篠突く雨が、すべてを

第一話

 遡行軍の本丸襲撃により、主と仲間を失った長谷部と、別の本丸の審神者のお話です。
 刀剣破壊、シリアスです。長谷部の主の女審神者も登場しますので、苦手な方はご注意ください。










 とある国のとある本丸。
 その本丸の上空を鼠色の雲がたゆたっている。
 大勢の刀剣男士と審神者が暮らす本丸は騒がしいはずなのに、ほとんど物音もなく静まり返っている。
 一見人の気配さえしないほど静かな本丸だったが、一つの影が動いていた。

 本丸の畑を抜けた先にある小さな林。そこに彼はいた。
 地面に膝をつき、生え始めの雑草を独り間引いている。
 彼が体を動かすたび、煤色の髪が揺れる。この本丸唯一の住人の名前は、へし切長谷部というらしい。
 丈の長い深い紺色の上着はどこかへ脱いできているようだ。
 彼の周囲に他の者の姿は見えない。
 長谷部は唇を引き結んで、黙々と作業を続けている。
 雑草だけでなく小石や木の葉、何かの破片などを取り除いていく。ただの雑草むしりにしては、丁寧な仕草で。

 彼の手に触れる土はしっとりと重く湿っている。昨夜遅くから降り続けていた雨が、先ほど上がったばかりなのだ。

 黙々と手を動かし続ける長谷部の肩を叩くものがあった。
 それに気付いた長谷部が顔を上げると、頬を冷たいものが一つ滴った。

「またか……」

 忌々しく薄墨色の雲を睨みつける。長谷部が言う間に、昨夜とは別の雨が降り始めていた。

 長谷部は雨が嫌いだ。
 戦闘の最中であれば泥に足を取られ、雨粒や雨音に索敵を妨害される。どれほど注意深く傘を差しても体が濡れてしまう不快感。
 突如降り出すせいで、予定が狂ってしまうことだってある。
 そして何よりある刀剣男士との諍いが雨によって発展したことから、長谷部は一層雨が嫌いになった。




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 まだ長谷部が顕現されたばかりの頃のことだ。
 その日に出陣部隊に組み込まれていた長谷部は、身体中にまとわりつく湿気に苛立っていた。
 それでも戦場に出てしまえば時間が異なるから雨に左右されることはない、と思っていたが、主に出陣を言い渡された合戦場は桶狭間。雨の降る中を織田信長が奇襲を仕掛けて勝利を収めた戦だった。
 長谷部は戦うことが好きだ。主の命とあらばいつどんな合戦でも、喜んで出陣する。
 それでもやはり、雨の日に雨の合戦場へ向かうと思うと、今から少し気が重い。

『雅じゃないね』

 長谷部に声をかけてきたのは、本丸随一の古参であり主の近侍の歌仙兼定だった。
 
『今の季節に合った風情ある雨の日に、眉間に皺を寄せては台無しじゃないか』
『こんな雨音に雅も糞もあるか』

 眉間に皺が寄っていると言われ、長谷部はより一層皺を深めた。不快なものは不快なのだから仕方がない。
 そんな長谷部の心情を感じ取ってか、歌仙はやれやれと言うように首を振った。

『君も一度雨の風情を楽しんだらどうだい。試しに雨音に耳をすませてごらん』

 歌仙は優雅な仕草で雨降る庭に手を差した。

 言われるまま長谷部は黙って雨音に耳を傾ける。
 地面にパシャパシャと降り続ける音。
 雨どいから滴る重い水音。
 木の葉を叩く風の音。
 誰かの湿った足音。

 長谷部は言われるままに瞑目し、水の雫が地上へと降り注ぐ音に耳を傾けた。自然が生み出す音や空気、水気。そういったものに身を委ねる。
 目の前にいる歌仙兼定が『風流』と評す世界がどんなものか。
 それを少しでも感じ取れるように。いつしか長谷部は眉間に皺を刻むだけに飽き足らず、唇を一文字にしてさえいた。
 そんな長谷部の横顔を見て、目の前の男がくすりと笑った。


 そして。
 気の済むまで雨の日を堪能した長谷部は、ゆっくりと目を開け胡乱な表情で歌仙を睨んだ。

『こんな雑音のどこに風情があるんだ』




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「こんな雑音のどこに風情があるんだ」

 歌仙に投げかけたのと同じ言葉を口ずさみ、ふっと鼻で笑う。
 再び長谷部は地面に手を着け、“無数の刀の破片”を土に被せていく──。



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 あの時は雅を解さぬ無作法者と辛辣に皮肉る歌仙と、突然非難を浴びせられてカチンと来た長谷部で、大喧嘩になる寸前だった。
 二人の怒鳴り声に慌てて駆け寄った主が、仲裁した。
 主は妙齢の女性だった。
 慌てた様子で緋袴が翻さないよう気を遣いながら、二人の間に割って入った。
 感情も露に喚き散らしているところを、主に見られただけでも恥ずかしい。
 その上長谷部自身が主に叱責を受けることになるなど、想像したくことさえなかった。
 長谷部が引き結んでいた唇を噛み締め、歌仙を睨み付ける。
 歩み寄ってきていた主がびくりとおびえたように肩を竦めたのが視界に入り、舌打ちさえしたくなるような居心地の悪さを感じた。もちろんすんでのところで控えたが。

