空色の夢に溺れる

 二千二百五年四月上旬。
 私は政府に招集され、審神者という職業の就任式に、首都の大学へやってきていた。
 政府が就任式のために貸し切っている大講堂には、何百人もの人々が集まっている。
 性別も年齢もばらばらだが、「これから審神者になって戦地へ赴く」という共通点があった。
 皆一様に緊張した面持ちで周囲の様子を窺っている。

 当たり前だ。
 政府から審神者になるよう召集令状が届いた皆にとっては、本当に寝耳に水だったらしい。
 突如現れた歴史修正主義者を打倒するため、政府が極秘裏にプロジェクトが発動しているという噂話は耳に入っていた。

 だが所詮噂は噂。
 歴史という実態のない物への攻撃なんて言われても、今一つピンとこないし、そんなものにどう対抗するのかと思っていた。
 つまり政府の上層部を除けば、私達のような一般人には一種の都市伝説のように遠い話が、いきなり自分にとって関わりのある物になっているのだから、驚くのも無理はない。

 私の元には二月上旬にいきなり政府から物々しい令状が届いた。
  審神者になった場合、副業を認められていないことから現在の勤め先を退職しなければならないため、大昔の世界大戦時に送られた召集令状の通称と同じ、赤紙などと呼ばれていたが、実物は赤くなかった。
 とはいえ、審神者になるためには様々な審査にパスしなければならないため、必ずしも令状を送られた人間全てが審神者になれるわけではないのだが。

 本日の説明会は審神者候補生全員が大講堂で一斉に説明を受ける一部と、四、五十名に分かれて講義室で受ける二部に分かれているらしい。
 一部の説明会では刀の付喪神に肉体を与えて使役するというオカルトじみた話をされたのだ。
 説明会では厳重な緘口令を敷かれた。

 今聞いた内容を親族含め他言してはならないこと。
 契約書にサインをし、担当者に提出してホールの外へ出る。

 個人情報の取り扱いや審神者職についての注意事項、こちらには政府の許可なく帰還できないことなどを順守した上で任務に当たる旨を書かれていた。
 大講堂で説明を受けても全く審神者になる実感が湧かなかったが、契約書の文面を確認し印鑑を押した瞬間、

「これは大変なことに巻き込まれてしまったぞ」

 という程度にじわじわ現実味を帯びてきた。
 契約書を待機していた担当者に提出すると、その控えと重要と赤で印字された大ぶりな白い封筒を手渡された。
 封筒の左上に鉛筆で『B棟1F第四講義室』と走り書きされている。

「そちらの書類は二部の説明会で使用します。特に契約書の控えは審神者になった後も必要ですので、失くさないようご注意ください」
「わかりました」
「説明会二部は封筒に書かれた講義室で行われます。一時間後の午後二時になりましたら、そこにいらしてください」
「その間は外に出ていてもいいですか?」
「構いません。ですが時間厳守でお願いします」

 受け取った書類一式を持って、大講堂を出る。
 これからより詳細な説明会二部があるそうだが、腕時計を確認するとまだ時間があった。
 政府職員の目がある場所に少し息苦しさを覚えていたから、外に出たかった。

 薄暗い大講堂を出ると、一陣の風が吹き大講堂のかび臭い空気を払う。
 右に目をやると、いくつかの校舎の間を縫うように、左右を桜並木で埋められた広い通りがあった。
 温かい風が通り過ぎる度、桜並木からはらはらと薄紅色の花弁が散っていく。

「綺麗……」

 自然に声が漏れてしまった。
 空色の下に桜の花はとても映える。

 その美しさに気を引かれている内、契約書の控えが攫われてしまった。

「あっ、ちょっと!」

 慌てて書類を追いかける。
 失くすなと再三言われていたのに、今から失くしてはまずい。

 パンプスの踵を響かせながら、慌てて石畳を走る。
 書類を目で追うと、さらに高く舞い上がってコンクリートの壁の奥に滑り込んでしまった。

「ウソッ」

 おろおろと壁を見上げると、『第3プール』と書かれていた。どうやら学生が利用する屋外プールらしい。
 見たところ壁に出入り口はなく、よじ登れるほど壁は低くなかった。

 そんな時である。
 元気なボーイソプラノが響いたのは。

「こんにちは! 何かお困りですか?」

 振り返ると、私と同じくらいの背丈の男の子が立っていた。
 ブレザーの制服を着ている。

 まだ四月になったばかりだというのに、制服姿?

