泣いた烏が

 長谷部は盗みを働いた。よりにもよって、審神者の持ち物から、盗みを働いた。
 はぁー、はぁー、と荒い息を吐きながら、震える掌の上に置かれたものを見る。
 それは、審神者が愛用しているシャープペンシルだった。『学業祈願』と朱色で書かれた、細長い白いシャープペン。
「昔お世話になった先生に頂いたんだ。それからずっと使っているの」
 本丸の誰かが「審神者はいつもそれを持っているな」と言ったところ、審神者が照れくさそうにそう答えたのだ。
 審神者は書き仕事ではなくても、度々シャープペンシルを持ち歩いていた。
「これを持っていると、励まされた気がするんだ」
 審神者は不安を感じる時は、必ずポケットの中にシャープペンシルを忍ばせていた。シャープペンシルを手の中で遊ばせるだけで、ほっとするのだという。

 長谷部は、ずっと審神者に認めてほしいと思っていた。長谷部が一番だよと言ってほしかった。それだけを渇望して、審神者に仕えた。しかし審神者の一番は、刀剣男士ではなくシャープペンシルだった。

 まだ付喪神も宿っていない、その兆しすらない物の方が、己より審神者の寵愛を受けている。

 長谷部は思った。そう思ってしまった。

 日に日に嫉妬がふつふつと煮えたぎり、ある出来事を境に、ぷつりと長谷部の心がちぎれた。

 審神者が政府施設に呼び出された時のこと。
 その日も審神者はシャープペンシルを持って、政府施設に飛び立っていた。審神者の評価を政府直々に下す、重要な会議の為に。緊張のあまり顔をこわばらせて審神者は施設へ赴いた。側仕えに長谷部を控えさせて。
 審神者として働き始めて、一年目。政府施設に呼び出されるのは初めてのことだった。
 政府の役人の前でポケットを膨らませるわけにもいかないので、筆箱に忍ばせていた。
 会議は審神者の懸念していたようなものではなく、比較的穏やかに終了した。審神者の評価は決して悪いものではなかった。
 長谷部も自分の主が政府に評価されていることを知り、鼻が高かった。しかし、政府施設を出て最初に審神者が声をかけたのは、長谷部ではなくシャープペンシルだった。

「よかった。今日もこの子のおかげで一日乗り切れた」
 審神者は鞄の上から、筆箱に収められたシャープペンシルを撫でる仕草をした。長谷部に礼の言葉を言う前に。

 その瞬間、長谷部の不安定になっていた心が、千々に千切れる感触がした。今までシャープペンシルごときに審神者の寵愛を欲しいままにされているのを我慢している事実に、心が耐え切れなくなったのだ。
 もちろん審神者は、その後部下の長谷部にも感謝の言葉を伝えている。しかし長谷部にとって重要なのは、己の主が一番最初に感謝を伝える相手が、自分ではなくシャープペンシルごときだったことだ。

 その晩、長谷部は審神者の部屋に忍び込んだ。いつも審神者が入浴で不在の時間を、長谷部は知っている。だから不在の時間を見計らって、長谷部は音も立てずに入り込む。
 長谷部の読み通り、大きな座卓の片隅に置かれた筆箱を開けると、大切そうにしまわれたシャープペンシルがあった。
 長谷部は瞬時に執務室を去った。その姿を見たものは、誰もいない。
 庭の木の葉が、月明かりに照らされて蒼く光っていた。

 そして長谷部は自室の中で、荒い息を吐きながら手中のシャープペンシルを見ている。

 お前を折ってやろうか。それとも火にくべて灰にしてやろうか。

 暗い室内、舌なめずりをしながら、長谷部は物言わぬシャープペンシルを凝視する。審神者の手により使いこまれた後がある、シャープペンシル。長い時間愛用されているが、審神者の手により手入れがされており、汚れは見当たらない。少し学業祈願の文字が掠れてしまっている。
 長谷部は……ことりと床の上にシャープペンシルを置いた。
 踏みつぶそうと思ったのだ。
 しかし、足が振り下ろされることはなかった。
 薄れてしまった学業祈願の文字を見た時、長谷部は思ったのだ。
 文字が薄れるように、長い年月を経れば主もこいつのことを忘れるやもしれない、と。
 長谷部はシャープペンシルを持ち上げて、真綿で包み、その上からさらに和紙で包んで厳重に封をした。その上で自室の押し入れの一番奥の奥にしまい込んだ。
 シャープペンシルを見ていたくなかったから、審神者に見つけられたくなかったから。
 きっと審神者はシャープペンシルがないことに気付いたら、騒ぐだろう。悲しむだろう。

