いとおしいぬくもり

後編

※このお話は2015年3月31日に発生した緊急メンテナンスを元にしています。ゲーム運営元を批判する意図はありません。
 刀剣破壊や独自設定が含まれます。





 近頃の名前は少しだけ落ち着いてきたようだ。本丸にいる誰もがそう思った。

 以前までは、検非違使という脅威に晒されて、思うように戦績を上げることができず、名前はぴりぴりした空気をまとっていた。
 けれどある日を境に、まとう空気が和らいだようなのである
 現状が改善されたわけではない。検非違使に阻まれていることは変わりないし、毎日のように負傷者が出ている。強力な検非違使に部隊が敗走させられることもあった。

 ──では何が変わったのだろう?

 刀剣男士達が疑問に思うのは、ごく自然なことだった。



   ※※※※※※※


 名前の執務室。畳の敷き詰められた二、三十人ほどの男士が入っても余裕がありそうな広い部屋の中央に、座卓を置かれている。
 座卓を挟んで名前と近侍の長谷部が座っていた。

 先ほど戦場から帰還したばかりの長谷部が、部隊長として戦績を伝えている。
 今回の負傷者、持ち帰った資源等々……。細々とした内容を簡潔にまとめる長谷部に、名前は時折質問をしつつ聞き入る。長谷部の煤色の睫毛が、沈みかけた西日に照らされ、光っている。

「──報告は以上です。何かお聞きになりたいことはありますか?」
「いいえ、大丈夫です。長谷部さんもゆっくり休んでください」
「御心遣い痛み入ります。主もあまり根を詰め過ぎませんよう。何かお手伝いすることはございますか? 仕事が残っているようでしたら、仰ってください」
「いいえ、さっき皆の手入をする前に済ませたから大丈夫。お疲れ様です。長谷部さんもどうぞ休んでください」
「はっ、失礼致します」

 名前に深々と一礼し、長谷部が立ち上がる。その時、長谷部が名前から視線を外した。名前が気になって身じろぎしている間に、長谷部はすっと障子を閉めて部屋を後にしていた。
 つられて名前が長谷部の見ていた方を見ると飾り棚があった。名前と刀剣男士達の功績を称えた勲章が飾られていた。
 どれも埃一つなく、ぴかぴかに磨かれている。
 ぼうっと飾り棚を眺めていた名前だったが、唐突に目を丸くした。

「しまった。長谷部さんにお礼を言いそびれた」

 執務室の奥にある小型の冷蔵庫を悔しそうに睨む。
 名前は長谷部に一言お礼が言いたかった。第三勢力検非違使の出現により、名前達は苦戦を強いられていた。その間、名前はずっと思い悩んでいたのだ。
 いたずらに刀剣男士達を出陣させて、時に敗北し、激しい損傷を負わせてばかりのことに負い目を感じていた。それを長谷部が慰めてくれたことで、解消できたのだ。

「せっかくお礼のケーキも買っておいたのに……」

 長谷部達が出陣する前に、皆の目を盗んで万屋で小ぶりなショートケーキをワンホール購入しておいたのだ。お洒落な皿にフォーク、ナイフ、ティーセットまで用意したので、抜け目はない。
 お湯は電気ポットがあるので、いちいち厨まで行く必要もないだろう。
 後は長谷部に話を切り出すだけだ。

 ああ見えて長谷部は甘い物に目がない。
 普段は和菓子ばかり口にしている長谷部が、ショートケーキを初めて食べたらどんな顔をするのか、想像するだけで名前の頬が緩んだ。

 だがあまり時間がなかったせいで速足で戻ってきたため、形が崩れていないか内心不安だ。
 きっとショートケーキを気に入ってくれるだろうが、せっかくのお礼の品が型崩れていたら台無しだ。
 恐らく長谷部は許してくれるだろうが、名前自身が許せない。
 障子を薄く開いて、廊下に誰もいないことを確認してから、冷蔵庫をそっと開ける。その時だった。