 入学志望者が見学に来ているのだろうか。

 いや、どちらもありえない。
 何故なら今日は政府が審神者の就任式のために、大学全体を貸し切っている。
 外部の人間はおろか大学関係者も立ち入り禁止のはずだ。

 ブレザー姿でこれから成長期が来そうな見た目だが、どこか違和感を覚えた。
 少し癖のある黒い髪から覗く瞳は、空と同じ透き通った空色をしている。そして何故か腰に刀を差していた。

 不思議に思ったが彼の左腕にかかった腕章を見て考え直した。
 白地に政府の紋が朱色で大きく描かれている。
 どうやら彼は政府の関係者らしい。


「随分慌てているみたいですけど、どうしたんですか?」
「実はこの壁の向こうに、大事な書類を落としてしまったんです。あのどうしたら向こうに入れますか?」

 すると男の子は壁を見つめて首をひねる。

「うーん……。ごめんなさい。入り方はわからないんです。でも、僕だったら壁の向こうに行けると思います。取ってきましょうか?」
「取ってくるって、入り方がわからないんだよね。どうやって?」
「この壁を飛び越えるんです」
「ええっ、この高さを?」

 男の子の言葉に目を丸くする。
 どう見ても壁は五メートル以上の高さがあり、とても飛び越えられるものではない。
 脚立を使うならまだしも、壁を取り越えるのはどう考えても無理だ。

「大丈夫ですよ。この程度なら平気です。落としたのは書類だけ?」
「ほ、本当に? えっと書類の控えが一枚だけです」
「わかりました。じゃあちょっと待っててください。いってきまーす」

 朗らかに男の子が手を振り、軽く助走をつけて壁に飛びついた。
 驚いたことに少年は壁に足を付け、ぐっと力を入れるとそのまま何の足掛かりもないにも関わらず、ぴょんぴょんと飛び越えていく。
 呆気に取られる私をよそに、彼は猫のように身軽に壁の向こうへと身を翻した。

「すごい……。三段ジャンプなんて初めて見た」

 彼は本当に人間なのだろうか?
 政府が極秘裏に作った秘密道具か何かを装備しているのだろうか。

 そんな夢物語のようなことをぐるぐる考え込んでいる内に、男の子が壁をよじ登ってきた。

「今見てきました! 書類が一枚ありましたけど、これで全部ですか?」
「そうです! ありがとう、気を付けて、下り……てね……」

 私が頷き返した途端、男の子は何メートルもある壁のてっぺんから一息に降り立った。
 呆気に取られる私をよそに、「見つかってよかったですね」と爽やかに笑う男の子を不躾ながらじろじろ見てしまう。

「どうかしましたか?」

 空色の瞳がきょとんと私に問いかける。
 どうかしたどころではない。

「あんなに高い所から上り下りして、大丈夫だった?」
「ええ、大丈夫です。こう見えて、身体は丈夫みたいなんです」
「みたい?」
「僕、こちらに来たばかりなので、まだ勝手がわからないんですよ。でも、普通の人間よりも丈夫だし、身体能力も高いって聞いてます」

 普通の人間より、という言葉。
 そして自分のことを他人のように語る口調に違和感を覚える。
 もしやと思い、彼を改めて見つめる。

 くりくりした柔和な目に浮かぶ、透き通った空と同じ色をした瞳。
 一見ブレザーの学生服のようだが、妙な装飾を施された服装。
 もしや彼は……。

 私が男の子に目をやった時、ちょうど男の子も私を見ていたようで同時に互いの視線がかち合う。
 先に口を開いたのは、男の子の方だった。

「もしかして、あなたは今度審神者になる人ですか」
「そうです。あなたは……」
「僕は審神者の皆さんに仕える予定の付喪神です。よろしくお願いしまーす!」
「ごっ、申し訳ありません。神様だったのですね。失礼いたしましたっ!!」

 深々と頭を下げると、あははと朗らかに神様が笑った。

「そんなに畏まらなくても大丈夫ですよ! あなたはちゃんと僕を神と見てくれるんですから、それだけでも嬉しいです!」

 恐る恐る顔を上げると、おかしそうに目を細める神様の顔があった。

「あなたは、というと?」
「実はさっき変な人達に絡まれてしまって、少し困ったんですよ。どうも僕を人間の子供と勘違いしたみたいで」
「そうだったんですか。それにしても驚きました。こんなに若い神様がいるなんて」
「若い……? ああ、見た目の話ですね。こう見えて、あなたより大分年上なんですよ! それに見た目が僕より若い、ううん、幼い神様もいるけど、彼らはもっと長い年月を経た神ということを忘れないでくださいね」
「は、はい」
「だからって変に怖がらなくていいんですって! あなたは僕に敬意を払って接してくれているんですから、それだけで十分です。はい、書類。失くさないように気を付けてくださいね」
「本当にありがとうございました」