 それでも構わない。俺だけを見てくださるのであれば。

 長谷部は渋面を作りながら、静かに押し入れの襖を閉じた。押し入れの中はしんと静まり返る。



 翌朝、長谷部は近侍の仮面を顔に張り付けたまま、審神者の執務室に入った。
「おはようございます、長谷部さん」
 静かに微笑する審神者に、長谷部はにこりと笑い「おはようございます、主」と返事をした。彼の声はわずかに震えている。長谷部の機微に審神者は気付いた様子もなく、座卓に書類を広げる。
 審神者の様子が一変したのは、すぐのことだった。
「えっ、うそやだ。ないっ、ない!」
 声を高くして審神者が叫ぶ。
「主、落ち着いてください。どうされましたか」
 長谷部は取り澄ました声で問いかけた。答えなど分かりきっている問いに、審神者は叫ぶように答えた。
「シャープペンがない!」
 普段の審神者は長谷部達刀剣男士にも礼儀正しく接するが、この時ばかりは取り繕う余裕がない様子だった。審神者を最も近くで見ていた長谷部だからこそ、審神者の動揺ぶりが痛いほどわかる。
だから審神者の狂乱ぶりが、長谷部にとって複雑な思いを抱かせた。
 果たして、長谷部自身が審神者の目の前からいなくなった時、今と同じだけ心を砕いてくれるだろうか、などと不毛なことを、長谷部は考えてしまったのだ。

 審神者は筆箱の中を何度も引っ掻き回し、座卓の下を覗いた。長谷部もそんなところにないと知りながら、座卓の下をくまなく調べた。審神者の捜索の手は執務室中に及び、さらには私室に間違って持って行ったのかもしれないと一縷の望みを託し、私室へと走っていった。
 審神者の慌ただしい後姿を、長谷部は静かな瞳で見送った。


 審神者は執務室と私室を探し、ついには本丸中を探して歩いた。やがて騒ぎに気付いた刀剣男士達も捜索に加わり、建物内だけではなく、前日立ち寄ったという本丸内にある東屋や林の中にまで及んだ。
 それでもシャープペンシルは見つからない。当然だ、今は長谷部の手中にあるのだから。

 捜索開始から数日経ち、審神者はついにシャープペンシルを失くしてしまったことを認めた。
 落胆に沈む審神者を、皆が慰めた。もちろん長谷部も。


 最初の内は落ち込んでいたが、少しずつ審神者は立ち直っていった。
 そして長年自分を支えた相棒を失くし、孤独になってしまった審神者を長谷部はよく支え、ついに深い関係になった。
 そうなる頃には、シャープペンシルが失われてから、五年が経過していた。

 さすがの審神者も、シャープペンシルに言及することはなくなった。もちろん長谷部も何も言わない。

 長谷部はシャープペンシルが、和紙にくるまれた状態で置かれているのを一瞥してから、押し入れを閉じる。
 そして布団を敷いて、ぴしりと隅まで整える。長谷部は先程執務を終え風呂から上がったばかりだ。今は湯帷子に着替え、後は眠るだけだ。

 シャープペンシルは、今も長谷部の部屋の押し入れに眠っている。押し入れの扉を開ける度、長谷部はシャープペンシルがなくなっていないかを確認する。己の主に自分の悪事が露見していないか、主の元へ恋敵が戻っていないかとひやひやしながら。
 たった一本の文房具が、長谷部の心に影を作る。ざわめかせる。

 情けないと長谷部は己を蔑む。しかし、長谷部はそれでよかった。綺麗に敷いた布団を見下ろしながら、長谷部は心の中で独り言つ。
 ほんの少し心にひっかかりを覚えるだけで、審神者と恋仲でいられるなら、これくらい安いも「かえりたい」

