幸せの果てにたどり着く 第一話

 ふっと意識が浮上するのを感じ、長谷部は静かに瞼を上げた。長谷部の収められている“箱”の中は、自身の本体である刀を除けば長谷部ともう一人の気配のみが存在した。
 隣の気配にいとおしそうに目を細めて、長谷部は柔らかい声音で語りかけた。
「おはようございます。主、お目覚めですか?」
「んん……」
 主と呼ばれたなまえはかすかにぐずって目をこする。その肩を長谷部がそっと揺すった。
「主、起きてください。朝ですよ」
 しばらく繰り返すと、なまえは目元をこすりながら、身体を起こした。まだ完全に目が覚め切っていないらしく、ぼんやりした目が瞬く。
「ん~。おはよ、はせべ」
「はい、おはようございます、主。まずは身なりを整えましょうか」
「やだ」
「主、今日は博物館内を散策するとおっしゃっていたでしょう? 寝癖がついた状態で外に出るのはいかがなものかと」
「いや!」
 なだめる長谷部をなまえはいやいやと首を振って拒絶する。そんな応酬を二、三回続けてから、ついになまえの癇癪が爆発した。
「わたしそのよびかた、やだって言ってるのに!」
 ぷっくりと頬を膨らませて、なまえは涙目でそっぽを向いた。先日二人で交わした『約束』を、長谷部が忘れてしまっていたことに、なまえは怒っているようだ。
「ああ、失礼致しました。俺が悪かったです。どうかお許しください、なまえ様……」
 長谷部の詫びる間に、なまえの目尻からぽろりと涙がこぼれ落ちた。長谷部が慌てて手袋をつけた指先でなまえの涙を拭い、抱き寄せてあやす。
長谷部がぽんぽんと背中をさすってやると、腕の中から漏れ聞こえるすすり泣きが少しずつ静かになった。
 ようやく嗚咽の収まったなまえが憤然と頬を膨らませ、長谷部の背に腕を回してしがみついてきた。
 全身を使って甘えるなまえを抱えながら、長谷部はゆらゆらと揺れる。
 二人の様子を周囲の者達がくすくすと微笑ましく見守っていた。
「今日は二人でお出かけなのかい?」
 興味本位に話しかけてきた誰かを、長谷部はシッとたしなめる。
 長谷部の関心が自分から別の何かに移ったことを敏感に感じ取ったなまえは、長谷部のストラを掴む手にぎゅうっと力をこめる。
「失礼。お邪魔だったかな。何分ここに入れられている間は退屈でね……。また今度話し相手になっておくれ」
 誰かはすぐに沈黙する。
 今長谷部となまえが存在するのは、国宝・へし切長谷部が保管されている博物館内部の収蔵庫だ。長谷部となまえの意識が覚醒している時、同じく収蔵されている美術品の付喪神が気まぐれに話しかけてくるのだ。
 かつて長谷部は、審神者だったなまえによって召喚された刀の一振りとして尽力していた。
 しかしある事情から長谷部となまえは、永久の時を共に生きることを決意し、結果としてなまえは審神者という職と、ひいては人間としての器を捨てて、長谷部と共に収蔵庫に収められている『へし切長谷部』を依代に存在している。
 世間的に言えば長谷部がなまえを『神隠し』したことになっているらしいが、二人にとっては些末なことだ。二人が共にいられることを望んだら、たまたまこういう結果になっただけのことなのだから。
「主」
 長谷部がそっと腕の中のなまえに呼びかけると、当のなまえはもぞもぞと動いて不満そうに上目遣いで長谷部を睨みつける。
「……その呼び方、やなの」
「存じ上げています」
「ちゃんと、なまえってよんで」
「はい、努力します」
「はせべのいじわる」
 ぽすっと握りこぶしで長谷部の胸板を叩いた。戯れに叩いたものなので、全く痛くはない。
 もしなまえが全力を出したとしても、鍛え上げられた長谷部の胸板はびくともしないだろうが。
 長谷部がからかうせいでまだふくれっ面だが、少しだけなまえの機嫌は直ってきたようだ。
「なまえ様、まずは御髪を整えましょうか」
 長谷部が懐から櫛を取り出すと、なまえはおとなしく長谷部に背を向けた。
「本日の髪型はどうしましょうか?」
「長谷部がすきなのにして」
「仰せの通りに」
 髪を傷めないように片手を沿えながら、丁寧な手つきでなまえの髪に櫛を通す。まだ頬をふくらませてはいたが、なまえは長谷部に身を任せる。いずれ長谷部の手つきの心地よさに、目を細めて機嫌を直すだろう。
 空調の音にかき消されるほど静かな櫛通りの音が二人の耳にだけ届くこの瞬間、確かに幸福を感じていた。



