明治三十四年秋──。
とある民家。
障子を開け放った和室に、老女が一人、過去を追想する。
鏡台の引き出しを探り、細長い箱を取り出す。
中には清潔な白い布に包まれた緋色のタイがあった。
かつてこの国に、壬生狼と呼ばれ恐れられた組織があった。
ならず者の人斬り集団と言われていた彼らの正式名称は『新選組』。
江戸幕府が終焉を迎えても尚、新選組は名前と統領を変えて新政府と戦い、そして敗れた。
未だに悪名高い彼らではあるけれど、老女は新選組に救われたのだ。
箱の中に収まったタイを壊れ物のようにそっと指で撫ぜ、老女は思い返す──。
まだ老女が少女と呼ばれるほど、幼かった頃のことを。
当時、少女は京に住んでいた。
とある料亭で働いていた少女の母が、食事を届けるために家からほど近いお屋敷へ向かうと朝の早い時間に聞かされた。
まだ寒さの残る頃で、起きるのをぐずついたおかげで、眠気がまとわりついた状態でもそもそと箸を動かしていた。
それ以外にも母は色々言っていた。最近は物騒だから遅くまで出歩いてはいけないとか、用心しなさいとか。けれど半分意識を布団の中に置いてきたような少女には、母がお屋敷に行くということだけが刷り込まれた。
隣で勢いよく麦飯を掻き込む父は、顔を上げて今日の自分の仕事場も同じだと言っていた。
大工をしている父は、立派なお屋敷の屋根が急に壊れたとかで、急に仕事が入ったそうだ。
「それじゃいってくるよ」
「いってらっしゃあい」
身支度を整えた父母が、扉を抜けて出ていった。その頃になって、やっと少女は意識がはっきりしてきた。日が高くなるまでは、母に言いつけられていた家事をした。それが終わったら近所の子と遊んだ。
やがて太陽が傾き始めたと気付いたころには、どっぷりと日が暮れていた。
「ただいま」
粗末な木戸を開けて、少女は家に入る。重い木戸の先には、日の光が届かなくなった暗い家があった。母も父もまだ戻っていなかった。
しん、と静まり返る家に、少女は不安になる。そういえば、朝母がこう言っていた。
「最近は物騒だから気を付けなさい」と。「遅くまで歩いていたら『みぶろ』に食われるよ」と。
みぶろ。さっきまで遊んでいた友達も口々に言っていた。「みぶろは怖い」「人斬り狼って母ちゃんが言っていた」「目を合わせたら食われる」と。
「おかあさん……」
家の中は寒くて暗い。障子越しに入っていた日の光もどんどん心もとなくなっている。
「おかあさん……」
もう一度母を呼ぶ。当然答える者はいない。ぐずと鼻をすすり、袖口で拭いた。
さむい、さびしい、こわい。鼻がつんとする。
そんな時に母の言葉を思い出した。「今日はすぐそこのお屋敷に行ってくるよ」と、確か言っていたはずだ。
そこに行けば母に会える。
そう思うと、少女は居ても立っても居られなくなった。先ほど閉めたばかりの木戸を開け放ち、少女は駆け出した。
一歩進くごとに日が陰っていくような錯覚を覚えるほど、暗さが増していく。
それでも母が傍にいればきっと怖くなくなる。その一心で少女は走った。
「ついたあ」
肩で息をしながら、少女はお屋敷を見上げる。自分の住む家とは比べ物にならないくらいおおきい。その大きな門は閉まっている。
まだ幼い少女は立派なお屋敷としか認識できていなかったが、そこは薩摩藩の藩邸だった。
周りに人の気配はなかったが、それでもお屋敷に母がいると思えば、怖くなかった。少女は大きな門から母が出てくると一途に思いこみ、ぺたんとその場に座り込んだ。
すっかり冷えてしまった掌がじんじんしている。
はぁーと息を吹きかけると、ほんのりと温かくなった。
おかあさん、早く出てこないかな。お父さん、お仕事まだ終わらないの。
父母との再会を待ちながら、ちらちらとお屋敷を見上げる。
そんな少女は、背後に近付く気配に全く気付いていなかった。
「こんなところで何をしているの?」
「!?」
驚いた少女が振り返る。そこには少年が立っていた。
足音はおろか気配さえ感じなかったのに。
その少年は変わった格好をしていた。着物や袴ではなく、まるで異人さんが着るような洋風の服を着ていた。刀を持っていることから、かろうじてお侍さんかなと少女は判断した。