 書類を受け取る。確かに私の失くした控えだった。
 地べたに落ちたようだが、目立った汚れもなくホッとした。
 説明会二部で提出する書類も無事見つかって、本当によかった。

 安堵する私に、神様が空色の目を細めて真剣な面持ちになる。受け取った控えの右下、私の氏名がカーボン紙で写された箇所をトン、と指で示した。

「もう一つ忠告です。僕達に名前の分かるものをあまり見せない方がいいですよ」
「どうして?」
「名前は大事な物なんです。貴方達が契約に名前を使うように、僕らも名前を使って契約します。でも僕達は名前だけで危害を加えることはできないんだけど、念のために用心してくださいね」

 彼の目は真剣そのものだった。
 先ほどまでの外見相応のあどけなさが失せた表情と、底冷えするような空色の瞳に背筋が泡立つのを感じた。

「ご丁寧にありがとう。もうこういうことが起こらないよう、気を付けます」

 彼にお礼を言うと、、すぐに彼は緊張を解いてにこりと笑みを浮かべてみせる。

「そうそう。これから説明会二部が始まりますよ。もう行かなくていいんですか?」
「そうでした。私、先に戻りますね」
「いってらっしゃい。もう大事な書類を失くしちゃだめですよ!」

 弾んだ声が私の背中を叩く。
 振り返ると、彼が弾けんばかりの笑顔で手を振っていた。
 私も手を振り返し、説明会の会場に向かった。

 最初は全く想像もつかない環境に放り込まれる事態に、漠然と不安があった。
 けれどそんな不安も、朗らかな神様に出会ったことで、溶けてしまった。
 彼のような神様だったら、きっと上手くやっていける。
 ほんの少し、胸の不安が氷解したような、温かいものが流れ込んでくるような気がした。

 いくつもある建物からB棟を探し、第四講義室と札のかかった部屋にたどり着く。
 講義室の前に先程の神様と同じ腕章をした人が、「B棟一階第四講義室はこちらです。座席の指定はありませんので、空いている場所から詰めてお座りください」と案内していた。

 椅子と長机がいくつも並べられた部屋に入り、適当な席につく。
 講義室の前方にはマイクの備え付けられている教壇と横長のホワイトボードがあった。
 ここで日々学生達が抗議を受けているのだろう。
 普通のオフィスにある会議室とは違った空気に、どこか懐かしさと新鮮な気持ちが入り混じる。

 座席には『審神者に就任される皆様へ』という冊子が置かれていた。
 手持無沙汰だった私は、その冊子をパラパラと斜め読みした。
 審神者への挨拶文が書かれ、審神者としての心得だとか先ほどかかされた契約書と同じような内容がずらずらと書かれている。

 そこからしばらくめくっていくと、刀剣男士達について書かれたページにぶつかった。
 彼らには種類があり、短刀、脇差、打刀、太刀、大太刀、薙刀、槍とある。

 先ほど出会った優しい神様は誰なんだろう……と思い、ページをめくっているとキィイインとマイクのハウリング音が届いた。
 音源をたどると、前方の教壇で何人かがマイクを調整していたようだ。
 その内の一人は何と先ほど出会った神様だった。
 壇上で黒いマイクの角度や電源を操作していたが、彼は私の視線に気付くと、悪戯っぽく片目を瞑る。

 やっと調整できたらしいマイクを手に、何度か小さくあ、あ、と呟く。
 調子を整えた神様がうんと頷くと、部屋中の審神者候補者達をぐるりと見回した。
 空色の瞳が私達ひとりひとりの顔を見つめる。
 そして彼は丁寧に腰を折って、私達にお辞儀をした。
 釣られて私もお辞儀を返すと、周囲の人達もぺこりと頭を下げる。
 全員の頭が上がるのを待ってから、神様はマイクに口を寄せた。

『こんにちはっ! 皆さん初めまして。審神者候補生の説明会の司会進行を務める堀川国広と言います。刀種は脇差の付喪神です。今日はよろしくお願いしまーす!』

 彼と同じ年頃の男の子でも、ここまで元気で爽やかな挨拶をする少年はいないのではないだろうか。
 呆気に取られる会場をよそに、堀川国広という名前の神様は、隣にいた長い髪を一つにまとめた少年にマイクを譲った。

