告解

第一話

 本丸の夜は深い。

 夏の暑さが遠のいて、夜の時間が少し長くなった初秋。
 ほんの少しの肌寒さを感じながら、私は執務室で書類の確認をしていた。
 私が日課業務の書類仕事を始めた頃は水色だった空も、今は藍色が濃くなり始めている。

 つるつるとした文机の上で、何度も書類に不備がないかを確認する。私の横にこんのすけが行儀よく前足を揃えて座っている。こんのすけ用にあつらえた少し小さい座布団にちょこんと座って、私の書類提出を待っているのだ。

 やっと書類に抜けも漏れもないことを確信できた。
 トントンと書類の背を合わせ、「おまたせ」とこんのすけに渡す。
「確認致します」
 こんのすけがぺこりと一礼し、前足を忙しなく動かしながら、書類を確認していく。

 数分後全てを確認し終わったこんのすけは、
「ご提出頂く書類は、全て受領しました。本日もお疲れ様でした! それでは私は失礼します」
 そう言って、するりと空中で体をくねらせて、彼のねぐらの竹筒に吸い込まれていった。
 竹筒はこんのすけのねぐらだが、審神者の霊力を使った、政府との直通のネットワークがあるという。そのネットワークを通って、こんのすけは政府に書類を提出しに行ったのだ。

 部屋の外からは木々のさわさわとこすれる音と、隙間風で障子がわずかに揺れる音しか聞こえない。

 一人きりであることにやっと確信を持てた私は、広い執務室の中で長く息を吐いた。

 やっと今日の“主”としての時間が終わった。
 ここからは本丸の“主”ではなく、私という一人の人間としていられる時間だ。誰の目を気にする必要もない。
 刀剣達の私室は、私の執務室から離れた場所にある。
 だからここまで彼らの声は届かないし、私に用がない限り誰も近付くことはない。
 この静けさが心地よいはずなのに、何故だか無性に寂しくなる。
 主ではないただの私という存在に誰も興味などないという事実を、突きつけられているような気がして。

 私には悩みがある。
 毎日“主”として過ごしていると、どうしても素の自分を出せない辛さが積み重なっていく。
 元々、私は審神者という職に就くつもりがなかった。取柄も目標もなかった私に、ある日突然政府から審神者になるよう通知が届いた。だから審神者になっただけのこと。
 今まで生きていて誰にも認めてもらえなかった私が、初めて誰かに自分でも気付かなかった才能を見初めてもらえた。それだけで私は嬉しかった。

 だけど、審神者になって気付いた。
 一般人の中で審神者になれる人は限られているけれど、審神者になれば私と同じ力を持っている人がごまんといることに。
 特別な能力を持っていることが当たり前で、さらに私よりもずっとずっと優秀な審神者が沢山いる。
 結局私は、全く特別な存在ではなかったのだ。

 それでも毎日慣れない戦場の指揮を執りながら、審神者の任務を遂行していた。
 しかし悩みの種は尽きない。私は元々引っ込み思案な性分だったため、将の器ではなかったのだ。
 刀剣男士達との向き合い方、内番や遠征が嫌いな人達にどう仕事をお願いすべきか、彼らになるべく公平に役割を振り分けるにはどうすればいいのか等々……。
 とりわけ厄介なのが刀剣男士達の中で大きく存在する、『前の主』だった。
 刀剣男士達はよく前の主のことを話したがるが、そうして漏れ聞く内に、歴史上の人物達の偉大さを思い知る。

 前の主の話を聞くたびに、私はこう思うのだ。

 きっと前の主と私は、比較される、自分の主に相応しくない人間だと思われている、と。
 そう思うと、居たたまれなくて、素の自分なんてとても出せなかった。
 だから私は、自分の至らなさを隠すために、仮面をかぶった。

 けれど本来の私と仮面には、大きな齟齬がある。
 彼らの主君に相応しい自分でいたい。けれど本来の実力では到底及ばない仮面をかぶろうとすれば、当然綻びが出てしまう。
 日常のちょっとした失敗一つ一つに動揺し、私は己を恥じた。

 中には私の仮面に気付き、「そんなに気負わなくていい」「普通に振る舞ってごらんよ」と声をかけてくる優しい人達もいた。
 それが彼らなりの優しさであり、気遣いだということはわかる。
 優しい言葉をかけられるたび、私の頭に猛烈に血が上るのを感じ、曖昧な笑顔で逃げ去った。そんな彼らの気遣いが憐みとしか思えずに、素直な気持ちで受け取れない。
 矮小な自分に気付かれることが辛かった。
 何百年もの間、人を見てきた彼らは、きっと私の至らなさなどとうにお見通しだっただろう。

 それでも、私は一度つけた仮面を外すことができなかった。
 せっかく差し伸べてくれた手を振り払い、逃げ続けた私は、次第に本来の自分を受け入れられなくなった。

 私が刀剣男士達との距離を測りかねてまごついている間、日々戦場を駆け回り寝食を共にする彼らは、互いを仲間として認め合い、距離を縮めていく。


 じゃあ私は──?
 この本丸でたった一人の人間は、誰と仲良くしたらいいの?