 身支度が済んだ二人は、手を繋いで箱の外に出た。
 いつも通り空調の立てる音を除けば、どこまでも単調で蛍光灯の消灯された薄暗い景色が目の前に広がっている。
 こつこつと二人分の靴音を立てて、歩く。
 博物館には数百点の美術品が、長谷部達のいるの収蔵庫に保管されている。
 ここ以外にも博物館内に収蔵庫が複数存在するというのだから、相当数に上がる。
 長谷部のように長年の時を経て自我を持った美術品が、「どこに行くんですか?」「いってらっしゃい」「気を付けてね」となまえと長谷部に声をかける。
 声のした方に手を振って笑顔を振りまくなまえの手を、長谷部は一瞬眉間に皺を寄せて引き寄せた。なまえが長谷部以外の存在にお愛想を振り撒くことを長谷部はあまり快く思っていないのだ。
 厳重なセキュリティを施されている分厚い扉も、肉体を持たない二人に意味はない。
 仰々しい扉を前にしても、二人は頓着することなかった。長谷部がするりと扉を抜け出ると、手を引かれるままになまえも続く。

 開館の時間にはまだ遠く、ガラス越しにようやく昇り始めた薄暗い 朝日が見える。
 なまえは頼りない朝日に照らされる博物館の外側に広がる光景をしげしげと眺めていたが、すぐに関心を失ったように視線を長谷部に戻した。
「本日はどちらへ行かれますか?」
「あっち!」
 なまえはおもむろに指を差し、その方向へ長谷部を引っ張る。
「そんなに急いでは転んでしまいますよ」
「はやくしないとお客さんがきちゃう!」
「大丈夫、普通の人間に俺達は見えません」
「それでもやなの! 長谷部のこと、人に見せたくない」
「左様ですか」
 一層力がこもったなまえの手に、長谷部は笑顔を浮かべた。自分に執着されることを、至上の喜びと感じているに違いない。
 以前、なまえが長谷部に神隠しされたことを調査していた政府の役人が、二人の元にやってきたことがあった。
 神隠しされた人間の魂が人の器に戻れた前例はない。神隠しにあったなまえの救助という建前だったが、神隠しされた人間を身体に戻すための実験の材料として、なまえを返還せよと長谷部に迫ったのだ。
 これを長谷部となまえが猛然と拒絶し、それ以降二人を訪れた客人はいない。

 神隠しというと人が神に攫われ行方不明になるという印象が強いだろう。
 しかし、付喪神の行う神隠しは、それとは少し異なる。
 付喪神も神の末席に座す者だが元は妖。さらに言えば元が人の手によって作られた道具という性質から、『人』に強く依存する存在であるため、日本古来より存在する神々のような強い力は持っていない。
 そのため通常の神隠しのように肉体ごと人間を攫うことができず、人の肉体から名と魂だけを取り出し、自身の依代の元へと帰るのだ。
 結果神隠しが行われた場所には、対象者の肉体のみが残される。
 通常の神隠しに比べ、付喪神の神隠しは被害者の肉体が現世に残ることから、被害者の救出が容易に思われていた。
 人の手によって打たれ、武具として振るわれ、丁重に保管されてきた刀は、いつしか自我を持ち始める。そして人の手によって肉体を持って顕現されたのが刀剣男士だ。今の主とは、共に戦った強い絆がある。そのせいで刀剣男士と審神者の魂が強く癒着し、人の器にかえることを拒むのだ。