 長谷部は思う。
 何故だ。何故たかが自然現象の一つに感情移入できないだけで、どうしてここまで居心地の悪い思いをしなければならない。
 それもこれも雨のせいであり、引いては雅だ風流だと訳のわからない講釈を垂れる歌仙兼定が悪い。
 己の恥ずかしさと怒りと居たたまれなさを解消する術を持たなかった。
 だからその様々な感情を目の前にいる男にぶつける他なかった。
 そんな長谷部の強い視線を、歌仙は涼しい顔で受け流す。

『やあ主。僕に何か用かい? それとも僕の目の前にいる無作法者に御用かな』

 青ざめた顔をする主に、にこやかに話しかける歌仙。無作法者とは間違いなく長谷部自身のことを言っているのだろう。
 その言葉を聞いた瞬間、長谷部の脳内は殺すという言葉がよぎった。
 ただでさえ主に見苦しい醜態を晒しているというのに、歌仙にさらに恥の上塗りをされた長谷部は、怒りのあまり刀に手をかけそうになっていた。

『二人とも、どうしたの? なんだかすごい声が聞こえたから』
『ああ何。長谷部が雨など大嫌いだって言うものでね。雨の良さを分からないなんて、損をしていると思わないかい?』
『そう思うのは貴様の勝手だ。俺に押し付けるな』

 本音を言えば、歌仙を怒鳴りつけてやりたかった。だが目の前に主がいる。
 これ以上己の失態を重ねたくなくて、つい声は勢いをなくし、言い訳じみたものになってしまう。

『ああそうだったの。私も雨音を聞くのは好きよ』
『そうかい。やっぱり君にはこの良さを分かってもらえると思っていたよ』
『ふふ、それにあの紫陽花が雨に濡れている様子を眺めるのも楽しい』
『君は本当にあの紫陽花が好きだね』

 そんな長谷部の居心地の悪さに全く気付かない主が、にこにこと笑う。
 歌仙と主の言う紫陽花とは、本丸敷地内の速しに群生している紫陽花のことだった。梅雨の季節になったら青紫色の花を咲かせ、薄暗い林に彩を添えるようになったのだ。自然と人知れず咲いた紫陽花の群れを主はいたく気に入り、傘をさして鑑賞することがあるほどだ。


 まさか主が歌仙の肩を持つとは思わず、長谷部は呆然とした。独り取り残されたような錯覚さえ覚えるほど失望した。
 主の前で醜態を晒し、さらに主の好きだという雨の良ささえ全くわからない自分。
 反して歌仙は初期刀であり、一番長く主のそばにいる刀だ。主の価値観にかすりもしない己の矮小さに、めまいがするほどの感情に振り回された。
 それは『恥』だ。

『でもね紫陽花の花って、』
『でしたら感性豊かなお二人で、雨音について語り明かしては如何です?』

 主が何かを言いかけた矢先、長谷部が厳しい語調で口を挟んでしまった。はっと長谷部が息を呑む。
 長谷部は決して主の発言を遮りたかったわけではない。間が悪かったのだ。
 主が何か言いかけるのに気付いた長谷部は、気まずい雰囲気にしかめていた眉を下げる。
 すみません……ともごもごと謝罪の言葉を口の中で転がした。しかし驚いた主の顔は、微動だにしなかったからきっと聞こえてはいないだろう。身の置き所に困った長谷部は、逃げるようにその場を辞した。
 歌仙と長谷部がひと悶着を起こした時、長谷部自身がまだ顕現されて間もなかった。
 だから感情の機微だとか言葉の裏に隠された本心だとか、そういった繊細な物に心を傾けることが困難だった。さらに言えば長谷部は自身の感情を表現することに関しては、輪をかけて不器用だった。


 長谷部は主の見る風景や、それによって何を感じ取っているかを、もっと知りたかった。しかし己にはそういった感性は備わっていないらしい。

 けれど、彼奴には備わっている。初期刀で近侍の歌仙兼定。
 二人共書物を好むせいか、詩歌など雅やかなことを語り合う二つの人影を本丸で見かける機会が多かった。
 長谷部は仲睦まじい二人を横目に、黙々と割り振られた職務に当たる日々だった。

 長谷部の本丸を治めていた審神者は、華道をたしなんでいて、日本の文化に明るかった。如何にも歌仙兼定が好みそうな人間だった。
 そして主にとっても初期刀の歌仙兼定は、話し相手にうってつけの刀だったのだろう。

