このさわがしい街で

渋谷の存続をかけたゲームが終了して8日が経った、8月24日。
 北虹さんと私は渋谷の街を歩いていた。

甲高い声を上げながらスクランブルを渡る女子高生。携帯電話で通話しながら駆けていくサラリーマン。地べたに座り込んで仲間とだべる若者。
私達の周囲にはいつもの日常、いつもの光景が溢れている。

渋谷は、平和だ。

「あっけないほどいつも通りだね」

北虹さんを見上げて、つぶやく。
私たちは渋谷川のアジトから出て、道玄坂まで歩いてきたが、それまでお互い口を開かなかった。
 元々北虹さんはあまり饒舌な方ではないが、私も気の利いた言葉が思いつかず、話しかけられずにここまで来てしまった。
「……そうだな」

コンポーザーとのゲームで、最終的に北虹さんはゲームに敗れ、渋谷と共に消滅した……はずだった。

だがゲームが終了し、後は消滅を待つばかりの渋谷は、今も残っている。
そしてコンポーザーの意に背き、消滅したはずの北虹さんは、今こうして私の隣にいる。
コンポーザーの気まぐれかはたまた成り行きか、とにかく北虹さんは無事だった。
それだけが私の全てだ。

しかし当の北虹さんの表情は、晴れない。
自分の感情を押し殺しているのが、こうして隣を歩いていると手に取るように分かった。
北虹さんが自分の存在を懸けて守りたかった街が、今目の前にあり自分も存在していられるのに、何が彼をそんなに落ち込ませているのだろうか。
「ねえ、北虹さん」
「何だ」
「渋谷が無事で、嬉しい?」
「ああ……、嬉しいとも。これほど嬉しいことがあるか? 渋谷は崩壊の危機を乗り切り、今もこうしてRGの彼らに異変を知られることなく、日常が続いている。それも全てコンポーザーのおかげだ。コンポーザーの手で再生された渋谷。完璧に調律された渋谷。この街はあの方が理想とする渋谷になった。コンポーザーの忠実なる僕としてこれほど嬉しいことはない」
「『ゲームの指揮者』としては、何の未練もないの?」

私がそっと問うと、高揚していた北虹さんは肩を落とした。
「唯一の心残りは、俺の手で渋谷を更生できなかったことだ。指揮者として、責務を全うできなかったことが、何より悔しい」
「頑張ってたものね、北虹さん。こんなバッジまで作って」

赤地に黒のスカルをプリントされた、手のひらに収まる小さなバッジだ。
レッド・スカルバッジ。
これこそが北虹さんの最終兵器だった。
「それはもう必要ないものだ。あとで処分しておいてくれ」
「だーめ。北虹さんの思いがこもってる大事なバッジなんだから、処分なんかしませんよ」
「1度ゲームの指揮者の任を解かれてからは、俺のインプリントは解除されているはずだ。今のそれは何の効力もない、ただのバッジだ」

北虹さんにそう言われ、私は手の中でバッジを転がす。
にんまり笑って北虹さんの目の前にバッジを突き出す。
「じゃあ、新しい刷り込みをしてよ。私が北虹さんを好きになるインプリント」
「今更何を。もう君には不要だろう?」
「ふっ。フフフフ」
「は、ハハハハ」
「ようやく笑ってくれたね。北虹さん」
「ん?」
「戻ってきてから、北虹さん、ずっと沈み込んでたから」
「それほどふさぎこんでいるように見えたか?」
「自分で気付いてない辺り、重症だよ。ポーカーフェイス装ってるつもりだったのかもしれないけど、私にはバレバレです」
「そうか。 佐倉に隠し事はできないな」
「ねえ、コンポーザーになんて言われたの?」

北虹さんは渋谷川の奥で、コンポーザーと話をし終えたばかりだった。
話すのをためらう北虹さんをじっと見つめると、たっぷり2、3回咳払いをしてから、重い口を開いた。
「…………俺に、もう1度ゲームの指揮者として、自分を支えて欲しいとのことだ」
「そう。それで、北虹さんは何て言ったの?」

やっぱり。私はコンポーザーの意向にさほど驚きを感じなかった。
先のゲームのせいで死神の大半が消滅し、今この渋谷は圧倒的な人手不足にある。
 コンポーザーの手ずから蘇らせた北虹さんに、再び指揮者の座につかせようとするのは当然の流れだった。

