君と集める夏の思ひ出

 空から厚い雲が去り、ようやく長雨の季節が終わりを告げた。
 初夏の頃に比べ、空の青さに深みが増し、入道雲との陰影がくっきりしている。
 肌を焼く日差しは、眩しさよりも痛みに近い。本丸は夏真っ盛りだ。

 朝早く、小鳥のさえずりが聞こえ始めた頃に、本丸は騒がしくなる。
 ある者は日課の祈祷を、ある者は畑や厩の見回りを、またある者は早朝の稽古をして、宵っ張りの男士もようやく起きた頃に、本丸の大広間で皆が集まり、朝食を取る。
 大広間に集まった面々は、暑いな、暑いねと挨拶代わりに気温の高さを嘆く。
 朝から米を咀嚼することすら億劫になる程、本丸の気温は高まっていた。
「いただきます」

 名前が両手を合わせると、大広間の全員が声を合わせて「いただきます」と言ってから朝食に手を付ける。
 いつも通り食欲旺盛にむさぼる者もいるが、箸のとまりがちな者が目立つ。 普段は雑談で賑やかな大広間のざわめきが、少し控えめだ。
 時折聞こえる声も暑さを嘆く者が多い。
 刀だった時分は、常に温度と湿度を管理された環境に置かれていた刀剣男士にとって、夏の蒸し暑さはさぞや堪えるらしい。

 人の身を得てから、初めて過ごす夏。
 本丸の庭で高らかに咲き誇る向日葵や空の深まる青さと入道雲の対比、蝉時雨、井戸水のうまさ、突発的な雷雨。
 初めて触れる夏の風情、その一つ一つに彼らは嘆息していたが、それ以上に暑さが男士たちの気力を削いだ。

 そんな中、名前の隣席で漬物を咀嚼しているへし切長谷部が、苛立たしげな空気をまとわせ、暑いと声が聞こえるたびに出所を睨みつけている。
 名前には長谷部の咀嚼音が普段よりやや高くせわしないように思え、どうしたものかと自然と箸が止まってしまう。

 先日暑さでばてていた男士たちを叱りつけた長谷部だったが、平素通り上着を羽織り首元までシャツの釦を隙間なく留めている様を、「お前の格好の方が暑苦しい」と揶揄されたことは、記憶に新しい。

 誰もが夏の暑さと湿気に嫌気がさし、疲労と苛立ちを蓄積させていた。
 出陣すれば、皆人が変わったように戦場を縦横無尽に駆け回るが、一たび戦装束を外せば、暑さにへばる。
 過ごしやすい季節は手合せの声が響く剣道場には閑古鳥が鳴き、井戸や木陰で涼しさを求める者、内番作業を露骨に嫌がる者が増えた。

 本丸の主である名前は、士気の下がる現状を良しとは思わなかったが、ただしゃきっとしろと叱咤したところで解決するような問題ではない。
 どうしたものかとここ数日はそればかり考えていた。

 涼しい風が部屋を通り抜け、愛らしい音を立てる。
 名前から少し離れた席に座る歌仙兼定が、その音に目を細めた。
「風流だねえ。こう暑い日が続くと、気持ちが緩んでよくないね。今の世ではどうしているんだい?」

 暑さなど感じてさえいない様子でにこやかに話しかける歌仙だが、首筋にうっすら汗が浮かんでいる。
 暑さ対策と言えば、エアコンや便利グッズが頭に浮かぶが、歌仙の求める答えはそういうことではないと、  名前は短い付き合いの中で知った。
「そうですね。土用の日に鰻を食べるのは今も続いていますよ」
「鰻は主の時代でも食べられているのかい」

 二人の会話に興味を引かれた蜂須賀虎徹が、話題に乗ってきた。
「と言っても、国産の鰻は年々価格が上がっているので、我々庶民は外国産の鰻や鰻の食感と似た魚を食べている人が大半です」
「異国の魚では、輸入する手間を考えるとそちらの方が高そうだが、そうではないのか?」
「外国は日本に比べて物価が安いから、そちらで大量生産した鰻を売りさばくので、国産に比べて原価を抑えられるんだとか。本当の国産鰻と外国産では、味が全く違うそうですよ。
あとは、避暑で言うなら、簾や打ち水、避暑地に赴いたり……。暑さ対策から話がそれますが、お盆の時期だと帰省する人も多いです」
「現代のからくりを除けば、昔と今の避暑はそう変わらないということだね」

 歌仙の言うからくりとはエアコンや扇風機のことである。
「……主も、ご自宅にお戻りになるのですか?」

 名前の隣で漬物を咀嚼していた長谷部が、声をかける。
 普段に比べてやけに静かだが、切実さを孕んだ声音だった。
 途端部屋の話し声や箸の音もぴたりと止んだ。静まり返った部屋を涼やかな風鈴の音色が横切る。
「いえ、その予定はないです。私の自宅はここですので」

 名前がにこやかに答えると、部屋に四十数名の嘆息が一斉に響いた。
 そして何事もなかったかのように皆食事を再開する。
「そう言ってもらえるのは嬉しいけどね、僕らに気を使っているんじゃないだろうね」