 とはいえ、主が歌仙ばかりを贔屓していたわけでは決してない。
 彼女は朗らかな性格で、曲者揃いな刀剣男士達とも仲良くしていた。
 その中でどうしても長谷部だけがうまくいかない。
 原因の一つとして考えられるのは、彼が比較的遅くに迎えられたことがある。が、それ以上に彼女といつも一緒にいる歌仙兼定と長谷部の反りが合わないことが、彼女との距離を開いてしまっていた。




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 土をかぶせ終えた長谷部は、小雨がけぶる中でのっそりと立ち上がった。気怠そうに何かを探して歩く。
 少しすると元居た場所に長谷部は戻ってきた。彼の手には名もない野の花が握られている。
 
 長谷部は溜息を吐いて、目の前にある二つの『土饅頭』の前で膝を折った。

「また、雨ですね」

 眼前には、少し盛り上がった土。周囲より新しいもので、色が異なる。
 中央に長谷部が即席で作った卒塔婆がささっていた。即席の卒塔婆に名も知らぬ小さな花々を、そっと添える。
 土塊の色しかなかったそこに、小さな黄色と淡い桜色が彩を添えられる。その隣にはすっかり萎れて変色してしまった紫陽花が。
 全てこの本丸に根を下ろした花々だ。紫陽花は今でこそ枯れてしまっているが、歌仙兼定が好んでわざわざ手を入れていた物で、主も気に入っていたものだ。そこから一房頂戴し、供えている。
 今長谷部の手向けた花は、本丸の片隅でひっそり自生していた野花だ。
 以前こんな繊細そうな花なら主もお好きだろうと摘んだ一房を、歌仙に見咎められたことがある因縁の花だ。




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 ある春の日。素敵な花を見つけたから主にお贈りしようと、長谷部は繊細な花弁を散らしてしまわぬよう、茎を優しく摘まんで持っていた。それを見咎めたのが、歌仙兼定だった。

『貧乏草じゃないか。それをどうするつもりなんだい?』

 その言葉に反射的に言い返そうとした長谷部だったが、『貧乏草』などという名前の花を渡しては、主も嬉しくはなかろうと結局その花は主の手に渡ることはなかった。かと言って摘んだ花を処分するというのも気が引けたため、長谷部は私室の床の間に飾ってやった。
 水さえあれば花は生きるだろうと思っていたが、貧乏草は小さな花瓶の中ですぐに枯れてしまった。
 それに気付いたのは、長谷部が長期の遠征から戻った日だった。その時になって初めて長谷部は、貧乏草が好きだったということに気付いた。
 貧乏草などという名前だったが、道の端にひっそり咲くけなげなやつだと思っていた。若草色の細長い茎が天に向かって伸び、茎の先で柔らかそうな黄色いめしべに細長く白い花弁がぱっと開いている。




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 紫陽花を手に取り、悲しそうに眉を寄せる長谷部。

「きちんとした供物をご用意できず、申し訳ありません。主でしたらこの花の名も、きっとご存じなのでしょうね」

 主は花の知識量が豊富だった。広く知られた花からそこらに咲いている野花さえも、名前や特徴を把握していた。

 長谷部の言葉に返事はない。

 当然だ。
 長谷部の主君は今、この土の下で醒めない眠りについているのだから。


 この本丸には様々な刀がいた。いつもそこら中が賑やかで、長谷部が煩しいとさえ思うほどだった。
 しかし本丸に賑やかな声が響き渡ることは、もうない。

 主は今、この林に埋葬されている。
 主だけでなく、共に戦った刀剣男士達も。


 ある日、突如歴史遡行軍の一派が本丸を強襲した。

 長谷部の所属する本丸は、新生の本丸だった。練度が上限に達した者だって何振りか存在したが、それでも物量に任せて強引に攻め入る時間遡行軍を前に、なすすべもなく壊滅した。

 皆主を守るために、必死だった。

 けれど、結果的に残ったのはへし切長谷部。ただ独り。




 長谷部は主を守るために破壊された刀剣男士達を探し、埋葬し続けていたのだった。

 かつて刀剣男士の鍛錬の場や散歩道だった本丸内の小さな林は、墓所となった。

 本当ならこんな急ごしらえの物ではなく、正式な墓を立てて弔いたかったが、今の長谷部にはどうすることもできなかった。
 長谷部は政府との連絡を取る術を持たない。何故ならそういったことは、近侍の歌仙兼定と主が取り仕切っていたからだ。
 主がこの世を去ってから、過去や現世へ続く城門が閉ざされ、本丸から出られない。

 長谷部はあの悪夢のような日から、ずっと雨音と共にここに取り残されている。




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 長谷部は主と仲間の墓所の前で跪きながら、過去の出来事を回想する。




 ある日のこと、長谷部の私室に主が訪れたことがあった。

 長谷部は自室で合戦場の絵図を床に開いて、眉を寄せながら戦略の構想を練っていたのだ。
 主がお好きだと歌仙から伝え聞いた書物を読んだこともあったが、情緒的な描写が目立つ小説の類は長谷部の性に合わなかった。
 やはり戦はいい。実戦の役にも立つ。