『こんにちは! 俺は鯰尾藤四郎。堀川と同じく脇差の付喪神です。今日のお役目は司会補佐。わからないことがあったらじゃんじゃん質問してくださいね!』

 快活に挨拶する神様達に、会場の審神者候補生達は自然と拍手を送った。

 神様はもっと尊大で怖い人達だと思っていたが、堀川国広に限らずフレンドリーな神様は少なからず存在するらしい。
 司会役を務める二人を見て会場全体の空気が和やかになったのが、はっきりと感じ取れた。
 きっと私だけでなく、この場にいる全員が、歴史という目に見えないものを守るために、刀の付喪神と共に戦えと言われて、緊張していたのだ。
 壇上では再びマイクを堀川国広が携え、手元のメモを見ながら説明会を始める。

『ではまず、皆さんの座席に審神者に就任される皆様へというシラバスがあると思います。ない方は挙手をお願いします! それと一部の説明会で受け取った書類も用意してください』
『周りにいる職員さんに言ってくれれば、すぐに持っていきます。俺と同じ腕章をしてる人に声をかけてください! 書類なくしたーってうっかりさんも言ってくださいね!』

 神様達の声に、慌てて足元の鞄から書類を引っ張り出す。
 書類の端には、桜の花びらがくっついていた。
 まるで神様と私の出会いの残滓のようだった。







 ガッという音と右肘にかかった鈍い衝撃で目が覚めた。
 私の肘が座卓からずれた音だったらしい。
 目の前には先ほど第一部隊から受け取った戦果をまとめた報告書と、遠征部隊が提出してくれた資源の増減に関する報告書。
 そして見慣れた和室と使いっぱなしにしていた硯と筆。

 決して審神者就任式の説明会会場ではない。
 私が主として運営している、見慣れた本丸の執務室だ。

「あー……」

 どうやら仕事中にうっかり眠って、夢を見ていたようだ。

 春の本丸は今日も暖かい。
 特に今日のようにうららかな日は、どうしても眠気の誘惑に負けてしまう。
 気温が高いため、執務室の障子を解放していると、庭の方からちらほらと桜の花弁が迷い込んできていた。
 先ほど遠征部隊、出陣部隊共に帰還した。負傷者は手入れ部屋に入っているため、本日の業務は終了だ。
 そう、出陣部隊が提出してくれた戦果報告を元に政府への報告書を作りさえすれば。

 あと少しで仕事が終わると分かっていても、春眠暁を覚えず。
 もう一度欲求の赴くままに、夢の世界へ飛び立ちたいが、そうもいかない。
 何故なら私の近侍は──。

 とたとたとせっかちな足音が廊下から聞こえてきた。
 やはり来たか。私の近侍が。
 半開きだった障子を軽快に開けて、近侍の堀川国広が執務室に入ってきた。
 手にはお盆を持っている。

「主さん! そろそろおやつの時間ですよ、お仕事終わりましたか?」
「あー……」

 まだ眠気の冷めやらぬ状態では、堀川の元気溌剌な声に上手く反応できず、頭を掻いてごまかそうとした。
 が、当然そんなごまかしが彼にきくはずもなく、卓上に放置された書きかけの書類を目ざとく見つけてられてしまう。

「あーっ、また仕事終わってないじゃないですか! だらだら仕事してたらいつまでも終わりませんよ」
「ごめん、つい……」
「主さん、ほっぺに書類の跡が……」
「ええ、嘘……」

 堀川の短く切りそろえられた爪が、つっと頬のラインをなぞる。
 よだれの跡ならまだしも、書類の跡は当分消えそうにない。
 慌てて堀川の視線から逃げようと顔をそらす。
 結果的に手を避けられた堀川は、きょとんと毒気を抜かれた顔をしたが、すぐに腰に手を当ててむっと口を引き結ぶ。
 私を叱る時のポーズだが、もちろん本気で怒っているわけではないことはわかっている。

「つい、じゃないです。ほら、僕も手伝いますから、早く仕事終わらせて一緒におやつ食べましょう」
「今日のおやつは何?」
「今が季節の桜餅です。関東風ですよ。主さん、好きでしょ?」

 堀川がお盆を傾けて、私に今日のおやつを見せてくれた。
 美濃焼の小皿の上に、濃い緑色の葉で巻かれた桜餅が二つ、慎ましく飾り付けされていた。

「大好き! 頑張って仕事終わらせるね!」

 堀川の持ってきたアメにつられて、眠気が吹き飛んだ。
 筆を再び手に取り、もう一度仕事に向かう。
 うっかり眠る前に書類を七割方済ませておいてよかった。
 比較的スムーズに仕事を終われそうだ。

