからない。
けれど、彼の横顔が今にも泣き崩れそうに見えて、私は若芽色の髪に手を伸ばした。
男性にしては柔らかくてくせっ毛な彼の髪を指で梳くと、ヨシュアは上げていた手をだらりと地に落とした。
「そうだね。不便だよ、ほんと」
掠れた声で呟いた後、寝返りを打ったヨシュアは私を見上げる。
皮肉っぽく笑うその目つきは、恨めしそうだ。
「何?」
「僕のこと今、かわいそうとか思ってるでしょ?」
「え」
「言わなくても分かるよ」
「そんなつもりじゃ……。ごめん」
ごまかそうと動かしていた口を閉じて、観念して素直に謝る。
ヨシュアの勘は恐ろしく鋭い。スキャンを使うまでもなく、私の気持ちはバレバレだった。
ごめん、ともう1度繰り返しても、ヨシュアは答えてくれない。
どうしよう、と焦りだした頃、ようやくヨシュアは口を開いた。
「ひざまくら」
「はい?」
「ユウが膝枕してくれたら、ここにいるかわいそうな子が一人、救われると思うんだけどな」
「素直に膝枕してって言えばいいのに」
憎まれ口を叩きつつ、立てていた膝を折ってあげると、ヨシュアは既に頭を上げてスタンバイしていた。
仕事が早い。
そっとヨシュアの頭の重みが、私の腿にかかる。
満足そうに息をついて、再び眼前の、もしくは眼下の風景を見ていた。
その目は随分遠い目をしていた。
「本当はメグミ君との会議を忘れてなかったんだけど、ここから空を見てたら随分綺麗に晴れててね。正直空に吸い込まれて消えちゃいたいと思った。失踪にふさわしい日だよ」
「さしずめ失踪日和ってところ?」
私の言葉がよほどつぼにはまったのか、ヨシュアはクスクスと笑った。
「いいね。傑作だよ。失踪日和の名に恥じぬ失踪をしたいよ」
「失踪して、それからどうするの?」
「さあ。そんなこと考えてないよ」
くぐもった声と吐息がくすぐったい。
「ねえ、もし僕が失踪することになったら、
ユウもついてきてくれるかい?」
「もちろんだよ。ヨシュアひとりで行かせるわけないじゃない」
「本当?」
「本当。だからこっち向いてよ」
ヨシュアの肩を揺すると、あっさり目が合った。
いつもの不敵な笑みを浮かべて、私を見ている。
「ヨシュア?」
「残念だけど僕は君が思うようなかわいそうな子じゃないんだよね」
フフフ、とお馴染みの含み笑いも復活している。
「私にここまでさせておいて、何言ってるの」
私の抗議を華麗に受け流し、ヨシュアの得意げな笑いは収まらなかった。
「僕には優秀な部下がいるからね。彼が渋谷を救うために僕のゲームに乗ってくれたんだ」
「乗ってくれるのは『これから』でしょ?」
「……ああ、そうだったね。未来と今と過去をしょっちゅう覗いているから、ごっちゃになっちゃった」
ヨシュアが話しているのは『未来』の話だ。
コンポーザーの能力の一つである未来透視能力を使って、少し先の未来を垣間見たのだろう。
「まだ渋谷にも可能性が残されてるってこと?」
「そういうこと」
「君はその件で僕を呼びに来たんでしょ?」
「そのつもりだったけど、誰かさんがあんまりナーバスだったから、復活するのを待ってたの」
「お待たせしちゃったかな?」
「全然」
「それで決行日はいつなの? すぐ?」
「いいや。渋谷終了の分岐のかかったゲームなんだから、長引くだろうね。だから少し余白期間を設けておくつもり。ちょうど昨日ゲームが終わったばかりだから、少なくとも一ヶ月は寝かせておこう」
「じゃあ北虹さんには何も言わないの?」
「現時点ではね」
いつもの頼りになる笑みを浮かべたヨシュアが、ズボンのポケットから携帯電話を取り出す。
灰色の屋上で、オレンジ色の携帯電話は唯一色彩を放っていた。
慣れた動作で目的の電話番号をプッシュし、耳に押し当てる。
「あ、もしもしメグミ君?」
ヨシュアが私の膝の上で話をする。
携帯電話から微かに漏れる北虹さんの声は、安堵しきっていた。
ヨシュアは急にいなくなったことを適当な理由をでっち上げて謝罪し、すぐ北虹さんの元に向かうことを告げている。
話している合間に、ヨシュアの左手と私の左手を重ねると、指を絡めてきた。
「上の人達への言い訳、私も考えておくよ」
と囁くと、ヨシュアは嬉しそうに目を細めた。
渋谷終了のカウントダウンは、始まってしまった。
今私の膝上で行われている通話は、その序曲だ。
ヨシュアが決意したことで、世界は変わり始めている。
だけどそのことは、まだ誰も知らない。