『長谷部。今いいかしら?』

 主の声が聞こえ、慌てて姿勢を正して、絵図を隅に追いやってから障子を開ける。
 そこには主がお一人で佇んでいた。

『畏まりました』


『どうぞお入りください』
『ありがとう……あら』

 畳の上に広げられた絵図が目に入り、主が目を丸くする。

『片付けが行き届いておらず申し訳ありません! 至急片付けますのでお待ちください』
『いいのよ。大した用事じゃないから』

 慌てる長谷部に反し、主は機嫌よさそうに笑っていた。そんな主に気まずさを覚えながら、長谷部は座布団を敷いて『どうぞ』と勧めた。主は『ありがとう』と言ってその上に正座した。
 主は絵図をしげしげと眺めてから、『これはあの時代の……』と呟いてから、長谷部に向かってにこりと微笑みかけた。

『長谷部は勉強熱心ね。戦の勉強を?』
『はい。主のおっしゃる通り、実戦に役立ちますので』
『そう。ところでこの間の件だけど』
『この間?』

 曖昧な言葉に、長谷部は頷くことができずに目を瞬かせる。

『歌仙と雨について議論になったこと』
『ああ……』

 長谷部はうっかり舌打ちしかけるのを、済んでの所で留める。だが長谷部の苦々しい感情は、しっかり顔に出てしまっていたらしい。長谷部の表情の変化に気付いた主がころころと笑った。
 それにつられて長谷部も笑いそうになるが、はっと我に返った。舌打ちよりも笑うよりも前に、主に詫びるのが第一だ。

『俺が雅やかな話題に明るくないために、主の御前であのような醜態を晒した上、主に無礼を働いたこと、お詫び致します』

 長谷部はがばりと畳に手をつき、主に謝罪した。
 あの時、最後に主の発言を遮り皮肉る言葉で締めたこと、あの場から逃げ出してしまったことを、心から恥じて申し訳なく思っていた。だから主から話しかけてくれたことは好都合だった。
 しかし主は長谷部の謝罪に対し、あたふたと手を振る。

『違うわ。顔を上げて。謝りたいのは私の方よ』
『主が、ですか?』

 恐る恐る長谷部は顔を上げる。主は決まり悪そうにためらった後、こくりと頷いた。

『ええ』

 そして主も長谷部と同じように、頭を下げた。

『あの時はごめんなさい。歌仙に味方してしまったけど、あんな二対一になるような言い方をされたら、誰だって嫌に決まってるのに。本当に配慮が足りなかった』
『いいえ、とんでもないことです。どうか頭を上げてください』

 長谷部が慌てて頭を上げるように言うと、ほっとした様子で力を抜く主に、長谷部もつられて笑う。

『だめね。長谷部は私に甘いから、こんなことを言ったら、許してくれるに決まっているのに』

『長谷部は歌仙のいう雅な物に、あまり興味がないのかしら』
『……はい。俺は詩歌や小説よりも、こういった戦事の方が関心があります』

 長谷部は内心のばつの悪さを隠し切れなかった。何故なら主好みの刀は、こんなことは決して言わないことは目に見えているからだ。年頃の女性に血なまぐさい荒事が好きなどと言っては、余計に疎まれてしまいかねない。
 しかし主を欺くことなど論外だ。
 長谷部に残された選択肢は、正直に本心を吐露することだけだった。

『そう。あ、ううん。深い意味はないの。あくまでその人によって向き不向きがあるから、確認したかっただけ』

『それにほら、長谷部とはなかなかゆっくり話す機会もなかったでしょう? この本丸も、やっと軌道に乗ってきたところだし、少し時間が取れるようになったの。もしよければ、今度の非番の日に、一緒に万屋へ行かない? 万屋の近くに新しい甘味処ができたとかで、ちょっと気になっているの』
『俺でよろしいのですか?』
『もちろん。あなたと話がしたいから誘っているのよ』
『有難き幸せ! ぜひお供させてください』
『そんなに畏まらないで。よかった。断られるかと思った』

 主と長谷部の笑い声が、部屋に響く。





 主が亡くなった日。
 長谷部にとって特別な日特別になるはずだった日。

 せっかく主と距離を縮められたかもしれない誘いは、永久に叶わなくなった。




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 さて、時間を元の現在に戻そう。
 長谷部が墓の手入れを終えて、私室に戻ろうとしたところだ。

 本丸の入り口の城門が、開いていた。

 また敵襲か。

 今はこの本丸に長谷部一人しかいない。
 もしも襲撃されれば、己は死ぬだろう。長谷部は自分が破壊されるのを覚悟した。
 足音を立てないよう、雨音に紛れて気配を消しながら、そっと歩いた。

 城門の前には人影が二つあった。

 二人……?

 先達て奇襲を仕掛けてきた遡行軍は、本丸に顕現された刀剣男士を上回る圧倒的な数だった。
 なのに二人?