「主様、近頃は調子が良いようですが、何かありましたか?」

 いつの間にか傍に控えていたこんのすけが、名前を見上げていた。

「えっ!?」

 名前は目を白黒させながら、慌てて冷蔵庫の扉を閉める。

「調子が良い? 前に比べれば検非違使なんて敵も出てきて、とても絶好調と言えない状態だけど」
「戦績ではなく、主様のお顔が大分優しくなっていますよ」
「そう? ごめんなさい、あんまり自覚ないかも」
「主様が落ち着かれたのでしたら、何よりです。主君がどっしり構えていれば、それだけ刀剣男士の皆様も安心して戦闘に専念できますから!」
「そっか。ねえ、こんのすけ。ちょっと相談があるんだけど」
「はい、何でしょう?」

 名前はこんのすけに話した。
 以前は刀剣男士──特にへし切長谷部──との関係に悩んでいた。けれど、先日他でもない長谷部から心強い言葉をもらえたことで、落ち着くことができた。だから長谷部に何かお礼がしたいが、神様は何をしたら喜ぶだろうか。お礼の品にケーキを用意しているが、おかしくないか、と。

「そういうことでしたか。一般的に神々には御神酒を捧げることが多いようですが……。ケーキでもよろしいのではないでしょうか。へし切長谷部という神に限定すれば、彼は持ち主に認められたいという欲求がとりわけ強いようです。ですので、仲間の前で大げさに褒めて差し上げるだけでも喜ばれましょう」
「おみき……?」

 聞き慣れない言葉に名前は首を傾げる。

「簡単に言ってしまえば、神様に供えるお酒のことです!」
「お酒ね。ああ、長谷部さんならお酒がいける口だから、喜ぶかも。だったら宴会を開いて、その時にお礼を言うのはどうかな。でもいきなり宴会を開いたらおかしいよね」
「そんなことはございません! 本日はかの神の本体であるへし切長谷部が、国宝に指定された日です。国宝指定記念日にお祝いする審神者がいらっしゃるとの噂ですよ」
「そうなんだ。こんのすけはどこでそんな噂を?」
「こんのすけにはこんのすけのネットワークがございますから!」

 自慢げに尻尾をふわふわとたなびかせて答えるこんのすけ。
 その無邪気さに名前は笑って、尻尾と頭を撫でてやった。

「じゃあ早速宴会の準備をしましょうか。まずはお酒と料理の支度をしないと」

 名前が立ち上がろうとした時である。
 本丸中を不快な警告音が響き渡ったのは。



   ※※※※※※※



『緊急事態発生。緊急事態発生。これより二時間後、緊急メンテナンスを行います。屋外にいる方は速やかに城内へお戻りください。審神者の皆様は遠征、出陣中の部隊を呼び戻し、ゲートを封鎖してください。繰り返します──。』

 腹を響かせる警告音と共に、合成音声が告げる。
 本丸は時折政府から、セキュリティ向上や新システム導入のためにメンテナンスを行われる。だがアナウンスや警告音が鳴り響くようなことは、今までなかった。

「何?」

 名前が戸惑い、こんのすけを振り向くと、彼は先ほどの朗らかな様子から一転、ぴたりと人形のように微動だにしない。
 常なら黒々とした目だけが赤く光っている。政府から送信された電文を、読み取っている真っ最中のようだ。

「主!」

 ばたばたと激しい足音がいくつも執務室にやってきた。近侍のへし切長谷部に第一部隊の面々。近くにいた男士達も集まっている。
 どの者も一様に武装をし、緊張した面持ちで名前を見ていた。

「私は大丈夫! すぐに政府から正式な発表が来るから、待っていてください」

 皆が固唾を飲んでこんのすけを見守る。
 こんのすけの瞳が赤から黒に戻った。すると、はっと一瞬身じろぎしたこんのすけが口を開いた。

「政府から緊急電文です! 歴史修正主義者の妨害により、本丸に致命的な問題が発生しております! 至急修正致しますので、ご用意をお願い致します!」

 こんのすけの言葉を聞いた途端、執務室が動揺に包まれた。

「主、門が封鎖される前に、早急にお逃げください。ここは危険です」
「めんてなんすまで時間がありませんよ。急いでください!」
「妨害ってどういうことだよ!」

 名前を逃がそうと躍起になる者、現状を把握しようとこんのすけに食って掛かる者、同士を探そうと部屋を駆けだす者。皆が混乱してしまっている。
 長谷部が「主!」と名前を呼んで、手首を掴んだ。そのまま城門の方まで引っ張り出そうとする。名前を現世へかえそうとしているのだろう。
 名前は長谷部の意図に気付いて、慌ててその場で両足を踏ん張った。そして強引に長谷部の手を振りほどいて、ぱんっと両手を合わせた。

