眠れない主と長谷部の話

 ある晩のことだ。長谷部は入浴を終え、あとは眠るのみとなっていたが、ふと主がどうしているか気になり、執務室へ向かった。虫の知らせだったのだろうか。
 長谷部は仲間と飲み会をした後だったので、時間は午前を回っていた。さすがにもう休んでいるだろうと思った。

 しかし長谷部の予想に反し、執務室に明かりが灯っていた。
 まさかまだ仕事をしておられるのか?
 長谷部の主は真面目な方だ。もしも何か仕事をしておられるなら、手伝って差し上げなければ。
 こんな時間まで仕事をしているようでは明日に差し支える。
「失礼致します。長谷部です」
「……はい」
 障子の向こうから、緩慢な返答があった。やはり主だ。まだ起きておられる。
 障子を開けて入室すると、寝間着に着替えた主がいた。
「主、このようなお時間まで起きておられては、お身体に障ります。仕事でしたら俺が手伝いますので、主はすぐにお休みください」
「いいえ、仕事ならもう終わっています。本を読んでいただけですよ」
 静かな声で応答する主に、長谷部はなすすべもなく立ち尽くす。確かに主の言う通り、文机には一冊の本を除いて、何も置かれてはいない。その分厚い本は、がらんとした文机の上で存在感を放っていた。
 長谷部は伏し目がちな主の顔に、疲労が色濃く残っていることに気が付いてしまった。
「では尚のこと、早くお眠りください。明日も執務が控えておりますから」
「ええ……。長谷部さんが退出したら、私も自室で休みます」
「は……」
 嘘だ。
 主の言葉に頷こうとした長谷部だったが、中途半端なところで首肯が止まった。何のための噓なのか。長谷部は考える。
 仕事が終わり、部屋の後始末が済んでいることは事実のようだ。では何故そうも頑なに長谷部を追い出そうとし、そして眠ろうとしないのか。
 もしや、と長谷部は思い至った。

 主は眠れないのではないか?

 長谷部が勘付くまでに、そう時間はかからなかった。主は何らかの理由により眠ることができず、執務室で時間を潰そうとしているのだ。
「主……」
「何ですか?」
 問いかけに見せかけた、長谷部の退出を促す有無を言わせぬ口調だった。主の静かな瞳が長谷部を見上げるが、どこか虚空を見つめるように視線が定まっていなかった。
「もしも眠れないのでしたら、共寝をお付け致しましょうか?」
 長谷部は声を潜めて、主の様子を伺った。長谷部の言葉に、主はぎくりと身体を
強張らせたが、すぐに元の無表情に戻る。
「それも不要です」 「……何故ですか。眠れないのではありませんか?」
 長谷部の言葉は質問ではなく、確認だった。よくよく主の顔を見れば、目の下にうっすらと隈が浮かんでいるし、頬も心なしかやつれているようだ。そんな状態の主を前に、心配するなという方が無理な話だった。
「無体はさせません。主に少しでもお眠り頂きたく──」
「わかりました、もう寝ます。それでいいですか?」
 主は長谷部の言葉の続きを待たずに、強引に会話を打ち切った。先ほどまで長谷部を見上げていていた瞳は、文机の上の本を見ていた。
 それも嘘だ。
 聡い長谷部は気付いてしまった。きっと主はこのまま寝ずに、一夜を過ごすつもりだ。だからこそ件の本を用意しているのだろうということも。
「主」
「あなたがたにご迷惑は、おかけしません」
 まるで機械人形のように感情の乏しい声で、主は言った。
 そうではないのだ。人はいつか死ぬ。すぐに死ぬ。あっけなく死ぬ。だから己の主には健やかでいてほしい。長谷部はそう願ってやまないからこそ、主を心配しているのだ。
 長谷部は主がこれ以上の会話を拒否していることに気付いた。主は文机の上の本を見たまま、長谷部と目を合わせようとしない。長谷部が退室するまで、ずっとそうしているつもりだ。
 主が何らかの事情で無理をしていることは、長谷部に理解できた。しかしそれまでなのだ。今の長谷部にはどうにもできない。
 長谷部がもっと弁が立てば、共寝に適した小柄な身体であったならば、人懐っこい性格をしていれば。長谷部の脳裏を本丸の連中の顔が、浮かんでは消えていく。長谷部は己の未熟さに歯噛みした。
 結局のところ、臣下にとって主の言い分は絶対なのだ。否と言えば否なのだ。
「承知致しました。どうかご無理をなさいませぬよう……」
 長谷部が何とか言葉を絞り出すと、やっと主が伏せていた顔を上げた。
「はい」
 主が頷いて返す。
「おやすみなさいませ」
 長谷部は首を垂れ、そっと踵を返して部屋を退出した。そして障子を隙間なく合わせた時、
「ごめんなさい」
 今にも泣き出しそうなほど震えた声が、長谷部の耳に届いた。

「主?」

 長谷部が問いかけた時、既に執務室は消灯してしまっていた。主はまだ執務室の中にいる。暗い執務室の中で、主は独り、夜を過ごすのだろう。あの分厚い本を抱えて。泣きそうになりながら、たった独りで。
 これほどの臣下を抱えながら、誰にも頼ることのできない不器用な主が、哀れでならなかった。






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2021年5月23日

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