 女の高い声が、長谷部の不意を突いた。

「すいません、どなたかいらっしゃいませんかー!」
「俺達の本丸とは随分様子が違うんだな」

 続いて呑気そうな男の低い声が聞こえた。
 思わず歩みを止める。城門は長谷部の目と鼻の先だった。

 木の陰に隠れてそっと覗くと、城門には巫女装束を着た若い女と、刀剣男士・鶴丸国永が立っていた。
 驚くことに女は周囲を全く警戒していなかった。

「私達は政府の遣いでやってきたー審神者とその刀剣男士ですー! こちらの本丸から応答がないとのことでー、心配してやって参りましたー! どなたか、いらっしゃいませんかー!」
「君、もうちょっと言い方があるだろう」
「うるさいなあ。だったら鶴丸もちゃんと呼び掛けてよ!」
「はいはいっと。おーい、誰かいないかい? 俺は政府所属の鶴丸国永だー! 君達の本丸を調査しに来た。誰かいるなら名乗りを上げてくれー!」

 政府の遣い?

 長谷部は気付く。政府がこの本丸の緊急事態を悟り、救援を送ってくれたのではないかと。
 万が一敵の策略であったとしても、死ぬのはどうせ俺一人だ。であるなら、ためらう理由などないだろう。

「はい」

 長谷部はゆっくりと彼ら二人の前に姿を晒した。なるべく表情を消して、来訪者の様子をじっくりと観察する。
 そんな長谷部の警戒を気にした様子もなく、女が会釈した。

「初めまして。私は政府の遣いでやってきました、苗字名前です。こちらの本丸から一月以上通信が途絶えているとのことで、政府の命を受け調査に伺っております」

 名前は名乗った後に政府の紋が入った腕章を示した。そして、長谷部に「こちらが政府からの令状です」と言って、政府からの正式な調査依頼書を寄こした。

「恐れ入ります。俺は……」

 ぐっと長谷部が言い淀む。
 本丸が健在な頃の彼は、第三部隊に所属していた。その第三部隊はじめ本丸が瓦解した今、自分をどう紹介すればいいのか、わからなくなったのだ。
 まるで自分がたった一人取り残されてしまった現実を、突きつけられてしまったようで。

「俺は?」

 低い男の声に長谷部が現実に引き戻される。
 顔を上げると至近距離から彼の顔を、金色の眼が覗き込んでいた。

 ああ、こいつはどの本丸でもこうなのか。

 鶴丸国永。
 同じ本丸所属の鶴丸とはあまり個刃的な付き合いはなかったが、驚きとやらに並々ならぬこだわりを持つ酔狂な刀だとは知っている。そして好奇心を隠そうともしない無遠慮な態度も、なるほど如何にも鶴丸らしい。

「……失礼。この本丸の留守を預かる、へし切長谷部と言います」
「長谷部さんですね。よかった。どなたもいらっしゃらなかったら、どうしようかと思いました」
「御足労頂き、ありがとうございます。どうぞお入りください」
「ありがとうございます」

 名前が一礼し、長谷部の後に続く。

 本丸内の屋敷を目に入れた途端、来訪者の二人は息を呑んだ。鶴丸が身構える。

 拭いきれず黒くこびり付いた血、刀傷がそこかしこに残る戸板。拭いきれない敗戦の跡だ。
 二人を安心させるために、長谷部は慣れない愛想笑いを浮かべて振り返った。

「ご安心を。ここに敵はいません。全て始末しました。いるのは俺だけです」
「君以外の姿が見えないが」

 鶴丸の問いに、長谷部は首を横に振る。

「全滅した。俺を残して、な」
「そうか……」
「この度は本当に……」

 名前が慌ててお悔やみの言葉を言おうとするが、長谷部が遮る。

「申し訳ありません。俺独りしかいないため、本丸の修繕が済んでおりません。こちらへ」

 機敏な動きで身を翻す長谷部に、名前は困り切った顔を浮かべる。
 名前は戦場の指揮を執っているものの、身近な者の死というものに触れたことはなかった。身内の死も刀剣男士の破壊も経験したことがない。だからこそどう長谷部に声をかければいいか、わからなかったのだ。

 長谷部の背を追うことすらできず、名前は立ち尽くしていた。
 自分の主をじっと見ていた鶴丸が、長谷部の頑なな背中を見た。そして名前の肩を軽い調子で叩いた。
「さ、行こうぜ」
「う、うん。そうだね」




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 長谷部は仕方なく来訪者を自室に通した。
 客間として使っていた部屋は特に損壊が激しく、とても人を通せる状態ではなかったためだ。唯一やっとの思いで元の状態に戻した主の部屋に、得体の知れない連中を通したくはなかった。

 こじんまりとした六畳一間の部屋。
 障子が破れているものの、この部屋に遡行軍が入ってくることはなかった。だからここに通した。

「ここは?」

 名前が尋ねる。

「俺の私室です。只今茶を用意致します」

 すぐに台所へ向かおうとしたが、そんな長谷部を名前が止めた。

「いえ、どうぞお構いなく」
「そうとも。こんなことがあったばかりだ。きっと君も疲れている」
「そうそう。あの、昼食はもう取りましたか? よければ、一緒に食べましょう」
「ちゅうしょく」