 桜餅に思いを馳せつつ仕事に取り掛かる私を尻目に、堀川は卓上の電気ケトルのスイッチを入れ、お湯を沸かす。
 お茶の準備をしてくれているのだろう。
 そしてお湯が沸騰する頃には、私も仕事を無事終了させることができたのだった。

「終わった! 終わったよ、堀川!」
「はいはーい。お疲れ様です、主さん! だから、名前見えちゃいます!」

 お茶を持ってきた堀川が、私の手元を見て表情を変える。
 慌てた様子で書類を裏返す堀川を横目に、私は既に桜餅に手を伸ばしていた。

「あらあら」
「あっ、もう、行儀が悪いです! ……そんなことより、いいですか主さん。名前は大事な物なんですよ。そうやって軽率に僕らに見せたらだめです!」

 真剣に私を叱る堀川にデジャブを感じ、思わず笑ってしまう。
 まるで夢の中から桜の下で出会った空色の目をした神様が出てきたようだ。
 もちろんあの神様は政府所有の付喪神で、今目の前にいる堀川国広とは全く違う。
 目の前にいる 堀川はあくまで私の 堀川で、風に攫われた契約書控えを取りに走ってくれた彼ではない。

 あの桜並木での出会いを知らない 堀川は、眉をひそめて私を睨んだ。
 弁明次第では、本格お説教コースも辞さないぞ、と目が訴えている。

「何がおかしいんですか?」
「ごめん、ごめん。実は……」

 私はせっかく真剣に叱ってくれている堀川に、審神者就任式での出会いを語った。
 手の届かない場所に大事な書類を落としてしまったこと。
 その時偶然出会った親切な神様に、書類を拾ってもらえたこと。
 自分の氏名を大事にしなさいと忠告されたこと。

 桜餅と堀川の淹れてくれた緑茶をおいしくいただきながら、ひとしきり話した。

「そんなことが……。主さんは審神者になる前からおっちょこちょいだったんですね」
「しみじみと言わないで。否定できないから。すごく親切で優しかった神様が、まさかこんなに口煩いとは思わなかった」
「主さんがてきぱき動いてくれれば、僕だってその神様みたいに優しくなれるんですよ」
「ごめんなさい、いつもお世話焼いてくれてありがとー」
「はいはい。主さんってば、もう」

 呆れ顔で苦笑する堀川に、以前から気になっていたことを何気なく尋ねる。

「ところでその神様にも私の名前を教えたらいけないって言われたんだけど、そんなにまずいの?」

 私の問いかけに 堀川が宙を見上げうーんと唸る。

「僕ら付喪神はあくまで神の末席だから、名前を知ったからってすぐどうこうできるほどの力はないはずです。でも、用心するに越したことはありません」
「用心って何の用心?」
「それは……主さんは付喪神に神隠しされた審神者の噂、聞いたことがないですか?」
「ある。て言ってもあくまで噂でしょ?」
「だから主さんがそうやって無防備だから、付け入る隙を与えちゃうんですよ。いいんですか? 僕だってこう見えて.なんですよ」

 堀川が正座したまま私ににじり寄る。
 そのまま私の耳に唇を寄せた。

「そんなに僕を侮ってると、攫ってしまいますよ。 なまえさん」

 背筋にぞっとするほど冷たい汗が這うのを感じた。
 目の前の堀川が呼んだのは、間違いなく私の本名だったのだ。
 猫のように細められた彼の瞳は、桜並木の下で神様が見せたのと同じ色をしていた。

 このまま私は、堀川に攫われてしまうのではないか。
 でも彼自身が言っていたはずだ。
 僕たちは名前だけで危害を加えることはできないと。

 けれど今の堀川は既に練度が上限に達している。
 かつては他の神より力がないとしても、最高練度に達した彼なら、本当に名前だけで神隠しを実行できるのではないか?

 暫しにらみあった後、堀川がふっと緊張を解いて笑った。

「もし、僕と『死んでも一緒になりたい』と思うなら、言ってくださいね」
「え?」
「僕は本気ですからね、主さん」

 ふふ、と意味深に笑って堀川は手早く皿と茶碗をお盆に載せて、出ていってしまった。
 彼が出ていった後、障子の隙間からひらりと桜の花弁が迷い込んできたのだった。

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