「落ち着いて!」

 名前が大声で叫ぶと一瞬で静まり返った。

「落ち着いて。……こんのすけ、話せる情報だけでいい。教えて、何が起こってるの?」

 刀剣男士に首を掴まれていたこんのすけが、するりと腕から飛び降り畳に着地する。
 ぶるぶる震えて、乱れた毛並みを整える。

「は、はい。ご報告致します。今回の妨害は主様の生死に関わる物ではございません」
「では何に対する妨害だ!」
「皆様方、刀剣男士様達への妨害です」
「まさか検非違使って敵が出した刺客?」
 皆がこんのすけに食って掛かるが、こんのすけはぶるぶると全身を震わせて答えた。
「そうではありません。主様、聞いた覚えがありませんか? モニターに表示された戦場の状態と、実際の刀剣男士の負傷状態が異なっていたという噂を」
「……演練で聞いたことがある。審神者からは軽傷と表示されていた刀剣男士が、実際は重傷まで追い詰められていて、気付かずに進軍させてしまったという話。まさかそれが遡行軍の妨害だったの?」
「仰る通りです。本当に申し訳ありません」

 こんのすけと名前のやり取りを、真剣な面持ちで聞いている刀剣男士達。

 歴史修正主義者と政府軍の戦争だが、人間の肉体は歴史遡行に耐えられないため、実際に戦うのは刀剣男士達だ。
 だから刀剣男士達の傍に、羽虫や小鳥などの形を取った式神が、戦場の様子を審神者に逐一報告する仕組みになっている。審神者の執務室に戦場の映像と音声を再生するモニタが備えられており、リアルタイムで状況を確認することができるのだ。
 だが頼みの式神が、歴史修正主義者によって誤った情報を報告し、刀剣男士が破壊されてしまう事例がいくつか存在したという。

 名前は聞いていて、血の気の引く思いがした。

「他に、問題はあるの?」
 名前が尋ねるとこんのすけは首を横に振った。
「いいえ。現時点では確認されていません」
「わかった。報告ありがとう」

 こんのすけの頭を一つ撫でてから、皆に向き直る。見てみれば先程の警告音を聞きつけて、本丸中のほぼ全ての刀剣男士が、名前の傍に集まっていた。
 一つ咳払いをして、名前は声を張り上げる。

「こんのすけが言った通り、政府から支給されている式神に、歴史修正主義者による妨害がありました。ただし影響があるのは戦場に出ている時のみで、それ以外に影響はありません。これから政府が問題を修正するために、本丸の機能が停止します。一定時間あなたたちの顕現が解除され、刀に戻ってしまいます。城の外にいては危険なので、全員城の中で待機してください。それと有事の際にすぐ対応できるよう、必ず武装して自分の本体を持っていてください。いいですね?」

 名前の呼びかけに、刀剣男士全員が応える。彼の声に合わせて、壁と天井がビリリと振動した。それに満足そうに名前が頷く。
 目視では恐らく顕現している刀剣男士は全て揃っているようだが、名前は念のため全員の名を呼んで確認することにした。

「では、今から点呼を取ります。呼ばれたら返事をお願いします。三日月宗近!」
「うむ」
「次、今剣」
「はーい! ここにいますよ」
 にこやかに元気よく今剣が答える。
 途中で長谷部が名前に刀帳を差し出した。「ありがとう」と頷き、点呼を続ける。無事、名前の元に顕現した刀剣ほぼ全員が、城内にいることを確認できた。この場にいないのは、手入部屋で治療を受けている数名のみだ。