 ちゅうしょく。昼食。言われて長谷部は思い至る。ここ数日食事を取っていなかった。

「そうだな。俺達はこれからだ。俺の主は頼りないが、料理の腕だけはいいんだ。特に卵焼きは絶品だ」
「だけは余計でしょ!」

 笑顔を浮かべた名前を鶴丸が茶化す。この二人は主従の関係ではあるが、随分と気安い仲のようだった。

「はい、どうぞ。簡単な物しかないけど」

 名前は持っていた風呂敷包みからお重を取り出した。漆塗りの蓋を開けると、おにぎりや漬物、切り干し大根の煮物、卵焼きなどがぎっしりと詰まっていた。
 突然目の前に現れた弁当に長谷部が困惑していると、鶴丸が水筒と紙コップを取り出していた。紙コップにとくとくと茶色い液体を注いでいく。

「麦茶だ! 君は平気か」
「別に、嫌いではない」

 長谷部がおずおずと答えると、「それはよかった!」と名前と鶴丸が笑顔を見せた。
 敵かもしれない連中から施しを受けるわけにはいくまい、と思っていた長谷部だったが、二人の和やかな空気に触れて、つい魔がさしてしまった。


「いただきます」
 三人で声を揃えて手を合わせる。

 長谷部は合わせた手を静かにほどいて、戸惑いがちにおにぎりに手を伸ばす。もそもそと食べる長谷部だったが、知らず知らずのうちに頬を緩めた。

「うまい、ですね」
「本当!? よかった。どんどん召し上がってくださいね」
「どんどん食べるほど量はないんじゃないか?」
「お弁当はもうないけど、おやつの羊羹はある!」
「俺の分も用意してくれ」
「はいはい」

 長谷部は食べることで、初めて自分が腹を空かせていたことに気付いた。
 主が亡くなったその日から、ほとんど飲み食いしていなかった。常に敵からの再襲来に備え警戒し、墓守をしていた。腹が減った、疲れたと思う余裕さえなかった。長谷部の中で張りつめていた糸がぷつりと途切れそうになっていた。




「ご馳走様でした」
「お粗末様でした」
 食後に鶴丸が注いでくれた麦茶を飲んで、一息つく。長谷部がここまで落ち着けたのは、いつ以来だろうか。

「食後すぐに悪いが、話を聞かせてくれ」
 弛緩した空気を鶴丸が破った。長谷部も居住いを正す。気付けば隣にいた名前も真剣な面持ちでこちらに向き直っていた。


 そうだ、この二人は政府の遣いで来ていたのだ。




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 長谷部はできるだけ感情を押し殺して、“あの日”のことを思い返し、事務的な口調で当時のことを報告した。
 一日の仕事を終え、そろそろ長谷部と二人で万屋へ出かけようと、主が城門を開けた矢先、時間遡行軍が現れたのだ。

 遡行軍は見たこともないほどの大群だった。目視で三十。本丸の他の方角からも怒号が聞こえたため、恐らくはそれ以上──。

 まずは主を逃がすことを考えたが、遡行軍は城門に損害を与え、時間移動を一時的に不可能にさせた。

『大丈夫よ! 連隊戦での訓練を思い出して!』

 主は必死で皆を鼓舞していた。
 突然の襲撃で、皆不意を突かれていた。不意を突かれた強襲に、主も戦線の指揮を執ることなど、とてもできなかっただろう。長谷部が主を非難することなどできない。
 圧倒的な敵戦力がいきなり降って湧いて出たら、驚きと恐怖で硬直するのも無理はない。
 何せ主は審神者になってから、まだ日が浅かった。戦事にようやく慣れてきたばかりだったのだ。
 刀剣男士達は何とか形勢を逆転させようと奮戦した。敵の殺気に気付いて本丸から飛び出してきた歌仙に主を任せ、長谷部は目の前の敵軍を切り伏せることだけに専念した。何故なら歌仙は本丸で数少ない練度が上限に達した刀剣男士だったからだ。長谷部はまだ練度が低かった。

 だから歌仙に任せた方が主の身の安全は保障される。そう信じて主を託した。

 しかし一人、また一人と仲間が倒れていく……。

 周囲の仲間が倒れるのを見る内、早々に時間遡行軍を撃退することから、主の命を守り現世へ逃がすことを最優先事項へ変更した。
 敵の槍が長谷部の頬をかすめた。
 脇差の最期の一突きが、長谷部の脇腹をえぐった。
 それでも長谷部は、ひたすらに刀を振るい、敵の間を縦横無尽に駆け抜けた。

 主を生きて現世へかえすため。
 それだけを目指して。


.
.
.