 なまえに引っ張られるまま、長谷部は歩く。
 と、酒焼けした歌声が長谷部の耳を掠めた。どうやらなまえは、この声をたどって歩いているらしい。長谷部は吐息交じりに問いかける。
「なまえ様、目的地は決まっているのですか?」
「うたってる人のところまで!」
「……かしこまりました」
 主の思うままにと言いたいところだが、長谷部は内心でなまえの関心を別のものにそらしたかった。できることなら長谷部以外の誰にも、なまえを見せたくなかったのだ。
 長谷部が人の子を攫ってきたことは、博物館中に知れ渡っていることだろう。
 しかし、実際になまえがどんな人間なのかを知るものは、自分以外いなくていいとさえ思っている。
「主、何故この歌っている不届き者に関心を?」
「だからっそのよびかたやめてってば! えっと、いつも聞こえてたから、なんてうたなのかなって、思って」
「ああ、曲名を知りたかったのですね。『黒田節』と言って、この界隈では有名な民謡です。俺も歌えますよ」
 長谷部が声音を抑えて黒田節を歌い始めると、なまえの視線が長谷部に戻る。なまえの興味をそらせたことに安堵しつつ、目を細めてリズムを取ると、なまえも同じように肩を揺すり始めた。
 長谷部は静かに歌いながらなまえの手を取って、元来た道を戻ろうとする。後ろ歩きでなまえを誘導していた時、声が割り込んできた。
「呑み取る程に呑むならば、これぞまことの黒田節……ってか?」
「だれ!?」
 足音はおろか気配さえ感じさせずに近付いてきた人影に驚いて、なまえが長谷部の手を離し、勢いよく振り返った。
 ふたりの視線の先にいたのは、三名槍がひとつ日本号だった。
「久しぶりだな。お前が歌うなんて珍しいじゃねえか」
「……久しいな」
「だあれ、はせべのおともだち?」
 なまえが長谷部と日本号を交互に見上げながら無邪気に尋ねると、二人の顔が同時にぐしゃりと歪んだ。互いの様子を窺おうと顔を上げた時、自分とほぼ同じ表情をしていたことに気付いて、二人の眉間の皺がより深まった。
「お友達か。そんなにいいもんじゃねえよ、なあ?」
 苦笑しながらも挑発的に唇の端を上げる日本号。それに対し、長谷部は皮肉っぽく鼻を鳴らすに留めた。なまえがいる手前、長谷部は努めて平静を保とうとしているのだ。
「おともだちじゃないの?」
 両者の剣呑な空気を察知したなまえが、不安げに長谷部の顔を覗き込む。慌てて長谷部は場の空気を繕うように笑って答えた。
「紹介致します。そちらは日本号。かつて俺と同じ家に仕えた武具の一つですよ」
「よろしくな。ま、同じ博物館に住む者同士、仲良くしようや」
「よろしくね、えっとこっちは長谷部で、わたしは」
「主、もうそろそろお部屋に戻りましょうか」
 自己紹介をしようとしたなまえを長谷部が遮り、手を引こうとする。
「なんでー、ちょっとまってて」
「もう待つのはこりごりです」
「もっと日本号さんと話したい!」
「なまえ様は俺が話し相手では不服とおっしゃるのですか?」
「そうじゃない!」
 ふたりのやり取りを胡乱な目つきで見ていた日本号が口を挟む。
「なんだ、なんだ。別に俺だって取って食ったりはしねえよ。行儀の悪いお前と違ってな」
 日本号が長谷部を揶揄する。
 彼は人の子であるなまえの魂を、長谷部が無理矢理喰らっているのではないか、と言いたいらしい。
 そんな日本号の蔑視を真正面から受け止めた長谷部の目は、完全に据わっていた。
「俺はなまえ様を同意の上でここにお連れした。お前に口出しされる謂れはない」
「フン、そうかい。ならいいがな」
 じりじりと互いの視線がぶつかり合う。互いの武具に手をかけた瞬間、
「あっ、これってもしかしてお酒?」
 場違いなほど高い声が、冷え冷えとした空気を壊した。なまえが身を乗り出して、日本号の腰からぶらさげた徳利を指先でつんつんとさしている。
「おう。アンタもいける口か?」
 ぐいっと酒を煽る仕草をしてみせる日本号に、なまえもつられて手を上げるが、よくわからないという風に笑顔で首を傾げた。
「以前のなまえ様ならそこそこ飲めたが、今はどうだろうな」
 長谷部はなまえの頭をそっと撫でて、密かに怯えていたなまえをなだめる。
 二人の剣呑な空気が引いたことで、安心しきった笑みを浮かべて長谷部の首に腕を回してしがみついた。
 その表情は“なまえの外見年齢に見合わない”、まるで幼子が母親に見せるようなゆるみきった無防備なものだった。
 身体は成熟した女性のなまえが、幼子のように長谷部の首にかじりつく様は、どう見てもちぐはぐ、いや、異常と言っても差し支えないだろう。
 しかし、長谷部はおろか日本号さえも、なまえの異質さを当然のように受け入れている。
「お前は誰が誘っても、酒は呑まなかったな。今日はどうだ?」
 長谷部はちらりとなまえを見てから、日本号に向き直り
「……そうだな。少し頂くとしよう」
「場所を変えるか。こっちにいー場所がある。ついてきなァ」
 日本号が行く先を指で示し、そのまま歩いていく。その背中を見ながら、二人も歩く。
 道中、先ほどの二人を真似て黒田節を口ずさむなまえに、長谷部が歌詞の意味や歌い方を教えた。
「これは俺の唄なんだぜ」
 と自慢げに胸を張る日本号に
「すっごーい! そうなの?」
 と目を光らせるなまえ。
 なまえが一人で黒田節を歌えるようになる頃に、目的の場所へ到着した。