「では皆、私室に戻っていてください。私は手入部屋の人達に情報を伝えてきます。多分いきなり警報が鳴って驚いていると思うから」

 手入部屋へ向かおうとした名前を長谷部が呼び止める。

「俺も参ります」
「え? 一人で大丈夫ですよ」
「こんな時に単独行動は危険です。お供させてください」

「主さん。兼さん達には、僕が伝えておきます! 主さんはここにいて、皆を安心させてあげてください」

 二人の間に入ってきたのは、第一部隊所属の堀川国広だった。今手入部屋にいる和泉守兼定の相棒でもある。
「ありがとう。私はここにいます。何かあったら呼んでください」

「はい。じゃあ行ってきます!」

 ぱたぱたと速足で堀川が手入れ部屋の方に向かう。

 夕日が沈み切り、城を月明かりが照らし始めている。
 メンテナンスまで、あと一時間を切っていた。



   ※※※※※※※



 名前に私室に戻れと命じられたが、ほとんどの刀剣男士達は執務室の周囲にいた。皆不安なのだ。
 そして近侍の長谷部は、とりわけ名前の身を案じていた。

「主はめんてなんすの間、どうされるのですか? 本丸の外へ移動されるのですか?」
「いいえ。私も本丸に残ります。大丈夫、悪いものが入ってこないよう城門を封鎖するし、私の部屋にも結界を張っておきますから」

 長谷部の表情の曇りに気付いた名前が、笑いかける。城門とは本丸から別空間に移動するための門である。城門を封鎖してしまえば、現世に帰ることも時間遡行をすることも不可能となるため、本丸に攻め入ることは防げる。
 名前は懐から結界を張るための御札を取り出して見せた。これは各審神者に支給された御札で、霊力がなくても 結界を張ることができる優れ物だ。
 それでも不安の種は解消されないらしく、長谷部の表情は晴れない。

「めんてなんす中も肉体を維持できれば、お傍でお守りできるというのに……。お役に立てないこと、どうかお許しください」
「それはあなたのせいじゃないですよ。謝らないでください」
「でしたらせめて、俺を傍に置いてください。必ずお守り致します」


 長谷部が躊躇いもなく差し出したのは、彼の本体である『へし切長谷部』の刀そのものだった。豪奢な拵えが、灯に反射し光る。


『もう置いていかれるのも、主が変わるのもごめん被ります。だからどうか、貴女のお傍に……。主……』


 長谷部の言葉が突如名前の脳裏にリフレインする。自分の一番大事な物を差し出し、傍に置いてだなんて、まるでプロポーズのようではないか。

 気持ちは嬉しい。内心浮足立ちそうになるが、名前は慌てて表情を引き締める。

「でもあなたにとって、一番大事な物でしょう。それを預かるなんて」
「“主になら”、俺の全てをお任せします。どうか遠慮なさらずお受け取りください」
「いえ気持ちは嬉しいですが、刀は長谷部さんにとって魂みたいなものでしょう。それをおいそれと」
「“主だからこそ”、俺を正しくお使い頂けると、確信しています。さあ、どうか遠慮なさらず」

 主、の部分を殊更強調してくる長谷部は何ともいじらしい。恐らく長谷部自身も、先日手入部屋で名前と話したことを覚えているのだろう。

 名前が長谷部達に主として認められていないかもしれないという不安を、長谷部は見抜いている。
 その不安をつくように、『俺は貴女に最後の主であってほしいと思います』と言われ、躊躇せず本体を預けられたら、名前に舞い上がるなという方が無理なのだ。
 さあ、さあ、と普段以上の押しの強さに、名前はあっさり陥落した。
 自分の本体を持つ名前に、長谷部は満足そうに頷いた。
 執務室には長谷部と同じ刀剣男士が、ほぼ全員残っている。彼らは長谷部と名前のやり取りを、羨望の眼差しで見ていた。そんな彼らを振り返り、長谷部はわざとらしいほど真面目腐った表情で言い放った。

「これで主の守りは万全だ。お前らはさっさと部屋へ戻れ」

 執務室で盛大なブーイングが巻き起こったのは、言うまでもないだろう。



   ※※※※※※※



 大荒れに荒れた執務室が、やっと静まり返った。
 結局執務室にも刀剣男士達が残って、名前の番をすることになった。とはいえ、メンテナンスに入れば刀本体のみが残されるので、名前は刀だらけの部屋でメンテナンス終了を、一人待たなければならない。
 無造作に刀を放置するのは気が引けるので、各々刀掛けを持参してもらった。

