「弁償……、ですか?」
「うん」
コンポーザーは頷く。
うつむきがちなその横顔は少し寂しそうに見えた。
我々は審判の部屋で、指揮者とコンポーザーの定例会議を行っていた。
水を打ったように静まり返った広大な部屋の中で、俺は死神のゲームや渋谷の諸々のことを報告し、コンポーザーと対策等を話し合う。
会議を終えて雑談を交わしている最中、コンポーザーが思い出したように話し始めたのだ。
行きつけのカフェで軽食を取っている最中、何かの拍子にカップを割ってしまったのだという。
そのカップをコンポーザーは弁償し、戻られたそうなのだが……。
そのコンポーザーが、店側に弁償を求められるほど、よほどのトラブルを起こしたとは到底思えない。
いや、この方の性格を思えば、コンポーザーご自身から、弁償を申し出たと見るのが妥当か。
ご自分の失態を恥じて、気を落とされているのかもしれない。
「それは災難でしたね。そのカップはよほど高価なものなのですか?」
言いながら、俺は頭の中で値の張りそうなブランドのカップを思い浮かべる。
質を選ばなければコーヒーカップはワンコインで買えるものもあるが、カフェで弁償せざるを得ないほどのものといえば、それなりに高価なものだろう。
しかし、コンポーザーは俺の予想に反し、静かに首を横に振った。
「ううん、ごく普通のマグカップだよ。ちょっと古いものだけど」
「マグカップ?」
ますますわけがわからない。
コーヒーカップではなく、マグカップでコーヒーを客に振舞う店は渋谷にあるだろう。
あるかもしれないが、コンポーザーのいう『ごく普通のちょっと古いマグカップ』のイメージが上手く掴めなかった。
そしてごく普通のマグカップを1つ割ってしまったことで、弁償せざるを得なかった事情も。
しばしためらってから、俺は予想を口にする。
「……コンポーザーご自身が、弁償を申し出たのですか?」
「察しがいいね。正解だよ」
あまり嬉しくなさそうに、コンポーザーが俺の問いに答えた。
コンポーザーは会話の最中に、あえて情報を伝えず俺に答えを予想させるという、クイズのようなやりとりを好まれる。
普段なら考え込む俺の顔を興味深そうに眺めたり、正解を言い当てた時には子供のような無邪気さで「正解」と答えてくれる。
だが、今日は違った。
よほどマグカップを割ってしまったことに、責任を感じているのだろうか。
「そのマグカップは、店主にとって思い入れのあるものだったのですか?」
「そっちははずれ」
クスリと笑うコンポーザーだったが、部屋の静寂にむなしくかき消された。
「では、その店にしかない一点物だった?」
「そうだね。既製品だから探せば見つかるかもしれないけど、難しいかもね」
「先程『少し』古いものだとおっしゃっていましたが」
少しを強調すると、コンポーザーは苦い表情を浮かべる。
「古さはそれほど重要じゃないんだ。あのマグカップはね、僕がコンポーザーに……UGに来る以前もらった贈り物なんだよ」
「コンポーザーの、ですか」
話が思わぬ方向に進み、俺は密かに驚いた。
コンポーザーが個人的な話をされることは滅多にないからだ。
特にご自分の過去に関する話は、今まで一度も口にしたことがない。
だから俺の中で、この方は俺の生まれる遥昔から、ずっと『コンポーザー』だったという錯覚さえあった。
この方にもコンポーザー以前の、死神だった時やRGで人間として生きていた時があったのだ。
「僕の誕生日にプレゼントされたもので、僕とRGを唯一つなぐものだったんだ。こっちに来る直前に、カフェのマスターに預けて、今もたまに使わせてもらっていたんだ」
「……事情も知らず、不躾な質問をしてしまい、申し訳ありません」
なんとも物悲しい様子に、俺はいたたまれなくなり、頭を下げた。
コンポーザーがいつからUGの住民になったのか、俺は知らない。
生前、RGに自分は確かに存在していた証、それも誰かからの贈り物を、自分のせいで壊してしまったコンポーザーのお気持ちを考えると、やるせなさと自分の無遠慮さに吐き気がする。
胃がキリキリしてきた。
「ちょっとどうしてメグミ君が謝るの。僕から話し始めたんだから、いいんだよ。僕はただ誰かに話を聞いて欲しかっただけなんだから」
少し慌てた口調で、コンポーザーが頭を上げるよう説得される。
俺に求められていたのは、謝罪ではなくただコンポーザーの声に耳を傾けていればよかったのだ。
思わずもう一度謝罪の言葉を口にしかけたが、こらえて頭を上げた。
「カップが割れたのは、もしかしたらそろそろRGの未練を捨てて、こっちの世界に専念しろって暗示なのかもしれないね」
などと自嘲するコンポーザーに、胸が痛む。
何と言えばコンポーザーの慰めになるだろうか。
もう一度頭の中でコンポーザーの話を整理する。
RGにいた頃の唯一の私物。
どなたかから誕生日に贈られたらしいマグカップ。
たまに行きつけのカフェで使用するらしい……。
俺も死神になってから、生前の私物をほとんど処分してしまった。
そもそも、死神のゲームに参加する時点で私物をほとんど持つことは許されない。
携帯電話だけはミッション通達に必要なため所持を許されるが、他はその当時身につけていた衣服と、生前最も執着していたものなど、数点のみだろう。
俺も死神になってから、生前の私物をほとんど処分してしまった。
そもそも、死神のゲームに参加する時点で私物をほとんど持つことは許されない。
携帯電話だけはミッション通達に必要なため、所持を許されるが、他は衣服と生前最も執着していたものを数点のみだろう。
今、コンポーザーにかけるべき言葉をようやく俺は思いついた。
「お誕生日、おめでとうございます。コンポーザー」
俺がそう呟くと、コンポーザーは一瞬目を見開いたあと、ひとさじの悲しみを浮かべた無邪気な笑顔を浮かべ、ありがとうと囁いたのだった。