堀川君と鱗雲

 鱗雲とは言い得て妙だ。
 堀川は思う。
 彼の前ではまな板の上に乗ったサバが、今まさに三枚におろされようとしているところだった。指先でサバの腹を撫でてみると、ぬるりとした感触があった。

 傷一つないサバの身体に包丁を添わせる。目に見えにくかった鱗がぞりぞりとこそげ落とされていく。鱗の薄い灰色が、空に浮かぶ鱗雲のように見える。
 鱗雲を触ったら、こんな感じなのだろうか。徒然に思いながら、鱗の一つを指先で掬い取る。

 少し生臭い。

 堀川は刃物の扱いには長けているが、料理はそこまで得意ではない。今日は料理当番だったので、厨に出て来てサバを三枚におろしている。
 今日の夕飯の献立は、なめこのおみおつけとサバの味噌煮、じゃがいもの煮っころがし、だし巻き卵、漬物だ。

 出陣や遠征に赴いている刀剣達がそろそろ帰る時間だ。顔を上げると窓の先に朱色に染まった空と鱗雲があった。

「堀川くーん。サバはどう?」

 堀川の主が声をかけてきた。
 彼女も料理当番に混ざって、夕餉作りを手伝っていた。大人数用の鍋の前に立って、鍋の中に具を入れている。

「はーい、もうすぐ捌き終わりまーす!」

 堀川が笑って応えてやると、「わかったー」と鍋を見たまま言う。
 淑女と言えば、誰何されたら体ごと振り向くと言うが、堀川の主とは無縁のことだ。顔が見えなくても、声の調子で互いの様子は手に取るようにわかる。二人とも、いわゆる"そういう関係"だからだ。

 本丸の皆はわかっているのかいないのか、二人の関係は黙認されている。
 ちなみに堀川は一つの区切りとして、相棒の和泉守兼定にだけは伝えてある。少し複雑そうな顔はされたものの、「応援してるぞ」と言われた。
 そんな相棒の和泉守兼定だが、今は霧煙る謎の里へ玉を集めに行っている。
 自分と交代で第一部隊に配属されて張り切っていたが、「気を付けてね」という堀川の忠告が聞こえたかどうか。
 政府が名付けた『秘宝の里』は、侵入者の刀剣男士に対し罠が無数張り巡らされている。当たれば一撃で戦線離脱させられる毒矢に落とし穴。出現する敵も強敵だ。今までの戦場の比ではない。
 堀川自身が秘宝の里の恐ろしさを身を持って知っていたが、あんな恐ろしい里で玉を集める意味とは何なのだろう。

「ねえー主さーん」

 味噌汁と格闘している主に問いかける。

「んー?」
「玉集め、頑張らなきゃだめかな?」
「だめー。新刀剣男士入手の機会なんだから、手を抜いちゃダメ」
「そうですかー」

 予想通りの答えである。主が出陣しろと命を出しているのだから、当たり前のことではある。
 相棒の和泉守兼定は、戦が大好きだ。
 堀川自身も戦は、刀剣の活躍できる戦は好きだ。
 しかし、秘宝の里に関しては普通の戦場とは異なるのだ。
 罠だけではなく通常より強力すぎる敵。

「堀川君は里はあまり好きじゃないのかい?」

 隣でサバを煮込んでいた燭台切光忠が尋ねてきた。

「うーん……。僕はいいけど、兼さんが心配で」
「そんなに心配しなくても、彼は強いんだから大丈夫だよ」
「あっ、そういうことじゃなくて……。あの戦場って特殊だから、怒りながら帰ってきそうで」
「へえ?」

 フライパンの上でくつくつと煮られるサバをつついていた手を止め、燭台切が堀川の方を見る。

「兼さんは短気だから、毒矢とか落とし穴とかにイライラしながら出陣してそうで」
「それは僕でもちょっと嫌かな。彼の為にも、御夕飯おいしく作ってあげようね」
「はいっ」

 堀川の杞憂を燭台切が笑っていなす。


「頑張れー」

 そんな二人の会話を聞きつけた主が、適当に応援する。

「それは料理の話? それとも里の話かい?」
「両方ー」

「堀川君、すっかり魚の捌き方が上手になったね」

 作業を中断した主が堀川の背後から顔を出す。にこにこと機嫌よく堀川の包丁さばきを見ている。

「主、サボっちゃだめだよ。持ち場に戻って」

 堀川の隣でフライパンからサバを皿に移していた燭台切が、主をたしなめる。

「ちょっとだけだから! 私、堀川君が料理しているのを見るのが好きなんだ」
「ノロケ話はおなかいっぱいだよ」
「えー」

 燭台切のからかいに、堀川は戸惑う。まだ“そういう関係”になったばかりで、言及されるとどうにも照れてしまうのだ。

「そ、そんなのじゃないですよ! もう、主さん、早く自分の仕事に戻って! お味噌汁が煮立っちゃいます」
「はいはい、おっと」

 主が持ち場の鍋に戻る。煮立ちそうになっていた鍋を見て、慌てて弱火にする。
 そんな主に、堀川はくすりと笑みを浮かべる。ちょっと抜けたところが、いかにも主らしかったからだ。

 少し抜けたところはあっても主は主。曲者揃いの刀剣男士達を取りまとめるしっかりした一面もある。
 だが、そんな主も、堀川と二人きりになれば、別人のように甘えてくれる。思ったよりも本丸運営に迷いがあるようで、あの時ああしていれば、と後悔することが多いようだ。寝室や万屋の一角にある出合茶屋で逢瀬を交わすと、そうやって本音を呟いてくれたり、人目を気にすることなく、堀川に甘えてくれる。

 それが堀川にとって嬉しく、そしてくすぐったい。

 ふと視線を外すと、目の前の窓から朱色に染まり始めた空が見えた。秋の空はとても高い。手など届きそうにないほど。
 魚の鱗のぬめりけも、秋の空の高さも、きっと人の身を得なければ、今の主に出会わなければ、実感することはなかっただろう。
 刀には刀の本分があり、感性がある。
 ただそれが人とは少し違うと言うだけだ。

 しかし刀だからこそわかることもあるように、人の身を持って初めて感じられることもある。
 秋の空の高さや日々の営みの温かさを教えてくれたのは、今の主だ。

 主と過ごす何気ない日常を、そして主を、堀川は心から愛している。



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2020年5月5日

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