 名前は刀剣男士達が城の中に全員揃っていることを再度確認してから、城門を封鎖した。
 その後、本丸中の戸締りを刀剣男士達と手分けして確認する。既に日が落ちてから時間が経っているため、灯りをともしながらの作業となる。
 忙しく駆け回る名前達に気を利かせて、食事当番が握り飯と豚汁、白菜の漬物、ほうじ茶などの簡単な夕餉を皆に配って歩いていた。

 夕餉を食べ終わってから、名前は執務室に戻り、隙間なくぴたりと障子を閉めた。そこに懐から取り出した御札を貼りつけ、ぼそぼそと何某かを呟いている。すると、パシンと小さな音を立てて、目には見えない結界が張られた。これでもう誰も執務室に入ることはできない。
 これでメンテナンスまでの準備は整った。

 メンテナンス開始まで、後少し──。




   ※※※※※※※



「では主、これよりしばしお暇頂きますが、必ずお傍でお守り致しますので、どうかご安心ください」

 正座する名前の前で、長谷部が名前の手に己の手を添えて宣言する。
 手袋越しに感じる長谷部の体温に、名前はどぎまぎした。

「は、はい」
「めんてなんすが長引いてしまった時は、無理せずお休みください。先程太郎太刀が、部屋の入口の結界を強化しておりましたので、守りは万全です。ですが──」

 長谷部の視線が、名前の膝元にある“己自身”を見つめる。

「もし、万が一のことがありましたら、どうか俺をお使いください。決して躊躇してはなりません。その隙を突いて敵は襲ってきます」
「うん、ありがとう」
「女人の主にこんなことを言わねばならぬ境遇が、非常に口惜しいですが……。生き残るためです。どうか御無事で、」

 唐突に長谷部の姿が掻き消える。メンテナンスが始まったのだ。
 先程まで賑やかだった執務室が、しん、と静かになってしまった。

 審神者に就任してから既に三月弱。

 メンテナンスは何度もあったし、この静けさを名前は既に経験している。それでも夜半のメンテナンスなど初めてのことだ。
 昼間の明るい最中に行われるならまだしも、仰々しい警告音とアナウンスで始まった夜半の緊急メンテナンス。さすがの名前も不安になる。

 すると、腕の中でへし切長谷部が微かに動いた気がした。

「守ってくれるんですものね、長谷部さんが」

 金色の拵えをそっと撫でる。長谷部の顔が見えた気がした。



   ※※※※※※※



 薄暗い本丸。耳鳴りのキインと甲高い音が耳に響く。

 名前は不安になってこんのすけを振り返ってみたが、彼は両手をついて頭を下げていた。メンテナンスが開始されると、こんのすけの機能も停止するため、自動でこの体勢になるらしい。

『本日はかの神様の本体であるへし切長谷部が、国宝に指定された日です。』

「あっ」

 名前はこんのすけを見ていて、思い出した。
 今日はへし切長谷部の記念日だ。そのお祝いついでに長谷部に礼を言いたいと思っていたことを。さすがにこんな空気の中で、宴会をするのは気が引けるが、長谷部に酒を贈る位はしても罰は当たらないだろう。
 既に結界で部屋を封じてしまったため、厨に行くことはできないが、執務室の冷蔵庫ならば確認できる。

 へし切長谷部を刀掛けに置いて、立ち上がった。
 長谷部に背を向け、何歩か歩くと

 ガシャン。

 大きな音が鳴った。

「ひっ」

 慌てて振り向くと、刀掛けにきちんと置いたはずのへし切長谷部が畳の上に転がっていた。
 おかしい。ちゃんと置いたはずなのに。
 もう一度置き直して立ち上がると、まさにひとりでに、へし切長谷部が畳へと滑り落ちた。