 日本号がふたりを誘ったのは、博物館の中にあるラウンジだった。
 ガラス張りになっている博物館の入り口から、池が一望できる。池は朝日を反射して輝いていた。
 二階に上がる階段の近くには、博物館を回って疲れた観覧者が一休みできるよう、ソファとテーブルがいくつか並べられている。
「わあ、すごい!」
 ガラスに手を押し付けながら、目を瞬かせるなまえの横で
「こんな場所があったのか」
 と長谷部がしげしげとガラス扉越しの池を眺める。
「お前なあ、ここに来て何百年経つと思っているんだ。お前は前から無関心が過ぎる。少しはこの中を見回るのもいい気分転換になるぞ」
 階段の近くにある特等席に腰かけて、日本号はふたりを呼び寄せた。
「おー、ここだ。ここ」
 長谷部となまえがめいめい腰を下ろす。
 日本号が懐から猪口を取り出し、徳利を傾けて酒を注ぐ。日本号がなまえの鼻先につきつけると、酒独特の香りにうっとなまえが顔をしかめた。
「こりゃ駄目だな。お前が飲めよ」
「ああ」
「ではでは、再会を祝ってぇー……」
 乾杯、と三人の声が重なり、二人が御猪口を煽る。長谷部は久し振りに味わった酒に早くも酔いが回ってきたのか、静かに首を振った。
「かぁー、やっぱりいい場所で呑む酒は、うめえな」
「貴様はどこでも呑んでいるだろうが」
「細かいやつだな。今日はべっぴんさんもいるから、酔いが回るのも早いぜ」
 べっぴんさん、と言われたなまえは、はにかんで長谷部のストラを手で弄んでいる。