 いささか剣呑な空気をまとわせた歌仙が名前に問う。
「気を使う? 何故です」
「審神者になってから、一度も帰省していないんだろう。故郷に帰りたくないのかい?」
「あの、故郷に帰るにしても、今の時期は道も電車も混むので、せめて時期をずらしたいんです。……あ、そうそう混むと言えば、今の時期は海も混んでますね」
「海?」

 慌てて話題を変える名前に、歌仙と蜂須賀の声が重なる。  これ幸いと名前が大げさに頷く。
「そうなんですよ。今年も海で泳ぐのが流行していて、各地の海には人が大挙して押し寄せてるとか。帰省ラッシュなんて目ではないくらいの混雑だそうです」
「海で泳ぐのかい」
「はい、水着と言うものを着用して、人は多いですが、皆で沖まで泳いだり、ビーチバレーやスイカ割りに興じるんです。海水を浴びてさぞ涼しくなるそうですよー」

 涼しくなるの言葉に、皆前のめりになって海に興味津々で質問を投げかける。
「海に入れば涼しくなる?」
「水着ってどんなだ?」
 海に注目されたことで、名前はこれ幸いと話題を海に切り替えた。
 これが 名前の本丸で突如発生した、空前の水浴ブームの始まりである。



 夏は海に泳ぎに行く習慣があるという話を名前がぽろっとしてから、本丸では池で水遊びに興じる者が増えた。
 以前ならせいぜい井戸水で行水するか水風呂に入るしかできなかったが、今の流行は海である。
 ただし彼らにとって海はひどく遠い。 本丸に住む刀剣男士たちは、基本的に出陣の際と万屋へ行く時くらいしか、外出の機会が与えられていない。
 誰が池で水遊びをしようと言い出したのか、今となってはわからない。
 万屋で出会った別の本丸の刀剣男士が「自分たちは池で水遊びをして涼んでいる」と言ったことから、それを参考にしたようだ。

 まずは池の鯉を水槽に逃がし、泳げるように整備した。
 海水浴に必要な物は、予算を出し合い万屋であらかた揃えたらしい。水着一式に浮輪、水鉄砲、ビーチボール、果ては大人数用のレジャーシート、パラソル、バーベキューセットなどである。

 見事な日本庭園の池で男士達がはしゃぐ図に、「風流じゃない」と渋面で注意に走る者もいれば、縁側から物悲しい顔でその様子を見る者もいた。堀川国広だ。
 たまたま通りかかった名前が堀川に声をかけ、隣に腰かけた。
「浮かない顔してどうしたの?」
「ああ、いえ、何でもないんです」
「本当? もしかして夏バテかな。熱は測った?」

 そう言いながら名前が堀川の額に手をやろうとすると、堀川は慌てて手を振って立ち上がった。
 心なしか頬が赤らんでいる。
「そうじゃなくて……、海を思い出すと、何だか落ち着かなくて」
「落ち着かない?」
 こくりと頷いて
「『別れ』を連想してしまうから、かな……。皆楽しそうなのに、僕だけ落ち込んじゃって……」
「別れ、ねえ」

 海と別れのイメージを結び付けられず、名前は頬を伝う汗を拭って考え込む。
 名前に応えず、堀川はただ池の方を見やった。視線そのものは池の方角を向いていたが、その瞳は何も映していなかったのかもしれない。
 波打つ池の水面と記憶を重ね、堀川は追想する。

 堀川国広は刀だ。数え切れないほどの死を見てきた。
 その中で二つ、記憶に残る『死』がある。
 舟の上で死亡した新選組隊士の山崎丞と、蝦夷の地で戦死した前の主、彼らの死だ。

 山崎丞は監察つまり間者として攘夷派の懐に潜り込み、新選組に攘夷派志士の情報をいち早く伝え、陰で組織を支えていた隊士だ。
 そんな彼も鳥羽伏見で重傷を負い、江戸に向かうの船上で死亡した。
 彼の死を悼んだ新選組隊士は、紀州沖で彼の遺体を水葬した。亡骸は今なお海に眠っている。
 そして堀川の主である土方歳三は、新選組が事実上消滅した後、旧幕府軍に従軍。
 津軽海峡を渡り蝦夷の地で戦死している。

 武士として戦場で名誉の戦死を遂げた彼らを誇りに思うべきなのだろう。
 けれど、堀川にとって二人の死から海は別れの象徴として、胸の内に潜むようになった。
 幸いというべきか今まで海に触れる機会がなかったため、堀川自身に海が苦手だという自覚がなかった。

 相棒の和泉守兼定は、自分と同じものを見てきたというのに、率先して池で水浴びを楽しんでいるのに、自分だけが楽しげな世界から切り離されてしまったような疎外感。
 本物の海に触れたわけでもないのに、ここまで自分が揺らいでいることに、堀川自身が動揺していた。
 そういった心の機微を、堀川はどう言葉に表していいかわからず、ひとりで抱えこんでいた。