 ただでさえ彼らの目を気にして、彼らとの距離を取っていた私だ。いつの間にか彼らと私の間に深い溝ができていた。いや、私自らが掘った溝だ。

 刀剣男士達との関係が上手くいかないなら、せめて戦果を上げよう。
 そう思っても上手くいかない。だって指揮を執っているのが、ダメな私なのだから。  膠着状態が続く戦況。消耗していく刀剣男士達。うまくいかない本丸運営。

 色んなことが重なり、顔を伏せそうになった時。

『主、いかがなさいましたか』

 救いの声が、私の耳に届いた。

 ある時誰とも顔を合わせたくなくて、夜も更けた頃に執務室で、じっと座り込んでいた。すると既に自室に下がっていたはずの近侍のへし切長谷部が、部屋に飛び込んできた。長谷部は驚いた様子で私を凝視していた。
 動揺した私は、ひどいことになっている顔を隠す余裕もなく、慌てるしかなかった。
 最初いつも通りの冷静な表情で私を見ていた長谷部だったが、狼狽する私に何かを察したようだ。長谷部は一つ頷くと膝を折って私と目線の高さを合わせて、向き直った。

『何か、お悩みですか』



 その日から、長谷部に悩みを打ち明けることが日課になった。
 長谷部は律義に私の業務が終了してからわざわざ時間を置いて、この部屋までやってくる。
 仕事が終了した直後では私が上手く話せないことを、長谷部は理解してくれているから。

 私の愚痴は矮小な私に相応しい、くだらない妬みや嫉みばかりだった。
 例えば希少な刀剣や大太刀が、どうして私のところに来てくれないのとか。
 例えば今日の演練で強い部隊に当たって、負けてしまって悔しいとか。
 例えば皆私を主として認めてくれていない気がするとか。
 本当に、本当に矮小な私に相応しい、弱音と醜い劣等感にまみれた嗚咽を長谷部に吐き続けていた。

 その度に長谷部は慈悲深い笑みを浮かべて、私を慰めてくれた。

「神とは気まぐれな性分なのです。必ず俺がそやつを主の元に連れて参りましょう」
「皆負けん気だけは強いですから、いずれは他の本丸にも追いつけましょう。主の采配に決して間違いはありません。何も焦る必要はないのですよ」
「そんなことはありません。皆主を慕っております」


 私の吐いた弱音を聞いてくれるためだけに、長谷部は毎晩やってくる。
 どんなにくだらない言葉からも、私の真意を拾って慰めてくれる長谷部は、次第に私の中で大きな支えになっていた。
 ありのままの醜い私を認めてくれる、唯一の存在。

 私が困った時私を支えてくれる、頼りになる近侍。
 そして私の告解を聞いてくれる、慈悲深い神様。
 それが私から見た、長谷部の全てだった。
 私に全身全霊で尽くしてくれる長谷部に、いつしか私は恋をしていた。
 刀剣男士が相手の、叶わぬ恋。それでも長谷部は私だけを見て気遣ってくれるから、幸せだった。

 けれど、ある時私は長谷部の全く違う顔を知ることとなる。




 薬研藤四郎を伴って、万屋に買い物に出かけた時のことだ。
 私には仕事が一段落する週末に、短刀の男士と万屋街に訪れる習慣があった。
 いくら長谷部との“告解”の時間があっても、本丸に閉じこもってばかりいては、余計に閉塞感で胸が潰されそうになってしまう。だからあまり前の主について言及せず、比較的話がしやすい短刀をお供に、出かけることにしていた。
 一部の男士を除いて、彼らは快く私の誘いに乗ってくれる。

