本当に奇跡的な偶然。
一目彼を見た瞬間、私は恋に落ちた。
あれは以前死神のゲーム中に発生したトラブルを、幹部に伝えに行こうとしたときのこと。
死神本部に、誰もいなかった。
ゲームマスターは現場に直行し、他の幹部は全員不在。
そして残ったゲームの指揮者である北虹さんは、待機されているはずだったのにいない。
「ど、どうしよう」
動揺した私は、北虹さんの携帯電話に電話しながら、何かないかと部屋を探った。
今思えば、現場はトラブルで大混乱、頼りの幹部はいなくて、混乱していたのだろう。
あわあわしながら部屋をうろつき、ダーツの的に触った時だった。
やけに重い音を立てて、ゆっくりと壁だと思っていたそれは、回転した。
「隠し扉!」
死神本部にある隠し扉を無断で開けて侵入したら、ただですむだろうか。
さっと嫌な予感がかすめたが、頭を振って不安を追い払う。
そんなことを言っている場合じゃない。
えいっと真っ暗な通路を駆け出した。
ものすごい壁グラを抜けた先で、北虹さんは誰かと、彼と話していた。
「君! 何故ここに入ってきた!」
「あ、あの」
北虹さんの剣幕に、思わず身をすくめてしまう。
「まあまあメグミ君、いきなり怒鳴ったらかわいそうだよ。ここに来たのには、何か事情があるんじゃない?」
北虹さんの背後から、別の男性の声が聞こえた。
険しい表情の北虹さんに、大きな椅子の上で足を組んだ男性は、朗らかに笑いかける。
「それで、どうして君はここに来たの?」
「実はゲーム中に参加者と死神間でトラブルが発生して、それを知らせるために参りました」
微笑を崩さないまま男性に促され、やっとの思いで現状を知らせる。
私の報告を、男性は目を輝かせて聞いている。
報告の内容よりも、私に注目しているような……。
「待て、そんな事態になって、ゲームマスターは何をしている?」
北虹さんが途中で口を挟む。
冷静沈着な彼の顔に、珍しく焦りを浮かんでいた。
「GMは今、現場で対処に当たられています。至急北虹様に事態を知らせて、ゲームマスターを代行していただきたいとのことです。もはや自分の手には負えないと」
「そうか……」
北虹さんは顎に手を添え、数秒思案したあと、顔を上げた。
「先程は怒鳴ってすまなかった。君、名前は?」
「戦闘部隊の
佐倉ユウです」
「うむ、
佐倉。至急GMの元に向かってやってくれ。今回のゲームは、私がGMを代行すると伝えたまえ」
「かしこまりました!」
北虹さんは、この上なく頼もしく見えた。
そんな今まさに戦場に赴かんとする、緊迫した空気漂う中、うーん、とのんきそうな声が聞こえた。
声の出処は、先ほどの男性だった。
「それにしても、幹部じゃない子にあっさり入られちゃうなら、あの扉は変えたほうがよさそうだね」
「そのようですね。申し訳ありません、ゲームが終わり次第、新しい扉を手配いたします」
「隠し扉ってスパイ映画とか忍者屋敷みたいで、かっこよかったんだけどな」
「も、申し訳ありません」
あの指揮者の北虹さんが、さっきまで私にかっこよく指示を出していた北虹さんが、慌ててぺこぺこ頭を下げている。
一体この男性は何者なんだろう。
真剣に心から謝罪している北虹さんに、男性は「もう、怒っているわけじゃないんだから、部下の前でそんなに謝らないでよ」とのんきに構えている。
いや、考えるまでもない。
ゲームの指揮者が仕える人物といえば、ただ一人。
コンポーザーしかいない!
「あ、メグミ君。彼女、僕の正体に気付いちゃったみたいだよ」
「えっ!」
北虹さんが下げ続けていた頭を、がばっと上げる。
「
佐倉! いいか、このことは」
「言いません! 誰にも、絶対!」
北虹さんの剣幕に押され、必死で首を振る。
思い切りつかまれた両肩が痛い。
子供を諭すような口調で、男性がとんでもないことを私に語りかける。
「も、もちろんです!」
目を白黒させながら、とにかくイエス! と叫ぶ私に、満足そうな表情で北虹さんを振り返る。
男性の言葉に、ようやく私たちは我に返った。
慌てて携帯電話を取り出す北虹さんを尻目に、私も男性に頭を下げる。
すぐにGMの元へ行こうと踵を返そうとした時、男性が手を振った。
「またね、
ユウ君」
あの部屋を出てからは、目の回りそうな忙しかった。
GMの変更、トラブルの対処などで現場は混乱を極めたが、北虹さんの的確な指示と私たち現場の死神の努力により、何とかゲームを無事終わらせることができた。
ゲームが終わるまでまったく自覚がなかったけれど、あの時、男性と話したことは、かなり貴重な体験だったのかもしれないと思えるようになった。
二人共明言しなかったが、北虹さんの態度からして、まず間違いなくあの男性はコンポーザーに間違いないだろう。
私みたいな下っ端なら、絶対に会うことさえできない立場の人。
そんな人と話して、しかも名前(しかも下の名前)で呼んでもらえた。
穏やかな口調、そして好奇心でらんらんと輝く藍色の目。
たった数分しか話していないのに、どうして私はあの男性を思い出すだけで、こんなに満ち足りた気持ちになってしまうのだろう。
きっとあの隠し扉も、今頃はもう撤去されてしまっているはず。
もう会うことさえかなわない。
ああこの思いの丈を、どうしたらあの人にぶつけることができるだろう。
半年、私はぶつけるあてのない思いを抱えて、悶々としていた。
明日は折りしも2月14日。バレンタインデーだ。
「いつもお世話になっているから」
という名目でチョコレートを渡すことは可能、なはず。
できれば本人に直接渡したいところだけど、まず難しいだろう。
北虹さんが絶対に許さないはずだ。
それなら幹部に渡しにいくついでに、コンポーザーに渡してもらうよう頼めばいい!
