さみしさをほどく香り

  長谷部が自室で暇を持て余して本を読んでいた時のことである。廊下から誰かが歩いてくる気配がする。いやこんな風に足音を立てて歩くのは、本丸でも主ただ一人だけだ。長谷部は部屋の障子を開けて、主の到着を待った。
 数秒と経たない内に、主はやってきた。
「ある……」
 長谷部はもちろん主が自分に用があってわざわざ出向いてくれたことを、喜んでいた。だから主に向き合った状態で話しかけようとした。しかし主は何故か部屋に入って早々、無言で部屋の入口と逆方向の押し入れの方を指さす。
 不思議に思いながらも主の命に従っていると、背中に温かく柔らかいものが被さってきた。主だ。
「主……?」
 主は何も言わずに、すりすりと長谷部の背中に顔をこすりつけている。
 主がすううと鼻を鳴らすと、長谷部の匂いがしてきた。カソックの重い繊維の匂いと、少しこもった長谷部の体臭。
 それらが同時に鼻孔を満たしたことで、主のすさんだ心がほんの少し癒えた。
 主の身体から力が抜けたのを確認した長谷部は、笑った。
「主、またですか」
 長谷部の言う通り、この本丸の主にはある癖があった。主が精神的に疲弊した時は、こうして長谷部の身体に抱き着いて、匂いを嗅いでくるのだ。
「寂しい」
 主はとつとつと語った。特に何があったわけでもないのに、心が寂しくて寂しくてとても寒いと。この胸をつんざくような凍える寂しさを持て余して、長谷部の元に来てしまったと。
「主、もしよろしければカソックを御脱ぎしましょうか?」
 長谷部が遠慮がちにそう言う。
 主は逡巡する。厚いカソックを脱いだシャツ越しであれば、より長谷部の匂いを鮮明に感じることができる。けれど今の季節は冬。特に今日など景趣を大雪にしてしまっている。そんな日に薄いシャツ一枚にさせてしまって大丈夫なのだろうか。
「俺は主の体温でぽかぽかですよ。どうぞご随意に……」
 長谷部がさらに畳みかけてくる。
「じゃあ……ありがとう。長谷部、脱いでほしい」
「承知しました」
 主が身体を離すと、すぐに長谷部がカソックを脱いで畳み、脇に置く。そっと長谷部の背中を抱きしめると、長谷部の体温がより近く感じられる。
 本丸で愛用している柔軟剤の香りと一緒に、長谷部の優しい匂いが鼻孔をくすぐる。
 ああ、これが私の欲しかったものだ。
 主は長谷部の背中に顔をうずめて、満足する。そして心の奥でくすぶっていた孤独感が少しずつ薄れていくのを感じる。

 溶け合ってしまいたい。
 いっそこのまま長谷部の背に顔をうずめた状態で、長谷部の身体の中に溶け込んで、長谷部と一つになりたい。そう思っていると、長谷部がそっと主の腕をほどいた。
 そして身体を反転させて、ぎゅっと主を両腕で抱きしめてきた。
 長谷部は言う。
「俺がおりますから、もう大丈夫ですよ。主の中から寂しさは消えました。大丈夫。 貴方はもう寒くありません」
「うん、うん……」
 長谷部の腕にぎゅっと抱き寄せられる。厚い胸板に鼻先を押し付け、筋肉質な長谷部の身体に任せる。
 長谷部の優しい声音で囁かれる通り、気が付けばいつの間にか寂しいという感情は、消え失せていた。





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2021年2月4日

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