「は?」

 耳慣れない声がした。少しくぐもった、少年とも少女ともとれるかすかな声。
 もちろんこの部屋には長谷部しかいない。では一体誰が、どこか「かえりたい」

「かえりたいよお」

 声が一際高まり、今度こそしっかりと長谷部の耳に届く。声の出どころは、明らかに先程閉じた“押し入れ”からだった。
 ばっと長谷部は振り向く。
 先程布団を下げた時は、人間の気配はなかった。俺の押し入れにいるのは誰だ?
 己の本体を片手に、押し入れを蹴破った。

 押し入れの上段、先程布団を下げたばかりで空「かえりたい」
 そして下段。五年以上の歳月、長谷部がため込んだ物が、雑多に置かれ「かえりたいよお」


 長谷部は気付いた。この声の出所は、和紙と真綿にくるまれた、審神者のシャープペンシルだと。
 この日、長谷部はちいさなちいさな付喪神の誕生を目の当たりにしたのだ。

「かえりたいよお」

 しくしくと声を掠れさせて、シャープペンシルの付喪神がすすり泣く。
 主の元に帰りたがっている。

「かえりたい、かえりたいよ……」

 まだ自我も形成しきっていない未成熟な状態で、シャープペンシルは己が主の元へ帰りたがっている。
 こうなってしまってはもう隠し通せない。
 長谷部は気付いた。
 この本丸には勘の鋭い御神刀が何振りもいる。長谷部の部屋に冷やかしに来る連中もいる。
 そんな状況で、ずっとかえりたい、かえりたいと声が聞こえては間違いなく怪訝に思われ、押し入れの中を改められることになるだろう。

 今こそ、こいつを排除すべきだ。

 長谷部は押し入れの奥に転がっているシャープペンシルを取り出す。
 和紙と真綿を静かに剥ぎ取る。その間も「かえりたい」「かえりたい」と泣き続ける声は止まなかった。

 数年越しの再会だ。
 長谷部は手の平にシャープペンシルを持ち、そのまま強く握り「かえりたいよお」

 かえりたい。

 黙れ、何も喋るな!


 その言葉に、長谷部は覚えがあった。昔々、長谷部が呟いていた言葉だ。  織田信長の手により、長谷部は黒田家に渡った。本当ならずっと自分を愛用した信長の元に帰りたかった。毎晩毎晩長谷部は織田に帰りたい、帰してくれと願い続けた。しかし長谷部の願いは誰も叶えてくれなかった。長谷部はやがて黒田家に大事にされ、黒田家の家宝という地位を得たことで、やっと長谷部は願うのをやめた。黒田家の刀であることを誇らしく思えるようになるまでは、長い時間を要した。


 そんなかつての自分と、シャープペンシルが重なって見えたのだ。

 長谷部は自問する。

 かつての俺は何を望んでいた?

 元の主の元へ帰ること。

 であるなら、こいつが何を望んでいるかはわかるだろう。

 …………。

 しかし、神たる俺の願いを、誰が叶えてくれた? いいや誰も叶えてはくれなかった。
 長谷部は歯がみする。
 シャープペンシルをただの憎い恋敵としか見ていなかった長谷部にとって、今の状況は胸をキリキリと痛めた。
 主と引き離された先に待つのは、絶望的な孤独だけだ。
 それを今、シャープペンシルも味わっている。
 俺はその孤独を受け入れ、黒田家の刀として奉公することに決めた。なのにこいつの願いを聞き入れるのか? どうして?

 長谷部の胸中に怒りと嫉妬と寂しさが、ぐるぐると湧き上がる。
 やがて──。

「潮時、か」

 長谷部はぽつりと呟いたのだ。



 その晩、審神者の私室を訪れるものがあった。そろそろ眠りに就こうとしていた審神者の私室のドアが、こんこんと叩かれる。
「失礼致します。主、長谷部です」
「え? 長谷部なの? どうぞ」

 私室内の審神者は驚きながらも、わずかに頬を赤らめながら、長谷部の為にドアを開けた。審神者は先程風呂から出たばかりのパジャマ姿で長谷部を出迎えた。
 ドアの先にいた長谷部は、固い表情で審神者を見つめて立ち尽くしている。
 審神者はてっきり、長谷部が夜のお誘いをしに来たのだと思っていた。本日は出陣に書類仕事が重なり、ハードな一日だった。だから長谷部も来ないだろうと思っていたから、少し慌てたのだ。
 だが長谷部は、開けられたドアから入室することもなく、ただそこに立っている。