 気が付くと、目の届く範囲に立っているのが長谷部だけになっていた。
 遡行軍も刀剣男士もいない。

 主は──。

 長谷部は足をもつれさせながら、主の姿を探して必死に進む。

 屋敷内を探したものの姿が見当たらない。歌仙の姿も。
 長谷部は屋敷を出て厩を探したがそこにも誰もいなかった。
 ついに長谷部は林へと歩を進める。


 主は、いた。
 地面に仰向けに横たわっていた。生前主が好んで鑑賞していた、紫陽花の植え込みの傍で。

 行儀よく両手を胸に添えて、静かに息絶えていた。
 まるで眠っているようだった。胸から脇腹にかけて深く切り刻まれた斬撃の痕と、おびただしい量の血しぶきさえなければ。

 その傍には一口の刀が添えられていた。
 主が生前愛好していた歌仙拵えの打刀だった。




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 長谷部は起こったことを淡々と語った。
 ある日突然歴史遡行軍に襲撃されたこと。
 仲間の大半は主を守るために奮戦するも折れてしまったこと。主は亡くなっていたこと。
 主と折れた連中の亡骸は、仮の墓所に埋葬していること。

「以上が、この本丸での顛末です」

 一部始終を聞き終えた名前は、痛ましげに目を細めた。

「そうだったんですか……。お辛かったですね」
「いえ……」

 長谷部は名前の視線から逃げるように、顔を伏せる。

「しんみりしているところ悪いが、刀帳はあるかい?」
 鶴丸が出し抜けに真顔で言う。
「刀帳?」
 表情から戯言でも興味本位でもないようだが、長谷部は真意が掴みかねた。

「後々必要になるなら、今の内にもらっておいた方がいいだろう?」

 しかし鶴丸の『後々必要になる』という言葉の意味が、長谷部には計りかねた。

「何故刀帳が必要なんだ?」
「あなたたちの本丸で生き残った人の中で、歴史遡行軍に手引きした人がいないかどうかを調べるためです」
 鶴丸に変わって名前が答える。

「何……?」
「先程君はこう言ったな、『仲間の大半は折れた』と。『全て』と断言できないってことは、折れた本体を確認できないやつもいるってことだ。なら、行方不明の刀剣男士が遡行軍に内通していて、今は奴らの元に逃げおおせているかもしれないだろう?」
 鶴丸の心無い言葉に長谷部は憤慨した。
「そんなはずはないっ」
「そう仰りたい気持ちもわかります。ですが今は戦時下です。まして本来安全を保障されたはずの本丸を奇襲されています。この事態を政府は重く見て、いずれは本格的な調査に乗り出すでしょう。その調査に刀帳が必要なのです」
「ですがあれはこの本丸の機密事項です。おいそれとお渡しするわけには参りません」
 長谷部は以前刀帳について説明を受けていた。この本丸の戦力を記録した大切なものだと。だから主以外の持ち出しを禁止し、複雑な暗号を施された金庫に保管されていた。もちろん閲覧は主にしかできない。
 頑なな長谷部を前に、名前はがばりと頭を下げた。
「お願いです。あなたの主の無念を晴らすためにも、どうかご協力頂けないでしょうか」
「それは……」
「刀剣男士の方々だって、ご自身の潔白を証明したいはずです」
 情に訴えかけようとする名前に、長谷部は感情を押し殺して答えた。
「無礼を承知で申し上げる。あなた方は本当に政府の使者かもしれない。しかし、実際には残敵の有無を確認しに来た遡行軍からの手先なのか、俺には判断がつきかねる。だからその依頼は承服致しかます」
「さすがはへし切長谷部ですね……」
 感服したように名前が呟く。

「いやいや、俺がこいつと同じ立場だったら、同じことを言うさ。何もへし切だからそうってわけじゃない」
「あ、そう」
「なんだい、そのやる気のない相槌は」

 二人のやり取りを聞きながら、長谷部は思案する。
 もしも本当に政府の使者だった場合、この頼みを断ったら、主や連中にとって不利に働くのではないか、と。
 死者にあらぬ嫌疑をかけられ、名誉を損なわれたら。そして、万が一連中に裏切り者がいたとしたら……。それは俺にも不利になるのではないか。間者の刀剣男士など、容易く折られるだろう。
 この二人の前に出た時は、自分の生死などどうでもよかった。だが、政府からの助けがあった今となっては、そうではなかった。
 俺は何としても生き延びねばならない。主の為に。

 膠着する議論の中で、長谷部に妙案が一つ浮かんだ。

 主への背信行為にもなりかねないが、これも主の為……。どうかお許しください。

「一つ、俺の頼みを叶えてくれれば、あなた方を本当の政府の使者と認め、刀帳の在りかをお教えします。ですが、刀帳は暗号が施された場所に隠されており、持ち出すことは不可能です。それでもよろしければ」
「何でしょう」
「審神者の御力で、本丸の気候を自在に操れるとお聞きしています。天候を変えていただけないでしょうか」
「それは、どうして」
「主がこの世を去った時から、ずっと雨が降り続けているのです。せめて、本日は……」
 長谷部の唐突な提案に、鶴丸と名前が目を丸くさせる。
 刀帳云々の話をしている中、唐突に天気を変える話をされては当然だろう。長谷部には目的があった。名前達が本当に政府の遣いで審神者であるなら、本丸の機能を熟知しているはずだ。もしも長谷部の出した頼みを遂行できないのであれば、それは審神者と偽った敵勢力からの刺客である。もしも刺客であるなら、長谷部の頼みを断った時点で斬り伏せればいい。
 敵は非力そうな女と鶴丸国永。この鶴丸は見たところ長谷部と練度差がありそうで勝ち目は薄い。それでも、生きねばなるまい。長谷部は最悪の事態に備え、逃走経路の確保のために、本丸の間取りを頭の中で巡らせていた。
 長谷部はたった独りで、危険な賭けに出ていたのだ。