「おにいたちゃん、だれ?」
「僕? 僕はほり……」
少年はそこではっと息を呑み、口に手を当てた。しばらくその姿勢のまま瞳を揺らす少年に、少女は首を傾げる。
「ほり?」
困ったように水色の瞳を彷徨わせ、首を振ると、少年は静かに笑った。
「ああ、ううん。えっと、このお屋敷を警護しているんだ」
しかしそんなことは少女に関係ない。
「おかあさんが」
「おかあさん?」
少年がきょとんと首を傾げる。少女は一つ頷いた。このお兄さんは自分の話を聞いてくれると判断し、少女は続ける。
「このお屋敷でおかあさんが、“おつとめ”、しているから、ここでまっているの」
自分の事情を正直に話して少年を見上げる。しかし少年は顔色を変えた。
「この中で……」
深刻そうな顔でお屋敷と少女を見比べる。
少女の顔が微かに曇る。もしかしたらこの少年に追い払われてしまうかもしれない。今の少女にとって、両親だけが唯一縋れる存在だから、ここにいたい。今すぐ父と母にあいたい。
少女の不安をすぐに察知したらしい。少年はすぐに取り繕うように、にこりと笑ってみせた。
あどけない少女から見ても、愛想笑いだと見抜けるようなものだった。
「もう日が暮れたよ。おうちにお戻り。きっとお母さんもすぐ帰ってくるよ」
予想できる事態に、少女はぶんぶんと首を振る。
「だめなの! 今会いたいの! じゃないとみぶろに食べられちゃう!」
「みぶろに?」
きょとんと眼を見開く少年。すぐに破顔し、少年はひとしきり笑う。
「大丈夫だよ。新選組は君やお母さんを斬ったりはしないよ」
「しんせんぐみ?」
いきなり飛び出た言葉に、少女はきょとんと目を丸くする。
「みぶろの正しい名前さ。あのね、みぶろじゃなくて新選組って呼んであげれば、きっと誰もちょっかいを出さないよ」
「そうなの?」
恐る恐るといった様子で少女が上目遣いで少年を見る。少年は胸を反らして頷いた。少年の言うことは間違いでないと少女は直感で悟った。そして目の前の少年が信頼に足る人物だとも。少女はこくりと頷く。
「わかった。これからは、しんせんぐみって、よぶ」
「きっと隊士の皆も喜ぶよ」
「お兄さんはしんせんぐみの人、なの?」
「ん? ううん、違うよ。……僕は」
少女の問いに少年は意味ありげに頷く。そして、ああそうか。そういう手もあるねとひとりごちていた。一人置き去りにされてしまった少女が首を傾げる。少し経って少女をそっちのけで物思いに耽っていたことに、少年がやっと気付いた。
我に返った少年は、やはりさきほどと同じように、早く家に帰るよう促す。今度はもうみぶろは君を斬らないよと後押しして。
元来た道を振り返った少女は、自分がこれから一人で歩くと思うと、足がすくんだ。
すっかり日が沈み、夜になり始めた裏路地。“みぶろ”とは違う何かに食われてしまいそうだ。
身を竦ませる少女を、少年は困ったなあという仕草で見やる。
「困ったね。僕が送ってあげられればいいんだけど。……ッ!」
少年の柔らかい雰囲気が一変する。浅葱色の瞳を瞬かせ、周囲を見回す。
お屋敷を背にしていた少年は気付くのが遅れた。少女の目には、お屋敷から煙と灰が燃え上がるのを、確かに見た。
「お兄ちゃん、あれ……!」
少女の声に反応し、少年が背後を振り返る。
「ああっ、もう来ていたなんて!」
「お母さんが!」
少女が慌てて門から中に飛び込もうとするのを、すぐに少年が阻んだ。少年は少女の小さな体を抱きとめる。
「今から入ったら君も危ない。君はここで待っていて。僕がお母さんを連れてくるから!」
少年が言った瞬間、少女の背後、左右で、さらに目の前の屋敷から連続して何かが爆ぜる。
ギギ、と太い柱が煙を立てて真っ逆さまにこちらに倒れてくる。
「危ない!」
必死の形相で駆け寄る少年の顔を最後に、少女の意識は途絶えた。
少女は人の話し声で目を覚ました。
おかしいな、と少女は思った。
さっきまで自分は少年と立って話をしていたのに、誰かに抱き上げられている。寝たつもりなんてないのに。
先ほどの少年が、誰か男の人と話しているらしい。