「主」
「なに?」
「俺は貴方を心からお慕い申し上げております。この言葉に偽りはありません」
「急にどうしたの? とりあえず入ったら」

 突然に愛の告白をしてきた長谷部に戸惑いながら、審神者は入室を勧めるが、長谷部は渋い顔で首を横に振るばかり。
 そんな長谷部が意を決した様子で、拳を突き出してきた。その中には、審神者が愛用していたシャープペンシルがあった。

「それ……!」
 審神者の怪訝な顔が、みるみる明るくなっていく。
「申し訳ありません」
 シャープペンシルに手を伸ばす審神者に、長谷部が苦渋に満ちた声を漏らす。
「今まで俺が所持しておりました」
「え?」

 審神者は伸ばしかけた手を引っ込め、長谷部の顔をまじまじと見つめる。長谷部は訥々と語る。今までどれほどそのシャープペンシルに嫉妬していたか、“あの日”己が感じた強い感情、そして盗みを働いた日のことを。審神者は頷きもせずに真剣な顔で長谷部の顔を見上げている。
「それが付喪神を宿しましたので、もう隠し立てはできないと判断し、こちらにお持ちした次第です。……一時の出来心で主の持ち物を無断で盗み込んだこと、謹んでお詫び申し上げます。大変申し訳ありませんでした」
 長谷部が深々と頭を下げる間、手の上のシャープペンシルは「かえりたい」と持ち主を渇望する声を上げていた。
 その声に応えてやることなく、審神者は首を傾げた。
「付喪神を宿したって?」
「主の耳には届きませんか。こいつが先程から『かえりたい』と呟き続けているのです」
「…………私には何も聞こえないわ。でも、長谷部がそう言うのなら、きっとそうなんだね」

「いかようにも処罰をお願い致します」
 長谷部の言葉に、審神者は溜息を吐いた。
「勝手ね」
 長谷部の身体がびくんと震える。申し開きができず、長谷部は黙り込む。
「いきなり私のシャープペンを隠したかと思えば、ある日突然返してきて自分を処罰しろなんて……」
 勝手。それは長谷部自身が身に沁みて感じていることだ。審神者の言葉に、長谷部は身体を縮こまらせる。

「それに私が怒っていると思い込んでいるのも、勝手」
「では主は……」
「びっくりはしているけど、怒ってはないかな。顔を上げて、長谷部」
「はっ……」

「どうして長谷部は今になって返す気になったの? 本当だったら壊したり捨てちゃったりすることもできたでしょう? 私に隠し通せなくなるからって言ったけど、それだけじゃないでしょ」
 長谷部が顔を上げると、悪戯っぽく笑う審神者の顔があった。
 少々ためらってから、主が相手なら……と長谷部は口を開く。

「こいつの『かえりたい』という願いが、昔の俺を想起させたからです。前の主に手放され、来る日も来る日も元の主の元へ帰ることを願った俺に」
「そう。長谷部は前の主の元にかえりたかったんだ」
「前の主に捨てられたという現実が受け入れられない年月は、生き地獄でした。あの当時の俺が望むのは……」
「今は望んでいないんでしょう? なら私は満足かな」
 審神者がそっと手を伸ばし、長谷部の頬を撫でた。シャープペンシルではなく、長谷部の頬に優しく触れる。
「その子を返してくれるって言うなら、受け取ろうかな。長谷部が持っていたいなら、それでもいいよ」
「主に隠し事をするなど、もう懲り懲りです」
 審神者の手に長谷部がシャープペンシルを渡す。すると先程まで響き続けていた「かえりたい」という恨めしそうな声が、一瞬で静まり返った。「ただいま」「ただいま」と嬉しそうに笑っている。
「こいつは大分お喋りなようですね。今は『ただいま』と呟いて喜んでおりますよ」
「今泣いた烏がもう笑ったってところかな。ほら長谷部」
 長谷部の頬を撫でながら、審神者がそっと目を閉じる。長谷部は静かに呼吸する審神者の唇に、己の唇を静かに重ねるのだった。
「ん、んっ……」
 唇を合わせるだけだったものが、より深くなっていく。審神者はパジャマのポケットにシャープペンシルを忍ばせる。
 きっと夜は長くなるだろうことを予感しながら、審神者は長谷部のされるがままに身を任せた。






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2020年11月12日

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