 しかし名前はにこりと微笑んでみせた。

「かしこまりました。では景趣を操作できる端末を貸して頂けますか?」
 名前の言葉に一瞬驚いたが、長谷部は咳払いをしてごまかした。
「……承知致しました。こちらです」
 長谷部は立ち上がり、二人を案内する。長谷部の部屋から少し離れた本丸の奥にある、主の執務室へ。

「入ってもよいですか?」
「どうぞ」
 すると名前は長谷部が案内するまでもなく、迷いのない歩調で景趣を変更するためのからくりに近付いた。

 やはり、この方は本物の政府の遣いだったか。
 長谷部は二人に悟られないよう目をつむって安堵の息を吐いた。

「お好きな季節はありますか?」

 名前に尋ねられる。
 長谷部は特に好きな季節はない。が、主の好んでいた季節だけは知っていた。




 長谷部がこの本丸に顕現された時が、ちょうど春だった。主は皆と親睦を深める目的で、花見を行ってくれた。小規模な宴会の最中、主が目を細めて本丸の庭を眺めながらこう言ったのを、長谷部は鮮明に覚えている。

『私、季節では春が一番好きなの。暖かくて過ごしやすい季節だし、何より冬の寒さに耐えていた花達が一斉に芽吹き始めるから』





「では、春を」
「わかりました」

 主が使っていた機器。
 それを全く縁のない審神者が触っている。自身が望んだことなのに、長谷部は早くも後悔した。まるで主の居場所を取り払ってしまうようではないか。
 しかし長谷部の秘かな胸の痛みに気付く者はいない。慣れた手つきで機器を操作し、長谷部の願いを叶えようとする名前。彼女の健気さが、途端に疎ましく思えた。

「できましたよ! すぐに天気が良くなります!」

 名前がにこやかに答える。

「左様ですか。……有難うございます」
「雨音が静かになっているな。そろそろじゃないか?」

 鶴丸の軽快な口調につられて、晴れ渡った空を見るべく、執務室の入り口に目をやった。スゥ……と本丸全体を覆っていた影が消えていく。


 未練がましく降り続けていた雨が、勢いを失っていく。湿気と生温い空気が薄れた。
 庭へと続く出口から全員が出る頃には、雨は止んでいた。

 長谷部が空を見上げると、浅葱色に晴れ渡っていた。


 見事な快晴の下で、薄紅色の花弁が風に舞っていた。大枝を誇らしげに広げて、満開の桜が花弁を散らせている。
 花弁に誘われるように、おぼつかない足取りで長谷部がふらふらと桜の大樹へと歩む。

 桜の木の根元で仲間たちと笑い合う主を、長谷部は見た気がした。


「主……」

 彼の肩に、頬に、桜色の花弁が舞い落ちる。






 大樹の前で立ち尽くす長谷部を、名前と鶴丸が見守っていた。

「ちょっと待っていようね」
「ああ」

 鶴丸は黄金色の瞳を柔らかく和ませた。
 不器用に悲しみをこらえる長谷部の肩を、いくつもの見えざる手が叩いている。その手の者達は鶴丸が見知った刀剣達だった。その中に、若い女性の姿が混ざっているのを、確かに見た。

 誰かなどと問う必要はない。恐らく長谷部の主だろう。


「へし切は芯の強い刀だ」
「そうだよね」
「いずれ立ち直るさ」
「……そうだよね」

 鶴丸の声が名前の耳を素通りする。
 長谷部の背中に、顔に、花弁がかかる。それがまるで長谷部の涙のように見えた。
 絶望と孤独に打ち震える刀。それでも尚、主と仲間の遺志を継いで、踏み出そうとする強さに名前は震える。

 名前の黒々した瞳には、桜吹雪の中で悲しみを噛み殺す長谷部以外映っていなかった。
 そんな名前の顔を、まじまじと至近距離で見つめる鶴丸に気付かないほどだった。

「いやあ、驚いた驚いた」
「なっ、何!? 何!?」
「いや何。君がそんな顔をするなんてなあ」
「そんな顔ってどんな顔?」
「おやおや自覚がないと」

 長谷部の邪魔にならないよう、名前と鶴丸が小声で言い合う。
 肩を震わせる長谷部の身体に、桜の花吹雪がいつまでも舞い落ちていた。




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2020年8月16日 再公開

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