渡してもらえない可能性の方が高そうだけど、何もしないよりまずは行動あるのみ。
早速マフラーと手袋で防寒を完璧にして、渋谷の街に駆け出した。
渋急本店のデパ地下にあるバレンタイン特設会場は、女性客でひしめいていた。
どうやら私のように、ギリギリになって、チョコレートを求めてやってきた人が、多いようだ。
売り場の多種多様な香水が入り混じった匂いと、殺気立った空気にめまいを起こしそうになる。
しかしここで帰るわけには行かない。
えいやっと覚悟を決めて、女性達の群れに突撃した。
数十分後、私は命からがら戦場から帰還した。
何とか目当てのチョコレートを、手中に収められたのだから、万々歳だ。
幹部の分も買うつもりだったけれど、あの人混みの中にいること自体が、既に限界だった。
とにかく、肝心の彼の分は、買うことができたのだから、それで良しとしよう。
私は彼に、高級店というイメージの強いとある専門店のチョコレートを購入した。
一度だけ私も食べたことがあるが、値段に見合うすばらしい味だった。
このお店のチョコレートなら、きっと彼も喜んでくれるだろう。甘いものが苦手でなければいいが。
このチョコレートを受け取った彼は、どんな反応をしてくれるだろうか。
喜んでくれるといいな。
そんなことを考えているうちに、彼に渡すための箱の中身を改めて確認したくなった。
紙袋の封を破かないよう、細く隙間を開けて覗き込んだときだった。
背中を誰かに突き飛ばされる。
反射的に床に手をついて、顔面から突っ伏すことはなかった。
しかし、ついさっきまで持っていた紙袋の感触がない。
うそ、どこ!?
慌てて周囲の床を、きょろきょろ見回す私の肩を、誰かがそっと叩いた。
「探し物はこれ?」
振り返ると、私より2、3歳くらい年下の男の子が立っていた。
男の子の手には、ついさっきまで私が持っていた紙袋が握られている。
「うん、そうそれ! ありがとう!」
喜び勇んで袋を受け取り、もう1度中身を確認する。
「あああ……」
絶望的なため息が、口をついて出た。
チョコレートの外箱が、べこりと潰れていたのだ。
多分、中身自体は無事だろう。
それでも外観が損なわれてしまったものを、何食わぬ顔で贈っては、あまりにも失礼だ。
何でこんなことに。
売り場からそれほど離れていないところで、中身を確認しようとした、私が悪い。
今からもう1度同じものを買い直せば。
そんな気持ちさえ消えてしまう。
まるで神様に『彼のことは諦めなさい』と釘を指された気分だ。
声に気付いて、のろのろ顔を上げると、さっきの男の子が、膝を折って、私の顔を覗き込んでいた。
「うん、大丈夫だよ。拾ってくれてありがとうね」
無理矢理笑顔を作ってみせると、男の子は困ったように笑い返した。
と思ったら、
「あ」
と声を上げた。
「なに?」
「ここ」
男の子が、自分の掌を指差してみせる。
つられて私の掌を見ると、擦り傷ができて、血が流れていた。
怪我をしていることに気付いた途端、痛みがじわじわ湧き上がる。
血と砂埃で汚れた手を見ていたら、あまりに自分がみじめすぎて、涙が出そうになった。
そんな私を見て、男の子が私の手を引いて立たせてくれた。
そのままどこかへ引っ張っていく。
「ど、どこ行くの?」
「こっち」
男の子に誘導されるまま、階段の傍にある、小さな休憩所にたどり着いた。
ほとんど人も通りかからず、さっきまでの喧騒が嘘のように、静かな場所だ。
男の子はベンチに一旦荷物を置いて、近くの手洗い場で、汚れた手を丁寧な手つきで洗ってくれ、最後に自分のハンカチで、私の手をくるんでくれた。
「ありがとう。ごめんね、綺麗なハンカチなのに」
「いいよ。早く怪我が治るといいね」
年下の男の子に世話を焼かれて、少し恥ずかしかったけど、親切にしてもらえて嬉しかった。
「そういえば、足は大丈夫? 膝とか打ってそうだけど」
「うーん。確かにちょっと痛いけど、すりむいてはないと思う。うちに帰ったら、湿布を貼っておくよ」
「そう」
改めて男の子を見てみると、綺麗な顔をしていた。
柔らかそうな淡い色の髪に、繊細な顔立ち。
そして着ているものも洗練されている。
シンプルなこげ茶のコートに、白いモヘアのマフラーを巻いているだけなのに、様になっている。
「さっきは災難だったね」