問題は、当の北虹さんがいつにも増して思い悩んでいる点だ。
「即答はできないので、考える時間が欲しいと」
「え!? なんで?」
「渋谷のためとはいえ、1度俺はコンポーザーに背いた身。それに渋谷を更正するどころかめちゃくちゃにしてしまった俺に、コンポーザーの片腕になる資格はないのではないかと思うと、応えられなかった」
「そう」

私は北虹さんから表情を隠すようにうつむいた。
内心、あまりいい気分ではなかったからだ。

北虹さんが崇拝しているといっていいほど、絶大な信頼を寄せられている、コンポーザー。
渋谷UGを統治するものが、どれだけ偉いか私は知らない。

だが、北虹さんの模索して出した解決策を認めずに消滅させた張本人が、自分の都合で復活させた挙句再び指揮者に据えようとしていることに、私は釈然としないものを感じた。
少しでも、このひたむきで忠誠心にあふれる部下の気持ちを、考えてくれたなら。

そして北虹さんがコンポーザーに不満を抱いていないことにも、複雑な気持ちだった。
もっと怒って、自分の気持ちをさらけ出してくれてもいいのに。

とはいえ、常時ポーカーフェイスの北虹さんの本心を、さらけ出させるのは至難の業だとわかっている。
指揮者としての風格云々以前に、自分の素直な感情をあるがままにするのはいたたまれないらしい。
私に話せる範囲のことは話してくれることが、唯一の救い……かもしれない。
「佐倉、どうした? 先程から黙り込んで」

物思いにふけっていたら、ついつい黙り込んでしまったらしい。
北虹さんを見上げると、少し困惑した様子で私を見ていた。
そんな顔をするなんて珍しい。

相手の本心を聞きたいなら、まずは自分から心を開かないと。
私は意を決して自分が抱えている不満を、北虹さんにぶつけた。
コンポーザーの北虹さんに対する仕打ち、そしてそれに甘んじている北虹さん。もやもやするこの気持ち。
一方的にまくしたてる私を、北虹さんは相づちも打たずに静かに耳を傾けてくれた。
「フッ……」

全て伝えきった私を見下ろして、北虹さんは微笑った。
「なに? 今の話、何かおかしいところでもあった?」
「いや……、何というか、君がそんなに俺のことを考えてくれていたとは思わなかったから、ついな」
「なっ!」

かっと顔が熱くなるのを感じた。
全く持ってその通りなのだけれど、本人に指摘されると輪をかけて恥ずかしい。
「北虹さんは、何も不満に思ってないの?」
熱くなる私に北虹さんは答えず、穏やかに微笑んでいる。
「だっておかしいでしょ。これだけ一生懸命頑張って、評価もされないで消滅ってさ。ひどいよ、こんなのおかしいよ」
「評価はされた。『あともうひとひねり欲しかった』と」
「そういうことじゃなくて!」
「わかっている。冗談だ」
「冗談……」

呆然と北虹さんのサングラスを見上げる。
あの真面目な北虹さんが、ジョークを言うなんて。
「すまん。……今にして思うと、コンポーザーは先日のゲームで俺にチャンスを下すったのだと思う」
「チャンス?」
「ああ。俺自身を更生するチャンスだ」
「渋谷の更生じゃなくて?」
予想外の答えに面食らった。

しかし北虹さんは落ち着き払ってうなずく。
「コンポーザーとのゲームの課題は、あくまで『渋谷の更生』だったが、その前に俺自身も変わる必要があった。渋谷の舵を取る者が、他人を拒んでいては渋谷の更生など不可能だった」
「北虹さんは他人を拒んでなんかいないじゃない」
「いいや、拒んでいるさ。これが証拠だ」

北虹さんは自分の肩を指さした。
もっと正確に言えば、彼の肩に掛かる赤いヘッドフォン。彼の愛用するヘッドフォンを。
「コンポーザーは以前、ヘッドフォンを着けているのは人を拒む証拠だとおっしゃったことがある。俺は代理人の、ネク君のように完全に他人を遮断してはいなかった。しかし俺は幹部を経て指揮者になった今も、ヘッドフォンを手放せないままだ」
北虹さんの手が、ヘッドフォンを撫でる。
まるで自分の傷跡をさするように。
「結局のところ、どこかで恐れているんだ。他人とありのままの自分で触れ合うのを。だからこそ、あと少しで肩から下ろせるかどうかの瀬戸際で、俺はこいつを放せない」
「北虹さん……」