 面白くない。

 せっかくなまえを褒められたというのに、むかつきが胸の奥底から沸き上がった長谷部は、思い切り杯を煽った。
 眉を寄せて、日本号が問う。
「お前さんの本丸に、俺はいたのか?」
「いいや」
 長谷部は頭を振り、目を閉じた。瞼を開くまでほんの少し時間をかけてから、手の中にある猪口を静かな瞳で眺める。
「俺がこの方をお連れするきっかけになった時は、ちょうどお前を呼び出せるようになってすぐのことだった。残念ながらお前を顕現させる前に、本丸は閉鎖されてしまったが。……その当時もこの方は何故かお前と俺が友人だと思いこんでいて、『長谷部さんの友人を早く呼び出せるといいですね』などと言われて、返事に困ったものだ」
「訂正すりゃいいじゃねえか」
 ぐいと酒を煽り、面白くなさそうに言う日本号。  はは、と軽く笑って長谷部はなまえを見やる。
「なまえ様の顔を見たら、とてもそんなことはできんさ。俺に友人ができることを、心から楽しみにしていらっしゃったんだ」
「どうせまた右府様のことばかり話して、周りから遠巻きにされてたんだろ」
「それもある。俺は主の近侍を務めていて、あまり交流する機会がなかった──いや、多忙を言い訳に同輩との交流を避けていた。元々俺の性質や言動もあって、周りから遠巻きにされていたから、なおのこと、な」
「言動?」
 長谷部の猪口が空になっていることに気付いた日本号が酒を注ぐと、「すまん」と長谷部が受ける。
「貴様なら知っているだろう。長年同じ家にお仕えしたのだから」
「偉そうで鼻持ちならない奴ってか?」
「ああ、そうだ。主の近侍であることと、本丸の中でも古参で練度が抜きんでていた俺は、驕り高ぶっていた。主の前では見せないようにしていたが、同輩にはそういった俺の態度も癇に障ったようだ。主の前では忠臣を気取り、自分達に高圧的に接する俺の印象は、さぞ悪かっただろうな。中には近侍を変えろと進言するものもいたらしい」
「その割に、お前の人当たりが大分まろやかになっているのは気のせいか?」
「そうか? もしそうなら、なまえ様のおかげだな。一度なまえ様に諫められたことがある。人気のない時間を見計らって、なまえ様の自室に呼び出されて、二人きりで話をした。『近侍は私の補佐だけが仕事ではありませんよ』とな。平時なら穏やかな主が、珍しく厳しい顔で俺を見ていらっしゃった」
 平素の落ち着き払った青紫色の瞳に、昔を懐かしむ色がにじむ。
「内密に話がしたいと言うから、色々期待していたのに、蓋を開けたら俺の失態を諫めるための糾弾の場だったんだからな。羞恥で腹を切りたくなった。が、気付いた。主の部屋に呼び出された時、刀は自室に置いてこいと指示されていて、腹は切れないと」
「お前の主君はさぞ慧眼だったんだな。乱心したお前が、何をしでかすかわからんことを見越しての指示だろ、それ」
 そう言って日本号が、無垢に笑うなまえを見やる。視線に気付いたなまえが、こてっと首を傾げる。
「おさけ、おいしい?」
「ああ、酒はうまいぞ。あんたと酌み交わせなくて残念だ。さぞ楽しい宴になっただろうにな。前はそこそこいける口だったんだろ?」
「んふふ。わかんないなあ」
「さっきからあんたの話をしてるんだが、どうだ? 何か覚えてねえか?」
「おい、主に余計なことを聞くな」
 気色ばんだ長谷部がなまえを遠ざけようとしたとき、なまえが笑った。
 ふっと慈悲深くも意味深な笑みだった。
「覚えていますよ、いっぱい」
「おっとお、何を覚えてるのか、俺に教えてくれや」
「な、なまえ様?」
 戸惑う長谷部と身を乗り出す日本号を気に留めた様子もなく、なまえは口を開く。
「長谷部はね、強いし何でもできるのに、友達作るのがすっごく下手だった。わたしが心配して長谷部に声をかけてもね、『主のお傍で仕えていられるのであれば、他は関係ありません』って頓珍漢なこと言うし。長谷部には私以外の人が皆敵に見えてるみたいで、私が仲良くしてあげてねってお願いした子達にも、『何をたくらんでいるんだー』って怒っちゃって、余計本丸の空気を険悪にしちゃうし、本当に困ってたなー」
「な、なまえ様……」
 弱りきった顔の長谷部と対照的に、日本号が豪快に笑い飛ばした。
「はっはっは。いいね、んで、どうしたんだ?」
「んー、一度私がはっきり注意したら、少しずつ長谷部も我慢するようになったよ。でも、やっぱりおともだちができた感じはなかったから、心配だった」
「あんた、さっきからやけにお友達とやらに拘っているが、俺達は戦に駆り出されてるんだぜ。そんな時に友達作りは二の次じゃないか?」
「おい」
「そんなことはないですよ」
 日本号の挑発的な物言いに怯むことなく、なまえは微笑む。以前の記憶を語ったことで、ほんの少し人格が当時のものに戻っているようだ。
「戦っている人には、同じ境遇の者同士でしか共有できない感情があります。私はあくまで審神者で、指揮はしても実際に武器を手に取り戦場に出ることがありません。だから私の手の届かない精神的なケアを、戦場に出る者同士でして頂きたいと思っていました」
「なるほどね。他に理由はあるかい?」
「二つほど」
 軽く咳払いしてから、なまえは続ける。
「近侍とは、私の補佐が主な仕事ですが、それ以外にも色んな仕事を任せたいと考えていました。新しく本丸に加入した刀剣男士の指導、配下の内情の把握──つまり人間関係のいざこざを平定することですね──、本丸の顔になってほしかったんです。というのも、システムの都合上、近侍は本丸の第一部隊の隊長と兼任することになっているんです。だから、第一部隊長を任せていた長谷部さんには、できるだけ他の刀剣男士と円滑な人間関係を築いてほしかったんです」