「……その状態でも動けるんですか?」

 長谷部に問うが、当然答えは返ってこない。

『もう置いていかれるのも、主が変わるのもごめん被ります。だからどうか、貴女のお傍に……。主……』

 先日の長谷部の声が脳裏をよぎる。長谷部は『最後の主であってほしい』と言っていた。そして傍に置いてほしいとも。
 その上刀だけの状態で、ここまで自分を案じてくれるなんて、主冥利に尽きるではないか。

 一つため息を吐いて、長谷部をそっと拾い上げる。

「わかりました。ごめんね。もうどこにも行きませんから」

 もう一度へし切長谷部を腕に抱え、柄を撫でてやるのだった。



   ※※※※※※※



 時刻は二十三時を回ろうとしていた。
 キュゥウウン、と小さく唸りながら、こんのすけが起き上がる。

「お待たせ致しました! 主様、緊急メンテナンスが完了しました。ご不便をおかけして、誠に申し訳ありませんでした! 既に敵軍の妨害により発生した問題は取り除かれています。皆様にご迷惑、ご心配おかけしたこと、謹んでお詫び申し上げます。誠に申し訳ありませんでした。このバグが原因で破壊されてしまった刀剣に関しましては、後日政府より補填致します」
 こんのすけの言葉に、名前は胸に手を当ててほっと息を吐いた。
「大丈夫よ、この本丸で破壊された刀剣は誰もいないから」
『緊急メンテナンスを終了致しました。システム、オールグリーン。通常業務に移行してください。繰り返します──』

 名前の言葉にかぶさるように、合成音声が流れる。やっと夜半に行われたメンテナンスが終了したのだ。

 執務室中に何十人分ものため息がどっと被さる。皆思い思いに人の体になって、動き始めていた。

 障子の外には名前の無事を確かめに、刀剣達がやってきている。
 やっといつもの騒がしさが戻ってきた本丸に、名前は頬を緩めた。そんな名前に、長谷部が微笑んだ。

「御無事で何よりです。主」
「守ってくれて、ありがとうございます。長谷部さん」

 そして長谷部の手に本体を返すのだった。



   ※※※※※※※



 皆がひとしきり互いの興奮や混乱を共有し合い、やっと騒ぎが収まったのは日付が変わる直前のことだった。
 それぞれ私室に戻っていく中、名前と長谷部だけが執務室に残っている。
 もう夜遅いが、長谷部と二人きり。これはお礼を言う絶好の機会ではないか? と名前は内心話を切り出すタイミングを虎視眈々と狙っていた。お神酒は用意できなかったが、仕方ない。ケーキがあるだけ良しとしよう。

「お疲れ様でした。本日は大変な日でしたね」
 長谷部が気遣わしげに目を細め、優しい声音で言う。
「本当に。うちでは被害が出ていなくてよかったです」
「夕餉も慌ただしく召し上がることになりましたが、腹は減っていませんか? 夜食をご用意致しますよ」
「ううん。ね、ねえ、長谷部さん」
「はい?」
「長谷部さんはお腹すいていませんか? よければお菓子があるんですが、食べませんか?」
「はっ、主がおっしゃるのなら」

 名前は慌てて冷蔵庫からショートケーキの入った箱を取り出す。突然可愛らしい小箱を名前が取り出したものだから、長谷部は目を丸くして見つめていた。

「主が何度も席を立とうとしたのは、それのせいですか。余程空腹でいらっしゃったんですね」

 珍しく長谷部が茶化す。名前は顔から火が出るかと思った。

「違います!」

 慌てて否定し、座卓の隅の電気ポットからティーカップとポットに湯を注ぐ。用意を手伝おうとした長谷部だったが、「私がやりますから、座っていてください」と名前に言われ、大人しく座り直した。

「これは、食い物ですか?」
「はい。ショートケーキという洋菓子です。ふわふわしたスポンジの上に、甘いクリームが塗ってあっておいしいんです」
「万屋で拝見したことがあります」