 万屋の店先にある茶屋で甘味をほおばっていると、男性の審神者が来店した。
 彼の隣にいた人を見て、あ、と思った。濃紺のカソックをまとった彼は、へし切長谷部だった。
 さりげなく周囲を警戒する立ち振る舞いを見るに、彼のへし切長谷部は熟練の男士だとわかる。
「何か食べていくか。ここのみたらしが好きだろう」
 審神者が長谷部を振り返って、言う。
「主はよくご存じで。俺がみたらし団子を好きと申し上げたことは、一度もないのですが」
 審神者が慣れた調子で店員にみたらし団子と抹茶を注文する。
 審神者と刀剣男士のありふれた日常の一コマだった。

 しかし私は大いに動揺していた。
 知らない、長谷部がみたらしを好きなことなんて。
 だって、長谷部とみたらしを食べたことなんてなかったから。
 それに、あのへし切長谷部の表情!
 審神者に心を開いたあの表情。
 私の長谷部とは、全く違う神様がそこにいる。

「ねえ、薬研」
「何だ、大将」
「長谷部ってこういうところに来たことがあるのかな」
「さあ……。聞かないな。あいつは娯楽より主命を果たすこと第一みたいだから、もしかしたらないかもしれないな」
「長谷部って甘い物、好きかな?」
「うん? なんだ、大将。長谷部のことばかり聞くんだな。……確かに同じ顔の男がいたら、気にするか」

 薬研の言う通り、隣の席に、二人が座った。私はあの二人が妙に気になって仕方がなかった。
 近くに座っているので自然と二人の会話が耳に入る。
 先日の厚樫山での主の采配は見事だったとか、演練で出会った高練度の部隊の対策だとか。話していることは仕事の延長のような物だけれど、合間合間に彼らの信頼関係を見て取れる。

 特に、へし切長谷部が自分の主を見る時の顔は、初めて見るものだった。
 仕える主君に、心を許していることがよくわかる目。仕草。声音。

 話し方を聞いていても、そうだ。
 長谷部が審神者とちょっとした軽口を言い合っている。
 あの堅物の長谷部が。
 私の前では、決して私情を交えた話をしたことのない、長谷部が。

 私の長谷部は、常に良い忠臣だった。
 いついかなる時も決して私のことを否定せず、どんな毒のような言葉も慈悲深く受け止めてくれる神様。それが、私の好きな長谷部だ。それが、私の知る長谷部の全てだ。
 だが実際にはそうではなかった。
 隣で話す長谷部がみたらし団子を好きなように、きっと私の長谷部にも好物があるかもしれない。心を許した相手にだけ見せる顔だってあるだろう。
 だのに私に都合の悪い部分を見ないようにし続けてきた。
 私が長谷部に、『理想の長谷部』という枠を作って、彼に押し付けていたのだ。

 今まで私は、己を偽るために見栄を張り続けている自分を恥じ、罪悪感を抱えていた。

 けれど今気付いた。
 私の罪は、仮面をかぶって己を偽っていたことではない。
 何の罪もない長谷部に、私の毒と都合の良い役割を一方的に押し付けていたこと。
 そして長谷部を始め、私に仕えてくれている刀剣男士達と、誠実に向き合わなかったことだ。

 今からでも、長谷部から仮面を取ってやれるだろうか。彼らとの関係を修復できるだろうか。


 私は彼ら刀剣男士の歴代の主の足元にも及ばない。
 今隣席で談笑している審神者にだって、大きく劣る。
 決して良い主とも善良な人間とも言えないけれど、長谷部は私を許してくれるだろうか。

 脳裏に長谷部の顔が浮かぶ。
 きっと長谷部は私が許しを乞えば、いつものように許してくれるだろう。
 いつもの、慈悲深い偽りの笑顔で。


 そうではない。
 許しを乞うのではなく、私自身の手で歪めてしまった彼と、彼らとの関係を修復したいのだ。

「大将どうした、今日は食が進まないな」
 一緒に来ていた薬研が、首を傾げる。彼の言う通り、私の頼んだ団子のセットは、一つしか減っていなかった。
「ちょっと考え事をね」
「悩み事か? 最近は長谷部に色々話してるみたいだな。大将に頼られてるから最近やけに機嫌がいいぞ」
「そう……。あのさ、薬研」

 私、いい主かなと開きかけた口を慌てて閉じる。
 危ない。私は薬研に、長谷部と同じ過ちをしかけていた。
 自分の主君にいい主か? と聞かれて、正直に応えられる者など限られているというのに、何と野暮な質問をしようとしたのか。

