眠りと微睡

「おやすみなさい、長谷部」
「おやすみなさいませ、主」

 いつも通り日々の業務を終えた主が、最後に俺に挨拶をすると執務室の障子がぴたりと閉じられた。きっとこれから主は入浴され、寝床に就かれるのだろう。
 主の意識が眠りに落ちる瞬間まで、俺が主をお守りできればいいのにと思う。

 眠る度、俺は何度も戦い続けている。夢とは様々な可能性を眠るものに提示する。
 過去の記憶。願望。時には未来。
 脳というものは、あらゆるものを際限なく人の身に見せるらしい。

 俺達付喪神のまどろみは、人のそれとは少し異なる。俺の見る夢は生き地獄と言っても差し支えなかった。
 俺は長政様を忘れるために、何百年と眠り続けた。けれどまどろみはそれを許してはくれなかった。信長に下賜された瞬間、黒田家で過ごす温かい日々、長政様の死去なされた日。それらが常に俺の前で延々と繰り返されるのだ。
 その眠りから起こしてくださったのが、今代の主だった。
 主には感謝してもしきれない。
 小柄な身体で俺たちの日々を支えてくださる主。時に俺が無茶をして泣かせてしまったこともあった。どれほど辛い戦いの中でも、主の笑顔を見られるだけで、俺は幸せだった。俺が主の隣にあることが当たり前になった日、事件が起こった。

『譲れ』
 この本丸に新たに招かれた巴形薙刀なる刀剣と出陣していた時のことだ。戦闘が終了し、弛緩した空気になった場で、巴形が『主の隣を譲れ』と宣ったのだ。
 許せなかった。今の今までこの本丸で、主の傍に仕えていたのは俺だった。だから競争相手など存在しなかった。なのに新参者の、由来さえも朧げな怪しい奴に主の隣を譲るなど、できるはずがない!
 それからの日々は地獄だった。眠りに落ちる度、巴形薙刀と主が結ばれる夢を見るのだ。その度に俺は汗でぐっしょりと濡れながら目を覚ました。
 こんなことは、今までなかった。どれほど新しい刀剣が主の元に呼ばれても、主の近侍は絶対に俺だったのだから──。

「ハッ」
 俺は眼前に広がる光景を、鼻で笑い飛ばした。  また夢を見ている。主と巴形が結ばれて、「長谷部、私達結婚することになったんだ」と主が嬉しそうに告げるのだ。
「まさかこんなところに来てまで、俺を弄ぶとはな。いい度胸だ、巴形」
 今、俺は主の許可を得て、単身で時を遡り、安土に修行へ来ている身分だ。だのにわざわざこんな悪夢を見せに来る巴形の必死さが、哀れに思えた。
「俺はもうまやかしには惑わされんぞ。とっとと消えろ」
 俺は“俺自身”を鞘から引き抜き、降り下ろした。
 一瞬──巴形の驚いた顔が、真っ二つに裂けた。そして奴の隣にいた主が、支えを失ってがくりと膝をついた。
 主の手を取り、両手で捧げ持つ。
「主……、この修行が終わったら、必ず貴方の元へお戻りします。どうか、お待ちください」
 主は戸惑ったご様子だったが、やがて穏やかに微笑んだ。
「ずっと、待ってるからね。長谷部」

 主!

 主に声をかけようとした瞬間、俺は目を覚ましていた。
 主の柔らかい手の感触が、未だ残り続けていた。俺よりも一回りは小さくて、柔らかい手。あの手をお守りしたい。
 そのためにも修行を完遂させよう。
 ずっと俺の腹の中で重くのしかかっていた重圧が、主のおかげでほどけた気がした。






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2021年1月28日

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