 俯いてしまった堀川の横顔をじっと見つめていた名前は、一つ息を吐いて軽く堀川の肩を撫でる。
「誰だって、苦手なものくらいあるよ」

 肩に触れる手と優しい声音に、堀川が驚き目を見開く。
「そう、なのかな」
「そうだよ。ごめんね、私が余計なこと言ったせいで、嫌なことを思い出させてしまって」
「主さんのせいじゃないですよ! 僕が苦手なものを克服すればいいんです」
「何も無理に海を平気になる必要はないって。暑くても水遊び以外にも涼しくなる方法はいくらでもあるよ。木陰に行くも良し、山に登るも良し、納涼肝試し大会するも良し」
「でも、兼さんが……」
「兼定さん?」

 うわごとのように堀川の唇から漏れた言葉に、名前が背後の池を振り向く。
「もしかして兼定さんが水遊びを楽しんでるのに、国広君が楽しめないから寂しかった?」
「え、あ、えっと……」
「んー。今でこそ夏と言えば海って風潮が強いけど、避暑地や山に行く人だって多いよ。国広君、今度一緒にどこかへ出かけない? 山でも避暑地でも」
「僕と?」
「嫌な思い出があっても、無理に克服することはないよ。代わりにいい思い出をいっぱい作ろう。兼定さんも誘って三人で行こうか。私と国広君と兼定さんの三人で、山を登ったり避暑地を巡ったりするのも楽しそうでいいね」

 驚いて名前を見つめる堀川の瞳は、無垢に輝いている。
 ふと名前からそれた堀川の視線の先には、和泉守兼定の姿があった。注意しに来た歌仙兼定と言い争っている。その様子に堀川は、くすりと笑って目を細めた。
「助手の僕が、落ち込んでちゃだめですよね」
「そうそう。元気が一番だよ」
「ふふ、そうですよね。あ、でも……」

 堀川がそっと名前に耳打ちする。
「旅行は僕と主さんの二人だけで行きましょうね」

 呆気に取られた名前に、堀川が顔を離して元気よく声をかけた。
「主さんとの旅行、楽しみにしてます。山登りだって避暑地だって、どこまでも一緒に行きますから!」
 そう言った堀川の頬が少し上気していたのは、きっと気のせいではないだろう。
「そうだね、私もすっごく楽しみ」
 そして堀川の頬と同じくらい名前の顔が赤らんでいるのは、暑さのせいだけではないだろう。

 唐突に通りの良い声が響く。
「おーい、国広、主殿! あんたらも混ざれよ」
 見ると、池に浸かっている兼定が手を振って、二人を誘っている。その横、池のほとりには呆れ顔で兼定と二人を交互に睨む歌仙の姿があった。

 ばっちり歌仙と目が合った名前は、ほんの少しひるんだが、隣で所在なさげにしている堀川に気付くと、にっと笑いかける。
 名前は躊躇なく堀川の手を取り、兼定に声を返した。
「はーい、国広君、行こ」
「でも僕は」
「どこまでも一緒に行きますって今言ったばかりじゃない。ほらほら」
「主さんだって、着替えなくていいんですか! 水着とか、その」
「大丈夫大丈夫、水に浸からない遊びをすればいいんだし、このまま行くよ!」
「わ、ちょっと」

 強引に堀川の手を引っ張り、名前は池の方まで駆ける。
 池のほとりで歌仙が二人を待ち構えていた。
「こういう騒ぎは今日だけにしてくれよ。何、少し身体を動かせば、憂いも晴れるだろう」
 後は任せる、と名前の耳にひそひそと囁いて、先ほどとは一変し、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべた歌仙が踵を返す。
 すれ違いざまに軽い調子で堀川の肩を叩いた。
 歌仙の意図をくみ取った名前がぱあっと顔を輝かせ、その背に声をかける。
「歌仙さんはどちらに?」
「西瓜と麦茶を用意するんだ。いくら水遊びをしても、日向にいたら喉が渇くだろう?」

 歌仙と名前のやり取りを耳ざとく聞きつけた兼定が、さらに声を張り上げる。
「歌仙、西瓜は丸のままで頼む。この後西瓜割りをするからな。井戸でよーく冷やしておきたまえよ」
「この見事な庭園で西瓜割り。嗚呼、風流じゃない……」
 途端に元の渋面に戻る歌仙。
「西瓜割りは今の季節の風物詩ですよー」
 小声で名前が兼定に便乗する。
「僕がそういうことを言っているわけではないことくらい、君はわかっているだろう!」

 肩を怒らせて今度こそ歌仙は母屋へ戻っていく。
 飛石を渡る足音が少し離れたところに佇む名前の耳に届きそうなほど、迫力のある後ろ姿だった。
「さーてお目付け役の許しも出たことだし、いっちょ楽しむとするか!」
「おー!」

 兼定の言葉を合図に、堀川と名前も景気よく答える。
 兼定の背後で二人が遊びに混ざるのを、今か今かと待つ男士たち。
 降り注ぐ直射日光に、蝉時雨。

 本丸は夏真っ盛りなのだ。

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