「どうかしたか?」
 話の途中で唐突に黙り込んだ私に、薬研が怪訝そうな顔をする。
 慌てて別の話題をひねり出し、私は口を開いた。
「考えてみたらさ、私、皆のこと知らないなって思って。もしよければ、薬研のことを色々聞かせてほしいな」
「どうしたんだ、急に」
 戸惑い気味に笑みを繕う薬研。
 無理もない。今まであまり干渉してこなかった私が、急にそんなことを言いだすのだから。
「今まで自分のことでいっぱいいっぱいで、皆のことを考える余裕がなかったから、ちょっと変わっていこうと思って」
 そう伝えると、怪訝そうだった薬研の表情がみるみる喜びに輝いた。 「そりゃいいな! なら今度茶会でもするか。庭の紅葉がちょうど見頃なんだ。手伝えることがあったら言ってくれよ」
「うん。紅葉狩りしながら話すのはいいかも。でもその前に、薬研のことを聞かせてくれないかな。例えば前の主達の話とか、今の気持ちとか、気になっていることとか、色々」
 そう私がいたずらっぽく笑って見せると、薬研も機嫌よく応じる。


 刀剣男士は基本的に皆友好的だ。そんな彼らと私は一定の距離を取った関係を保っていた。
 何故なら、本当の矮小で愚かな自分を直視されたくなかったから。
 私と歴代の主君を、比較されたくなかったから。
 そんなくだらない理由で、私は彼らを遠ざけていた。

 私の目の前には冷めかけた緑茶と団子が二つ。食べきれなかったものを薬研に譲り、緑茶をすする。


 飲み下した茶は、いつもより苦く感じた。



「おかえりなさいませ、主」
 城門をくぐり本丸へ戻ると、一番に長谷部が出迎えてくれた。
 私が「ただいま」と答える間に、小脇に抱えていた荷物を長谷部があれよあれよと持ってくれる。

 長谷部にはいつも私のどうしようもない戯言を聞いてもらうだけでなく、身の回りの雑事などを長谷部に頼りきっている。
 これもいずれは改善していこう。

 そういえば、長谷部を伴って万屋へ行ったことは今まで一度もなかった。
 私は本丸で近侍として働く長谷部と戦場での長谷部しか知らない。
 個人的に万屋へ行ったこともなさそうな長谷部を、万屋へ連れていったらどんな顔をするのだろう。
 自室に戻りそんなことを考えながら荷物の整理をしていると、長谷部が茶を運んでくれた。
「お疲れ様でした。先ほど薬研から主が浮かない御様子だったと聞きましたが」

『何か、お悩みですか』

 長谷部が“いつも”の表情で私を見つめる。

 一瞬、謝罪の言葉が口を突いて出そうになった。
 ごめんね長谷部。私の都合で嫌な役をやらせて。とでも言えばいいのか?
 そんなことをしたところで、私の気が晴れるだけではないか。長谷部が得られるものは何もない。

 こんな駄目な私に真摯に仕えてくれる、けなげな長谷部。
 どうしたら、私はあなたに報えるのだろう。

 しばらく悩んだ末、私はゆるゆると首を振った。
「ううん、何もないよ」
 笑顔をとりつくろってみたが、ちゃんと笑えているだろうか。
 対する長谷部は、私を不思議そうに見つめるばかりだった。
 だから私はもう一度同じことを告げる。
「大丈夫、何もなかったよ。本当だよ」
「……本当ですか。何かあったからこそ隠していらっしゃるのではないですか?」
「そんなことはない。今日は薬研も一緒にいたんだから、何かあったら薬研が言っているよ。言ってないなら、何も起こってないってこと」
「しかし」
 まだ何か言い足りなさそうな長谷部の言葉を、無理矢理遮る。
「大丈夫。何かあったら相談するから。いつだってそうでしょう?」

 長谷部はしばらく質問を重ねたが、口を割ろうとしない私に、ついに折れた。
「主がそうおっしゃるのであれば」
 と納得していない様子で退室した。


 ピタリと閉じられた障子を見つめ、ため息を吐く。

 初めて私が口を閉ざした日。

 私は罪を犯した。
 私の見栄のために、刀剣男士達を顧みることをせず、彼らの気遣いを黙殺し、時に嘘を吐いて彼らから逃げ、長谷部に醜い言葉を一方的に垂れ流した。
 でも、ようやく私は自分の間違いを自覚できた。
 だからせめて今日から少しでも変わりたい。

 静まり返った執務室に、私の“告解”を聞く者は、もう誰もいない。
 行き場のない言葉は、ため息となって部屋の空気に溶けて消えた。



top  →次話

メッセージは文字まで、同一IPアドレスからの送信は一日回まで
現在文字数 0文字