「ううん、私が悪いんだよ。あんなところで、立ち止まってたんだもん。誰かにぶつかったって、文句言えないよ」
「そうかな……。チョコレート、やっぱりダメかい?」
「食べる分には問題ないけど、箱が潰れちゃって」
紙袋の封を切って、男の子に渡すと、あららとつぶやいた。
「うーん。これくらいだったら、ごまかせないかな? 別の箱に入れ直すとか、箱のゆがんだ部分を直すとかして」
「ちょっと難しいかな。それに、どうせ渡すなら、せめて綺麗なまま渡したかった」
「そっか。じゃあ、今からもう1度買い直しに行く?」
男の子の提案に、私は首を横に振った。
「ううん、いいの。多分、縁がなかったんだと思う」
「諦めるの?」
のろのろと顔を上げると、澄んだ眼差しが私を見つめていた。
そんな目で見ないで欲しい。
「せっかくわざわざここまで買いに来たのに、諦めるの?」
「だって……」
男の子の声に反して、私は及び腰になった。
「だって、私がチョコ渡したい人、職場で1番上の人なんだよ。私みたいな下っ端じゃ、絶対会えないような人なのに、だったら渡すだけ無駄じゃない……」
バカ馬鹿と心の中で自分を叱咤する。
年下の、それも中学生ぐらいの男の子に、こんなことを愚痴ってどうする。
でも、私の口からは自然と言葉が出てきてしまう。
ずっとこの半年間、心の中に溜め込んでいた思いが、男の子の優しさに触れたせいで、溢れ出してしまったようだ。
「でも、好きなんでしょ?」
男の子がそっと問いかける。
こくりと頷くと、顔が熱くなるのを感じた。
フフと男の子が笑った。
男の子が、自分の首に巻いていた、真っ白なマフラーを私の首にそっとかけた。
「え、これ」
「お守り。それに首元が寒そうだから」
「首? え、あ、マフラーがない!」
出かけるときに巻いたはずのマフラーが、いつの間にか無くなっていた。
「じゃあちょうどいいね。なくしたマフラーの代わりに使ってよ」
首にかけられたマフラーは、見たときから良いもののような気がしていたけれど、直に触ってみて気づいた。
私がいつも使っていた、安物のマフラーとは明らかに違う手触り。
しかもタグにペガサスのマーク。
これはもしや老舗ブランドのペガッソの……!?
もしペガッソのマフラーなら、数万円、下手をすればもう1つ桁が足りないかもしれない。
とにかくこのマフラーは、おいそれと他人にあげられるような代物ではない。
慌てて返そうとして手を伸ばしかけたけれど、やめておこう。
せっかく男の子がくれた好意を突き返しては、逆に傷つけてしまう。
「ありがとう、買い物が終わったら、必ず返しに来るね」
「今日はこのあとちょっと予定が入ってるんだ。だから返さなくていいよ」
「だめ! まだ寒い日が続くんだから、当分の間は必要でしょ?」
私があくまで返すと押し通すと、妙に大人びた仕草でため息をついた。
やれやれといった感じか。
「じゃあ、1ヶ月後の3月15日の午後4時くらいに、ここで落ち合うっていうのは?」
「もちろんいいけど、何でそんなに先なの?」
「当分の間は予定が入ってて、なかなか来れそうにないんだ。それに、今日の結果も聞きたいしね」
男の子がいたずらっぽく笑う。
どうやら親切なだけでなく、なかなかの食わせ者のようだ。
見ず知らずの人間を気遣ってくれた男の子に、私も少し箱の潰れたチョコレートを差し出す。
男の子はきょとんとした顔で、チョコレートと私を見比べた。
年相応の表情が可愛らしい。
「お礼と。あとフライングだけど、バレンタインに」
「いいのかい? 僕がもらって」
「もちろん。ダメになっちゃったものを渡すのは失礼かもしれないけど。ほんの気持ちだよ。怪我の手当をしてくれたり、マフラーを貸してくれたのが、すごく嬉しかったから。箱がちょっとへこんじゃってるけど、味はお墨付き」
「でも彼の分は?」
「これから買いに行く」
ぐっとこぶしを突き出してみせる。
男の子が満足そうに笑った。
「いってらっしゃい。今度は転ばないように気をつけてね」
「ありがとう! ハッピーバレンタイン」
そして私は、もう1度特設会場の中に向かった。
今度こそ、彼のためにチョコレートを買うんだ。
この時、私は大事なことを見落としていた。
寒さのだいぶおさまった3月半ばにマフラーを返しては、あまり意味がないことに。