甘え

※注意 長谷部が主に敬語で話さないシーンがあります。


 うだるような暑さが連日続く夏の盛りのこと。その日は夜も蒸し暑さが引かず、過ごしにくい日だった。
 長谷部と結婚して二カ月が経った。梅雨の日の晴れ間に運よくお式を挙げられ、本丸の皆に祝福されての結婚だった。さすがに長谷部と手を繋いだり抱き合ったりするのはわけないが、キス以上のことをしようとすると、私はどうしても照れてしまう。
 いつも長谷部は「せっかく結婚したのに逃げないでください」と言って、私を追いかけてキスをする。長谷部はお風呂で流しっこなどもしたいとよく零しているが、それも難しい。今夫婦専用として使っている浴室は、あいにくと元々私が使っていた一人用の風呂なので、二人で入浴するには狭い物なのだ。「いつか改装しましょうね」と長谷部は意気込んでいるが、果たしていつになるやら。



 さて、そんな風呂場から長谷部の鼻歌が聞こえてくる。昼間日本号と一緒に馬当番をした影響でか、選曲は黒田節である。日の本一のこの槍を、の部分で鼻歌は止まった。我に返ったらしい。
 少し経って浴室の扉の開く音がして、長谷部の足音が聞こえた。
「出ましたよ。主もどうぞお入りください」
「わかった……うわっ」
 背後から長谷部に声をかけられた。振り返ると、熱気を感じた。そこにはなんとパンツ一丁で、濡れた髪もそのままの長谷部が突っ立っていた。今日はついこの間買ったばかりの紺色のボクサーパンツを選んだらしい。穿き心地が良くて気に入っていると四日前に言っていたような、いやそんなことはどうでもいい。
 私は今まで長谷部の下着姿を直視したことがあまりなかった。何故なら長谷部は普段すぐに着替えを済ませてしまうからだ。
「着替え、持って行かなかったの?」
 そういえば今日は特に何も言われなかったので、長谷部のパジャマを用意していなかった。普段は長谷部自身が寝間着を持っていくが、忘れた時は「おーい」と声をかけられる。長谷部は寝間着を忘れるようなことはよほど疲れていないとしないのだが、時々忘れたふりをする。私と喧嘩をして仲直りがしたい時、私に甘えたい時、二人きりで内密に話がしたい時、長谷部はいつも脱衣所から私を「おーい」と呼ぶのだ。ちなみに長谷部が本当に寝間着を忘れてしまった時は、「申し訳ありません……」とすまなそうな声が脱衣所から漏れてくる。
「ええ、まあ」
 私の質問に長谷部は何やら歯切れ悪く答える。そして「ほらもう夜も更けて参りましたよ、主も早くお入りください」と急かしてきたので、私は渋々と入浴することにした。長谷部のように着替えを忘れては困るので、しっかりとタオルとパジャマと下着を用意し、脱衣所の扉を閉めた。



 そして数十分後、私は髪を乾かし脱衣所を開けた。ダイニングに移動すると、なんとまだ長谷部は下着姿でいるのだ。それも肩にタオルをかけてビールを煽って、お気に入りのソファにどっかりと沈んでいる。随分とくつろいだ様子だ。
 何やらスクリーンで私が購入した映画を見ているようだった。スクリーンに見覚えのある映像が流れている。
「長谷部?」
 背後から声をかけると、長谷部は首を傾げて振り返った。そして
「呑むか?」
 と言って自分の持っている缶ビールを掲げてきたのだ。見るとソファの近くに置かれたテーブルには、二本ほど空になったビール缶が置かれている。ほどほどに出来上がっているらしい。  私は内心とても驚いていた。今まで晩酌を一緒にすることはあったが、ここまでくつろいだ様子の長谷部を見たことがなかったのだ。
 だがせっかくの長谷部の誘いを無碍にしてはかわいそうだ。いやそれよりも。
「ご一緒したいけど、その前にちゃんと髪乾かしている? あー、やっぱり乾かしてない!」
 長谷部の髪を撫でると少し硬めの髪は、まだ根本の部分が濡れていた。やっぱり長谷部はあれからドライヤーもかけずに、ここで晩酌をしていたのだ。スクリーンを見れば映画は三十分ほど進んでいる。つまり私が入浴している間、長谷部は髪も乾かさずにここでくつろいでいたのだ!
「んん……」
 しかし長谷部はというと私の小言などどこ吹く風といった様子で、私の手に身を任せている。
「駄目だよ、ちゃんと髪は乾かさなきゃ。痛んじゃうよ」
「でしたら主が乾かしてください……。着替えも主が用意してください。俺はここから動きませんよ」
 私が長谷部の頭をぐりぐりと撫でまわすと、長谷部は何やらむにゃむにゃと呟いた。
 私に敬語を使わなかった時点で酔っているだろうことは予想できた。長谷部は結婚してから、感情を高ぶらせていたり酔っぱらっていたりすると、私相手でも時折敬語で話さないようになった。
「もー、仕方ないんだから」
 私は脱衣所からドライヤーを持ってきて、コンセントに刺す。
 すると長谷部は驚いた顔で「本当に乾かしてくださるのですか」と言った。
「自分が乾かしてって言ったんでしょ?」
 私がドライヤーの電源を入れると、長谷部はいそいそと私に後頭部を向けた。そして缶ビールを置いて、何やら幸せそうにふにゃふにゃと笑っている。
「ほら動かないで、乾かしにくいでしょう」
 櫛を構えて長谷部の頭を乾かす。といっても長谷部の髪は短いし半分乾いているような状態だったから、五分もかからずにすみそうだ。



 ──と。
 長谷部が何事かを呟いている。
「何?」
「いえ……」
 私がドライヤーを止めて問いかけると、長谷部は目を伏せて口をつぐんだ。しかしすぐにぽつりとこう言った。
「ただ……幸せだな、と思っただけです」
 その言葉に息を呑む。スクリーンから流れる映画の音声だけが、部屋を流れる。

「奇遇だね、私もそう思ってた」
 私もそう答える。事実だった。
 長谷部がこうして私の前でくつろいだ姿を見せてくれることが、胸に温かなものを感じさせてくれた。普段はしっかりものな長谷部が、何気なく世話を焼かせてくれることも嬉しい。
「よかった。俺のこんな姿を見て、幻滅されたらどうしようかと思っていました」
「そんなことで嫌うわけないでしょう」
 長谷部と二人でくすくすと笑い合う。
「ほらもうちょっとで終わるから、前向いて」
「はい」
 そうして私は再びドライヤーの電源を入れる。スクリーンでは主人公の少年と少女が二人以外誰もいない夜の雪原で、初めてのキスをするシーンが、静かに流れていた。




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2020年10月6日

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