 期待を抑えきれない声音で長谷部が言う。初めて食べるショートケーキが、気になって仕方がないらしい。だが、すぐに首を傾げる。

「ところで主、これを俺が頂戴してよろしいのですか? けーきと言うのは、特別な日に食べるものだと伺っていますが」
「いいんですよ。今日は特別な日ですから」

 長谷部と自分の前にティーカップを置き、紅茶を注ぐ。

「そうなのですか?」
「あなたが、『へし切長谷部』が、この国の国宝に指定されたのが今日、三月三十一日だとこんのすけから聞きました。だから、ささやかながらお祝いしたいと思って。迷惑でしたか?」
「俺が……? いえ、迷惑など、とんでもない! それほど俺のことを気に掛けていただけるなど、光栄の極みです!」

 一瞬戸惑うそぶりを見せたが、長谷部は素直に嬉しいと相好を崩した。

「自分のことなのに、国宝指定された日を知らなかったんですか?」
「大分前に国宝に指定されたことは覚えています。ですが主のいない間の大半を眠って過ごすので、日付や時間の感覚がとても曖昧になるのです。そもそも日時や年号と言った言葉は、人間独自の慣習ですから、俺達刀にとってあまり意味のないことなのです」
「そうなんですか。やっぱり人とあなたたちではだいぶ感覚が違うんですね」
「ええ、そうですね……」

 名前の率直な感想に、長谷部は表情を曇らせた。少し気まずい空気になってしまったのを、慌てて互いに気を使う。

「ごめんなさい。さ、早速ケーキを開けましょうか。型崩れしてないといいんですけど」

 封を切り、箱を開ける。
 そこにはきちんと型崩れせずに綺麗なままのショートケーキがあった。名前がほうと息を吐いた。切り分けようとケーキナイフを持つと、自分がやると長谷部がやんわりナイフを手に取る。
 自分にやらせてほしいらしい。

「ケーキは柔らかいから、力を込め過ぎないように気を付けてくださいね」
「善処致します」

 慎重な手つきでさく、さくとケーキを切り分ける長谷部。その表情は真剣そのものだった。切り終わったケーキを皿に取り分ける。
 二人の前にケーキを用意できてから、「いただきます」と口をつける。

 ふんわりした甘いホイップクリームと苺の酸味が口に広がり、自然顔が緩む。評判通り、おいしいケーキだった。
 隣の長谷部を見ると、うっとりと目を閉じていた。名前の視線に気付くと、照れくさそうに笑った。

「ふわっとしていて、饅頭や葛餅とは全く違う甘さですね。思ったよりも甘みが強いです」
「おいしいですか?」
「はい、美味いです!」

 長谷部はあっという間にケーキを一切れ食べ終わってしまった。
 遠慮しないでもっと食べてください、と名前が勧めると、長谷部は躊躇せずもう一切れを皿に移した。名前が一切れを食べ終わる頃には、小ぶりなホールケーキの半分が長谷部の腹の中に入っていた。
 長谷部自身もそこまで食べているつもりはなかったらしい。恥じらうように顔を赤らめた。

「ご馳走様です。俺ばかり頂いてしまって、申し訳ありません。主ももう一切れいかがですか?」
「ううん、私はそこまでお腹が減っているわけではありませんから。良ければ全部食べてもいいんですよ」
「いいえ、せっかく主にご用意いただいた物を、一気に食べてしまうのは勿体なく……」
「ふふ、わかりました。残りは明日食べましょう。気に入ってもらえてよかったです」

 残りのケーキを箱にしまい、パタンと蓋を閉める。
 そして意を決して長谷部に向き直った。

「長谷部さん、この間はありがとうございました」
「この間、とは何のことです?」
「あの、長谷部さんが手入部屋で私を励ましてくれたでしょう? 最後の主であってほしいとか、傍に置いてほしいとか」
「ええ……」

 戸惑いがちにぎこちなく長谷部が頷く。名前は長谷部が先日の出来事を覚えていてくれたことに安堵し、話を続ける。

「私あの時は審神者としての自信をなくしていて、すごく辛かったんです。だから、長谷部さんに元気づけられて、とても嬉しかったんです。それにいつもお世話になっているから、長谷部さんに改めてお礼を言いたかったんです。いつも支えてくれて、ありがとうございます。これからも私の傍で支えてください」