「第一部隊の長をやってるなら、そりゃ新入りへの気配りだの人間関係だのは重要か」
「はい。それに、近侍は本丸の代表とも言えます。例えば他の本丸と交流する演練では、審神者の私と近侍が応対します。仲間同士での交流が円滑にできない人が、果たして外部の人に近侍としてそつなく対応できるでしょうか」
「なるほど。確かに近侍は外交の面でも大事になってくるものな。それはそうと、近侍の負担がでかい気がするんだが、もう少し仕事を分散させてもいいんじゃねえか?」
「もちろん細々した雑務は、長谷部さん以外の方にお願いしていました。それも長谷部さんは我慢ならなかったようで……」
「主君に関わる仕事は全部俺に任せろって?」
 言葉もなく頷くなまえに、「ありそうなことだな」と日本号が苦笑する。
 日本号がその後を促すと、なまえはちらちらと長谷部を見上げたが、当の本人は背を向けて黙々と酒を流し込んでいた。
 なまえはおろおろと長谷部の肩を叩いたが、
「どうせ拗ねてるんだよ。さ、続きを聞かせてくれや」
 暫くなまえの視線は長谷部の背と日本号のにやけ顔を行ったり来たりしていたが、やがて言葉を紡ぐ。ややおどおどとしながら。
「それにその、とても個人的な事情になってしまいますが、長谷部さんは、『前の主』のことで色々溜め込んでいるようでしたから、そういった込み入った話を忌憚なくできる人がいたらいいと常々思っていました。私が長谷部さんの話を全部聞けるならいいですが、仕事がありますし、本丸には大勢の刀剣男士がいます。長谷部さん一人にだけ時間を割くわけにはいきませんから」
 ぶはっと日本号が堪え切れずに酒を噴き出すのと、長谷部から深い深い溜め息が漏れたのは、ほぼ同時だった。
「結局長谷部さんには、友達と呼べるほど近しい人はいなかったかもしれないけど、でも、わたし、満足して、るよ」
 流暢な喋り方から一変し、なまえの話し方は途端にたどたどしくなる。同時に表情から感じられた年相応の知性がとろけ、次第に幼女のようなあどけないものになった。
「だってね、今日の長谷部は日本号さんとおはなししてすごーくたのしそうにしてるから。わたし、うれしい。長谷部にも、おともだちが、ちゃんといたんだね」
 両手を合わせて、心の底から笑うなまえの言葉に、嘘は何一つなかった。そんななまえに、長谷部は向き直り土下座した。
「至らない臣下で本当に申し訳ありません、なまえ様」
「んーんー、長谷部はいい子」
 のんきに鼻歌を歌って、長谷部の頭を撫でるなまえ。
「自分を攫い人でなくした張本人を、未だに心配し続けてるんだから、けなげなもんだ。おっと、腹は斬るなよ。舌も噛んでくれるなよ」
 黙りこくっている長谷部の異変に気付いた日本号が慌てて長谷部を制止する。
「…………あの日、言われたこととほとんど同じことをまた言われた」
「それだけお前を気に掛けてたんだろ」
 日本号は適当に返しながら、自分の杯に酒を注ぐ。
「それで今はどうなんだ」
 日本号が酒を煽りながら、長谷部に問う。
「今か? 今は──穏やか、だな」
「穏やか?」
「向こうに顕現されていた時は、初めて得た人の身やそれに閉じ込められた感情に翻弄されて、とかく窮屈だった。刀の頃は昔を思い出して辛かったが、人の身に押し込められた感情というのは、厄介だな。制御が効かない。だが、なまえ様をお連れして永久に寄り添えることができることに気付いた時、やっと長かった懊悩の時から解放された気がする」
「黒田家にいた頃は右府様の話ばかりしていたお前が、一人の人間に執着するとは、根っこは変わらないもんだな」
「余計なお世話だ」
「ところでお前、その元主君をどうするつもりだ? 確か大分前に政府の遣いが来ただろう」
「それ以降も何度か妨害があった。だが今は音沙汰がない。静かなものだ」
「かえすつもりはないんだろう?」
「当たり前だ。せっかくなまえ様も納得されて落ち着いた状態だというのに、何を今更。それにお連れしてから随分時間が経った。もはやこの方の肉体も……」
 朽ち果てているか墓に埋葬されているだろうと言いかけた長谷部の脳裏に、最後に現世で見たなまえの姿が掠める。
 真っ白で機械と薬品の匂いしかしない、おおよそ人の気配がしない病室で、苦しそうに呼吸を繰り返す、なまえの姿が。
 長谷部はなまえ本人のいる前で骸の話をするのは、あまりに不謹慎だと思い至ったようだ。皮肉っぽく釣り上げかけた唇を硬直させた長谷部を、日本号が胡乱な目で見下ろす。
「俺達の前の主が生きた時に比べ、時代は変わった。俺やお前が長きに渡って現存し続けていられるのも、技術の進歩の賜物だ。ならば」
 最後まで言いかけた日本号の言葉を、長谷部が継ぐ。
「まだこの方のお身体は、生きているかもしれないな。もしかしたら主の魂が戻られるのを、未だにお待ちかもしれない。だが、俺はそれを望まないし、なまえ様ご自身が望んでいない。だから俺はこの方を手放すつもりはない」
「例え自我が保てなくなってもか?」
「愚問だな」
「そうかい。ま、気が向いたらたまには俺のところにも顔を出せや。たまには酒に付き合え」
「ああ、そうするとしよう」
 日本号と長谷部は静かに杯を交わし、なまえはそんな二人をにこにこと見守るのだった。