少女は少年に抱きかかえられているので、誰かの顔を見ることができない。
二人共声を荒げていない。
いないのに、二人の気迫が少女を動けなくする。
少年は、怒っていた。
あの火事が起こってしまったこと、人を救えなかったことを、憤っていた。
怖い。少女はそう思う。炎の熱と灰を浴びながら、冷静に、けれど尋常でない様子で会話をする二人が。
何を話しているのかはわからない。
二人とも大声だって出していない。
それでも、少しでも動いたら何かが壊れてしまいそうなくらい、空気が張り詰めていた。
最初は冷静だった少年が、徐々に徐々に声を高くしていく。そのたび少女の体も揺すられる。
少年が何に憤っているのか、何に悲しんでいるのか、難しい話をしていたので少女にはわからない。
話し相手の青年は、激高する少年を留めようと冷静に説得している。それでも、少年の動揺は激しくなる一方だった。
そして、少年は少女の体をそっと地面に下ろした。
「国広ぉおお!!」
話相手の男が激高する。少女は反射的にびくりと体を震わせた。
それに対し、少年は静かな声音で、ただ一言。
「兼さん、やるなら今だよ」
少年の発した声が、空気を弾けさせた。
少女は全神経を耳に集中させていた。
その耳に届くのは──。
火の粉が爆ぜる音。
男の怒号。もう一人、誰かの叫び声。
何かが素早く振り下ろされ、風を叩く音。
こんなにいろんな音が聞こえるのに、少年の声だけ聞こえない。
どれほど怖い時間が経っただろう。
ふ、と少年が笑う気配がした。
「やっぱり、兼さんは優しいね」
少年のどこか嬉しそうで、悲しそうな声を耳にした時、
少女は幼いながら、悟った。
この人を行かせてはいけない。きっと取り返しのつかないことになる。
そうとっさに判断した少女は、今まさに目を覚ましたというように、身じろぎした。
「うっ……」
瞬間、二人の男の間に漂っていた空気は霧散した。
「大丈夫かい?」
少年が少女に駆け寄る。
「うん。おかあさんは……」
「一緒に探しにいこっか」
少年は少女の体に目を走らせる。
小さな擦り傷が頬や膝にできていたが、跡が残るような深いものではないようだった。
「ん」
少年に手を引かれるまま、少女は歩む。
背中にみぶろに、新選組によく似た羽織を着た男の視線を感じながら──。
少年に手を引かれ、少女は歩いた。
少女の着ている粗末な着物は、屋敷の炎上のせいで煤で汚れ、端のほうが破れてしまっている。
そして右頬や膝小僧に擦り傷ができている。足もジンジン痛む。
けれど少年は服にも体にも汚れ一つない。
自分を助けるためにかばってくれたのに。
少女は初めてこの少年の不思議さに気付いた。
「大丈夫かい? 疲れた?」
「ううん……」
もぞもぞと首を振る。
「えらいえらい」
少年がにこりと笑って、少女の頭を撫でる。その優しい手つきに、少女は胸がじんと温まるのを感じた。
泣こう、泣きたいなんて少しも思っていなかったのに、少女の目からぽろぽろと大粒の涙があふれる。
「ところで君、お名前は?」
「……なまえ」
「なまえか。いい名だね。なまえ、怖かったね。頑張ったね。でも、もう大丈夫だよ。僕が守るから。なまえのお母さんも……」
少年の言葉がふつりと途切れる。
少女の足を見ていた。その脛は倒れてきた柱のささくれがかすって、切り傷ができていた。
「足も怪我しちゃってるね。僕の背中におぶさって。この方が楽だよ」
少年の背に少女がおぶさる。少年は軽々とした動作で立ち上がった。
「もしかしたら入れ違いで帰ったのかもしれないね。おうちの方に戻ってみようか」
「うんっ」
少年が無理をして明るくふるまっているのは、少女も感じ取っていた。だから自分も泣いてばかりはいられない。明るくしてあげなきゃと思ったのだ。
すっかり夜も深くなった頃、父母の亡骸がお屋敷の焼け跡から見つかったと聞いた。
少女は引き上げられた父母を前に、途方に暮れていた。
死というものもよくわからない幼い頃。
母が二度と自分を叱ったり、父が笑ったりすることがないということがよくわからなかった。