 名前は精一杯感謝の意を伝えたつもりだった。けれど、長谷部の表情は晴れない。むしろ曇る一方だった。

「長谷部さん、どうしました? 何か失礼なことを言ってしまいましたか?」

 戸惑いがちに問うと、長谷部は答えない。しばらく考え込むような仕草をした後、長谷部はぐっと身を乗り出した。

「大変申し訳ありません。先日俺が申し上げたことは間違いなく俺の本心です。ただ、行き違いがあったようですので、補足をさせていただいてもよろしいですか?」
「補足……」
「はい……。傍に置いてほしいを主は『臣下として』と受け取っていらっしゃるのですね。俺はそういう意味で、いえ、臣下としての意味も含みますが、別の意味も込めて申し上げました」
「別の意味、ですか?」

 唐突に真剣な表情になった長谷部に、名前は戸惑いを隠せない。長谷部のただならない様子に、名前は背筋を正す。

「俺は貴女の『夫として』終生お傍に置いていただきたいのです」

 長谷部の言った意味を、名前は測りかねていた。が、すぐに夫という言葉の意味を脳が理解し、一気に名前の頭が混乱を極めた。
 反射的に立ち上がろうとした名前の両手を、長谷部が握りしめて逃がさない。

「え、えっ!?」
「配下として、己の主君にこんなことを望むのは間違っていると分かっています。ですが、俺の生涯の伴侶になってほしいと思います。他でもない貴女に」
「で、でもっ、私は人間で、長谷部さんは」
「分かっています。主とは暦のような些細な感覚さえ異なっていたことも。どれほど見た目が人の身に似ていたとしても、俺は刀であるということも。それでも、俺は貴女の傍に置いていただきたいのです!」
「は、長谷部さ……」
「混乱、していらっしゃいますよね。それも当然です。俺も主に恋慕の情を傾けていることを自覚した時は、大層困惑致しましたから。それでも主に、貴女に惹かれることを止められませんでした」

 名前は口をパクパクと開け閉めする。しかし長谷部はそんな名前を笑わなかった。真剣な表情を崩さないまま、言葉を紡ぐ。

「主が日々一所懸命俺達と向き合おうとする様や、裁縫が苦手で不器用でいらっしゃること、失敗して気落ちしてもすぐに立ち直って健気に励む姿を見ると、いとおしさがこみあげてきて。生涯お傍で支えたいと思うのです」
 頬を上気させて伏し目がちに己の気持ちを吐露する長谷部。その内容に名前は別の意味で顔が真っ赤に染まった。
 まるで自分の恥ずかしいところばかり見られている。

 名前はずっと優れている人こそが、他人に好かれるものだと思っていた。
 けれど長谷部は、名前の駄目な部分を含めて、全て見てくれた上で、自分をいとおしい、傍にいたいと言ってくれたのだ。生真面目な長谷部が、己の気持ちを包み隠さず全て話してくれるには、相当の覚悟が必要だっただろう。
 だったら、異性として誠実に応えたい。こんな時だからこそ、主従関係や神と人間などという隔たりは、忘れてしまおう。

「わ、私で、いいんですか?」

 恐る恐る名前が問う。長谷部がさらに身を乗り出してきた。名前の手を握る手に一層力がこもる。
「はいっ、貴女がいいんです」
「私も、戦場で一番誉を取ってきて、自分以外の仲間の仕事も一生懸命手伝って、毎日努力している、長谷部さんが、好きです」

 名前も照れくささを押し隠しながら、長谷部への気持ちを率直に伝える。
 ぎこちなくて、どうしてスマートに返事ができないんだろうと思ってしまうが、それでも長谷部の表情はみるみる晴れていく。
 するりと長谷部の腕が伸びてきて、名前をぎゅうぎゅうと抱き締める。

「主! ああ、嬉しい……、嬉しいです……主……」

 何度も口の中で噛み締めるように長谷部が囁く。

「どうか、ずっとお傍に置いてください……。名前様」
「ええ、ずっと、一緒ですよ」

 名前が腕を伸ばし、長谷部の背中を撫でると、長谷部は嬉しそうに身体全体を名前に擦り寄せる。
 こうして、日付は四月一日に変わり、夜も更けていくのだった。




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加筆修正し再公開 2020年8月9日
初出2017年4月4日

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