「さーけ、は、のーめ、のっめ、のーむならばー……」

 先程日本号と長谷部から教わったばかりの黒田節を機嫌よく歌いながら、なまえは博物館の中を気ままに歩き回る。長谷部と繋いだ手は片時も離さない。
 もしもなまえが幼い子供であればさぞや微笑ましい光景だろうが、妙齢の女性が長谷部の手をぶらぶら振り回し、たどたどしく舌足らずに歌う様は、やはり外見とは不釣り合いでちぐはぐなものだった。
 長谷部はなまえの様子に一切の動揺を見せず、ただただいとおしそうに目を細めて見守っている。

 どれほど楽しい時間だったとしても、終わりとは来るものだ。
 唐突になまえが足を止めたのが合図だった。
「帰らなきゃ」
 呟くなまえの瞳は不安に揺れ、まるで外敵に怯える小動物のように全身を震わせる。振り返ったなまえの顔は、今にも泣き出しそうなくらいしわくちゃに歪んでいた。
 長谷部がそっと背後に目配せする。
 学芸員が開館の準備を始めたらしく、慌ただしい足音が耳に届いた。
 なまえは以前政府の遣いによって、長谷部と引き離されそうになったことがトラウマになってしまっているらしく、人間の気配を感じ取ると過敏に反応してしまうのだ。
「はやく、早く帰らなきゃ! ねえ、長谷部、かえろう」
 不安げに見上げ、かえろう、かえろうと腕を引っ張るなまえを、そっと抱き寄せて長谷部が囁く。
「大丈夫、大丈夫ですよ。誰にも俺となまえ様を離すことなどできません。ゆっくり戻りましょう」
 長谷部が体を離してなまえの前に背を向けて跪く。思惑を理解したなまえが長谷部の背におぶさる。
 危なげない足取りで立ち上がり、なまえを振り落とさないよう、長谷部はゆっくりとした足取りで歩を進めた。
 二人のそばを人間がすり抜けていくたび、なまえは身体を震わせて、怯えた視線を走らせる。
 不安そうに細い息を吐くなまえの背中を、少し無理な体勢で叩いてやりながら、長谷部は黒田節を歌い始めた。
 朗々とした歌声に、次第になまえの表情はほどけていき、とろけた表情で長谷部の背に頬を摺り寄せる。
「あっ」
「どうしました?」
「ごめん、はせべのひも、ほどいちゃった」
 どうやら名前がしがみついた際に、長谷部の背にあるストラの結び目が緩んで解けてしまったらしい。
 もじもじ指を動かして、何とか元の綺麗な蝶々結びに戻そうとしているが、指先が言うことを聞かず、苦戦しているようだ。
「なまえ様、堅結びで結構ですよ。できますか?」
「うっ、できるけど、かっこわるいって、しょくだいきりが言ってたもん」
 自分以外の刀剣のなまえが出た途端、長谷部はなまえに聞こえないように舌打ちした。
 かつてなまえの元で共に戦っていた、眼帯を付けた伊達男の顔が長谷部の脳裏に浮かんだ。
 あの男なら言いそうなことだ。
 確かに堅結びはあまり見た目がよくないが、長谷部にとってはなまえに結んでもらえることが重要なのだ。歪めた表情を即座に溶かして、長谷部はなまえを振り返る。
「格好悪くなどありませんよ。なまえ様に結んでいただけるなら、蝶々結びでも堅結びでも、俺は嬉しいです」
「ほんと? ほどけなくなっちゃうよ?」
「大丈夫です。俺が解きますので、後で蝶々結びの練習をしましょうね」
「うん! 待ってて、いま、するから」
 長谷部に太鼓判をもらい、目をキラキラ輝かせてなまえは遠慮なく堅結びを決行する。背中の紐がこすれるたびに、長谷部はくすぐったそうに目を細めた。
 しばらく待つと、はあっと大げさになまえの吐息が聞こえ、弾んだ小声が返ってきた。
「おわったよっ」
「ありがとうございます。では、戻りましょうか。少し走りますよ」
 背中にしがみつく手に力が込められるのを確認し、長谷部はぐっと踏み込んだ。戦場を縦横無尽に駆け回り、数多の敵を屠ってきた長谷部には、学芸員を避けて走るのはお手の物だ。
 背中のなまえがきゃあきゃあと黄色い声を上げている。
 二人が収蔵庫にたどり着く頃、館内は朝日で照らされ、明るくなっていた。