そして、そんな様子の少女の背を、少年は痛ましそうに目を細め、静かに撫でた。
その後のことを、少女はよく覚えていない。
ただ、身寄りをなくした少女は、近隣の者達に育てられることになったらしいというのは、気配で感じた。
亡骸を一旦少女の家に安置してから、近隣の者達が様子伺いにやってきた。
少女は父母の前から動けずにいるのに、周囲は目まぐるしく動く。
「大丈夫よ。この子は私らで育てますから」
と、少女とも顔見知りの女性が少年に声をかけても、少年の表情は一向に晴れなかった。
「これ、なまえの生活の足しにしてあげてください」
そう言って、彼は懐から小さな布袋取り出す。金属の合わさる少し重い音が、少女の耳に届いた。
一家族がつましく暮らせば二月は持つような、決して少なくない額だったと、後に少女は聞いた。
一通り話が終わる頃には、少女はうつらうつらとし始めていた。
少女に気付いた少年は、そっと少女を抱える。
それを合図に、井戸端会議は終わった。
最後の一人を見送ってから、少年は粗末な木戸をそっと閉める。
「おにいちゃん」
振り返った少年に少女が声をかける。
「たすけてくれて、ありがとう」
その言葉は本心からだった。
あの柱が自分に倒れてきた時、身を挺して守ってくれた少年。
火事の中一緒に歩いて両親を探してくれた。
だから、この人は私を助けてくれた。
幼いながらも少女はそう思った。
しかし、その言葉を聞いた少年は一拍置いて顔を下に向ける。
「おにいちゃん?」
「なまえのお父さんとお母さん、守れなくて、ごめんね……」
少女は困惑した。助けてくれたお礼を言ったのに、謝られてしまった。
おにいちゃんが悪いわけじゃないのに。
と。
少年が耳に着けている小さな耳飾り、少女の目に入った。
「おにいちゃんがつけてる耳のそれ」
「ん?」
「きれーだね」
耳飾りに手を伸ばし、指先が触れた瞬間少年は息を呑んだ。
しばらく宙を彷徨っていた少年の手は、耳を離れて胸元に。
シュルリと音を立てて、胸元のリボンを解いた。
「これ、お守りにあげるね。僕の加護なんて、どこまで通じるかわからないけど」
「おまも、り?」
「うん。君がもう悲しい思いをしないように」
少年が少女の手に、今しがた解いたばかりのタイをそっと乗せる。
とはいえ、少女はタイを知らない。
つるつると不思議な手触りのそれを、寝ぼけ眼で見つめる。
少女の小さな手のひらを、少年の手が包み込む。
少年に目をやると、少女の目の前で目を閉じていた。何故そんなことをしているのか、少女にはよくわからない。
けれど、静かに祈りをささげる少年の顔に、少女は見惚れていた。
この人が、わたしの命を助けてくれたんだ。
「なに、してたの?」
「お祈りだよ。このタイに、君を守ってねって力を込めたんだ」
「力?」
「そうだよ。僕は戦いの神様なんだ!」
そう言って笑った少年の顔を、少女は生涯忘れることはなかった。
彼があの戦争でどうなったのか、老女にはわからない。
あれから助けてくれた少年がどうなったかを、方々に聞いて回った。
しかし幕府の終焉に新政府の立ち上がり。そして北上する戦線。極めて慌ただしい時期のことだから、詳しいことは何も判らなかった。
かつて新選組に在籍していた者、その親族は、皆貝のように口を閉ざす。
新選組は政府や国に歯向かう逆賊として、忌避されていたからだ。
その上少年の名前も、彼が新選組のどの組に所属していたのかさえわからない状態では、聞き取りさえ困難だった。
ただ一言、礼が言いたかった。あなたのおかげで私は今もこうして生きていますよと。
幾度も戦火に巻き込まれたけれど、焼け出されず元気にやってきましたよと。
そして、またあなたに会えることをずっと楽しみにしていますよ、と。
老女が懐かしむ少年の面影は、今もあの頃の幼さの残る姿のまま。
風が吹き、老婆の白髪交じりの髪を揺らす。
木々の葉音に気を取られ、老婆が目をやった先には、二本だけ寄り添うように植わった彼岸花が、緋色の花を咲かせていた。
緋色の残滓 了
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