何か言わなきゃ。
そう思って口を開いたけれど、何かが言葉になって出てくることはなかった。
「ごめんなさい、続けて」

続きを促すと、北虹さんがうなずいて再び言葉をつむいだ。
「コンポーザーも俺の葛藤に気付いていらっしゃった。だからこそ、あの希有な機会を俺に与えてくださった。俺に『世界を変えたければ、自ら境界を越えろ』と」

北虹さんは自虐的に笑う。見ていられないほど苦い横顔だった。
「あの方の真意も汲もうともせず、独裁に走って玉砕した俺に指揮者になる資格など、ないんだ」

 最後の方は吐き捨てるような言い方だった。
ふがいない自分を叱責するような叫びにも聞こえた。

しばらく、私は何も言えなかった。
あまりにも北虹さんの嘆きは重かった。

「すまない。君にこんなことを言ってもどうしようもないことは、分かっているんだが……」

沈黙がいたたまれなかったのか、北虹さんは額を抑えて首を振った。
今にもこの話は忘れてくれと言いかねない雰囲気だ。
せっかく北虹さんが、心のうちを話してくれた。やっと彼の心に届きかけているこの時を、無駄にしてはだめだ。
私はそっと口を開いた。
「ねえ、北虹さん」
「何だ」
「確かに北虹さんって感情を表現するのが苦手だと思うけど、今私に言ってくれたよね? 自分のつらいことを、ありのままに」
「なっ……」

今度は北虹さんが驚きに口を開ける番だった。
慌てた様子で口を手で覆い隠す。
「いや、それは君が、 佐倉が感じていることを伝えてくれたからで……」
「それもあるけど、でも前の北虹さんだったら、私がどんなに気持ちをさらけ出しても、絶対こんなこと言ってくれなかったと思う。だから、今私すごく嬉しいよ」
「う…うむ」
「今の北虹さんだったら、ヘッドフォン、外せるんじゃないのかな?」

私の言葉で、無意識のうちに北虹さんの手がヘッドフォンにかかっていた。
はっと息をのみ、しばらくヘッドフォンに手をかけながら思案していたけれど、北虹さんの手はヘッドフォンから離れた。
「すまない。こいつを外すのはまだ無理なようだ」
「私は別に外してほしいわけじゃないよ。そのヘッドフォン、北虹さんに似合ってるし」
「そうか?」

北虹さんが破顔した。お気に入りのヘッドフォンを褒められて、嬉しかったらしい。
「だから、えーと……ヘッドフォンどうこうとかそういうんじゃなく……」

言おうとしていたことを、北虹さんの笑顔ですっかり忘れてしまって、しどろもどろになってしまう。
「いい」
「え?」
「無理に話さなくていい。君の言いたいことはわかる」
「そっか。うん、じゃあいいや」

私が何を言いたいのかさっぱり忘れてしまったけれど、本人に伝わったのなら無理に言わなくてもいい。
北虹さんのことに色々口出しをしてしまったけれど、私自身も意見を伝えることは不得手だ。
こんなつたない伝え方でも、ちゃんと分かってくれる北虹さんがとてもいとしいと思う。
「 佐倉に頼みがある」
「な、何。改まって」
「君をこれからユウと呼んでも構わないだろうか?」
「北虹さん……」

うなずく代わりに私も悪戯っぽく笑ってお伺いを立てる。
「じゃあ私も、北虹さんのことメグミさんって呼んでもいい?」
「ああ、もちろんだ」
「ユウ、本部へ戻ろう。決めたよ。俺は指揮者になって、あの方と、渋谷を支えると」
「それは……最高のアイディアだね。メグミさん」
「行こう」

メグミさんが私に手を差し出してきた。
「うん」

うなずいて、メグミさんの手を取る。
メグミさんの手は、私よりも少し冷たくて思ったよりも大きかった。

 私たちは元来た道を戻る。
いつもはうるさく思える街の雑踏が、とても心地よかった。
私はこれからも、メグミさんと一緒にずっと過ごしていく。

このさわがしい街で。