「たのしかったね」
「ええ、また散歩に行きましょうね」

 長谷部は武装を解除するため、今日は胸元の吉兆結びを解く。背中の紐を見やると、少し歪な結び方をしていた。強引に結んだためか、固くなってしまった結び目を解くのに、難儀する。
 手袋を無造作に放り、改めて結び目に手をやる長谷部の様子を、なまえは興味深げに見ていた。これから長谷部にかっこいい蝶々結びの方法を教わるのを、なまえはうきうきと待っていたが、視界が暗くなったのに気付いた。

 さっき長谷部と戻ってきたときは、あんなに明るかったのに?
 もう夜になったのかと首を傾げたが、なまえの魂が眠りを求めているのだと気付く。瞼を開けるのが億劫になり、こくりこくりと舟をこぎそうになるのを、懸命に堪えた。

 せっかくこれから長谷部が蝶々結びを教えてくれるのに。
 これからもっともっとたのしい時間が続くのに、眠ってしまうなんてもったいない。

 なまえの懸命な努力は、長谷部にすっかりお見通しだったらしい。堅結びを解いた長谷部の手が、なまえの頬に添えられた。
「眠いですか?」
「ううん」
「今日は刺激が多くて、疲れたのかもしれませんね」
「やだ。長谷部にちょうちょむすび、おそわるの」
 なまえが首をふるふる振っても、長谷部はうなずいてくれなかった。
「明日にしましょう。今度は出かける前に主に綺麗な蝶々結びをしてもらってから、出かけましょうね」
「うんっ」
「おやすみなさい、また『あした』ね」
「ええ、また『明日』。どうぞおやすみなさいませ」
 寄り添い合って二人は目を閉じる。手を重ね合い、互いがすぐ傍にいることを確認できるよう。

 人と神の体感時間は全く異なる。
 二人が次に眠りから覚める時は、いつになるのだろうか。
 もしかしたら次の日の出かもしれないし、数か月後、数年後かもしれない。いつかやってくる『明日』を心待ちにして、二人は静かに眠りに就いた。



 主従という神と人の子を隔てていた縛りが消えてしまった。
 結果、なまえを守る最後の砦がなくなり、長谷部がなまえの魂を喰らい始めたのだ。
 神隠しをした後、人の子と神が共存すること自体は可能だ。
 が、主従の枠を破り攫ってしまうほどなまえを想う長谷部にとって、文字通り“食べてしまいたい”、“永久に共にいたい”ほどいとおしいなまえが己の魂の中に存在していたなら、その魂と同化したいという本能に抗うのは極めて困難だ。

 神隠しの実態に気付いたなまえは、当初泣いて反抗した。
 こんなことは望んでいない、どうしてこんなことしたの、ひどい、嫌だ、かえして。

 長谷部に暴言を吐きかける日もあれば、呼びかけに応えず累々と涙を流し続けるだけの日もあった。
 ここまでお連れしてしまったのだから、多少の暴言も致し方なしと思ってはいたが、長谷部の胸は痛んだ。
 自分に当たり散らすなまえも、憔悴するなまえも見ていて辛い。
 時間だけは無限にある。
 だからいつの日か、以前のように心を開いてくれる日が来るのではないか。
 そう楽観視する長谷部と、遠い未来、己の本体が折れるまでなまえに拒絶され続けると絶望する二人の長谷部が、頭の中で喧々諤々言い争いをする。
 そんな日々が続いた。


 しかし、ある日突然昔のように接する日が訪れる。
 てっきり長谷部が無意識の内になまえの魂を喰らってしまったのかと焦ったが、そうではなかった。なまえが自分の意思で長谷部を受け入れたのだ。


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2023年6月4日

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