見知らぬ街の人々

 ※別離。バッドエンド。



 懐かしい香りがして、長谷部は振り返る。
 薔薇に似たトリートメントの香り。かららら、と軽快な音を立てて、長谷部のすぐ傍を自転車が横切っていくことすら気付かず、長谷部はその場に立ち尽くす。
 既視感のある光景だった。
 女性が艶やかな髪をなびかせながら、向こうへと歩んでいく光景。

 あれは主だ、と長谷部は反射的に思った。そして、そこから先に行かせてはいけない、という警告が全身を貫く。
 鼻歌を歌いながら、主はどこかへと向かうところだった。


 主──!


 長谷部は彼女に手を伸ばす。主を引き戻すために。
 しかし長谷部の手は空を切った。
 そして“彼女”は、少し離れた場所に立っていた男性と合流していた。彼らは仲睦まじく手を握り合っていた。どうやら二人は近しい関係のようだった。

 長谷部は地面に敷き詰められたタイルを呆然と見下ろす。そうだ。自分は本丸ではなく、現世に任務に赴いていたのだ。
 その帰り、たまたま主と似た後ろ姿の女性を見つけてしまっただけなのだ。
 そう、たまたま彼女のハミングする曲が、主とよく似た音程で、髪から香るトリートメントの香りが、主と同じものだった。ただそれだけの話なのだ。
 夕暮れの町並みはどこか望郷感をくすぐるのは何故だろう。ここは長谷部に何の縁もない場所だというのに。
 町の人々は忙しなく行き来する。そろそろ夕飯の時刻だからだろう。誰もが慌ただしく動き回り、独り立ち止まる長谷部を気に留める者など誰もいなかった。
 長谷部は空気を切った掌を見つめ、ぎゅっと握りしめた。

 あの日、主はいなくなった。


 ある日政府からの指令で、主は政府施設へ赴くことになった。しかし護衛は政府側でつけるという理由で、何故か本丸の刀剣男士達は待機命令を出されていた。皆主の身を案じ、連れて行ってほしいと頼んだが、主は首を縦に振らなかった。
「すぐに戻るから」
 主は万屋へ買い物に行くかのように気軽な口調でそう言い、城門をくぐっていった。

 主が戻ることは二度となかった。
 主の言を信じるなら半日程度で済むという話だったのに、待てど暮らせど主は戻ってこなかった。それでも長谷部は城門の前で待ち続けた。一日、二日、三日──。
 日を重ねるごとに不安と心配で押しつぶされそうになった。これほど主が本丸を長く空けていたことはなかったから、皆一様に不安がった。政府に問い合わせようとしたこともあったが、全て徒労に終わった。何故か通信機が機能せず、どこへ繋ごうとしても、ノイズ音しか返さなかった。
 三月程経った頃だろうか。政府から『調査官』を名乗る刀剣男士が現れた。彼は消息を絶ったこの本丸の状況を調べるために、やってきたのだという。調査官が家探ししたところ『政府がこの本丸の主を呼びだした履歴はない』とのことだった。政府からの書類も通信履歴もなかった。
 では主を呼びだしたのは何者なのか。主は御無事なのか。皆が心配していたことだった。
 しかし政府はすぐに調査を打ち切り、『この本丸の審神者は時空移動の際に時空の乱れが発生し、誤って亜空間へ転送されてしまった』と結論付けた。本丸全ての刀剣男士達が調査結果に憤り、再調査を要求した。皆が主と霊力がまだ繋がっている、と主張し続けた。
 しかし政府は頑として聞き入れず、強制的に本丸の取り潰しを命じた。その際政府から「刀解を望むか、政府所有の刀となるか」の二択から選ぶよう、通達があった。ほとんどのものが後者を選んだ。何故ならまだ主との縁は切れていなかったからだ。
 しかし時が経つごとに、主との縁は薄くなっていく。

『知ってる? 審神者と刀剣男士って、小指と小指が霊力の糸で結ばれているんだよ』

 遠い昔、まるで内緒話のようにひそやかに笑って、主は小指を立てて長谷部に教えてくれたことがある。日に照らされたその指先には、確かに光る細いものがあった。そしてその細い糸の先は長谷部の左手の小指に繋がっているようだった。
 そう教えてくれた主は、もういない。
 皆最初は主の帰還を信じて、現世で待ち続けるつもりだった。しかし、数年、数十年と年を重ねると、限界を感じるようだった。最初の刀解希望者が出てからは、一人また一人と本霊帰還志願者が増えていく。

 そして、昨日は秋田藤四郎が刀解希望を出した。その直前に、長谷部に最後の挨拶へやってきたのだ。
「長谷部さんは、まだ主君を待つおつもりですか?」
 くりくりと空色の瞳が長谷部を見上げる。
「そのつもりだ。主との縁は、完全に切れたわけではないからな」
 長谷部は自分の小指の先を撫でた。まだかすかに感じる糸の感触だけが、長谷部の正気を保つ唯一のものだった。

「そうですか……。すみません、ご一緒できなくて」
「別に構わん」
 長谷部は目の前にいる秋田を薄情だと非難することはできなかった。主との縁がすっかり薄れてしまった今、どれほど待とうが良い結果など得られないことを、薄々と長谷部もわかり始めていたからだ。
「僕、かくれんぼは得意なつもりでしたけど、どうも探すのは苦手なようです。……“向こう”に戻られた時は、僕にも声をかけてください。お土産話をたくさん聞かせてくださいね!」
「ああ」
 朗らかに、けれどどこか寂しそうに笑って、秋田藤四郎は去っていった。己の本体を政府に差し出し、本霊へ還るために。


 きゅっと踵を返し、長谷部はその場を後にする。仲睦まじい二人に背を向けて。

 こんなところで感傷に浸っている場合ではない。主が戻るまでお待ちする。そう決めたのは俺自身じゃないか。
 長谷部は歯を食いしばり、一歩一歩と進んでいく。
 もし彼女の髪を一房もらえたなら、この永劫続く寂しさを少しでも埋められただろうか、などという愚かしい未練を、蹴散らしながら。


「待てというのなら、いつまでも。迎えに来てくれるのであれば」




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2020年10月6日

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