※この物語は、7-3延享の記憶 江戸城下が実装されたばかりの頃のお話です。
江戸に出陣していた第一部隊が帰還した。
幕末の京に延享の白金台と、全く異なる合戦場に数度出陣した刀剣男士達は、疲れの溜まった様子だった。
幸いにも無傷と言えないまでも重傷者を出すことはなかった。
損傷のある者は手入れ部屋へ、それ以外の者は休息を取っている。
京と白金台両方に出陣した、近侍であり第一部隊長のへし切長谷部。
彼は手入れが済むと速やかに名前の部屋へとやってきて、書類仕事を手伝うのだった。
「今日の仕事はもういいから、休んでください。さすがに疲れたでしょう」
名前が声をかけても、頑として近侍の仕事を引こうとしなかった。
「此度の戦績を書類にまとめるのであれば、出陣していた俺がいた方が主としても都合がよろしいのでは?」
と強引に名前の隣に座布団を敷いて、書類に手を付け始める。
「長谷部さん」
名前が強めに声をかけても長谷部は動じることがなく、
「俺が疲れているように見えますか?」
と己の周囲を舞う桜の花弁に似た何かを指さし、誇らしげに胸をそらした。
刀剣男士の周囲に舞う桜は、彼らの気分が高揚している証。
疲弊している時に桜が舞ったりはしない。
説得を早々に諦めた名前が、「いつも無理させてごめんなさい。でも、助かります」とため息交じりに言えば、長谷部は満足そうに笑って見せるのだった。
今日は第一部隊が朝一で出陣したときから、雨が静かに振り続いている。
障子越しに聞こえる雨音に、名前はため息を吐いた。
「今年はもう会えないかもしれませんね」
名前の横で粛々と書類整理を行っていた長谷部が、顔を上げて名前意図を測りかねた様子で目を瞬かせる。
「今日は七夕でしょ」
と壁にかけられた日めくり暦を指さす。
雨が降っていれば織姫と彦星は会えない。せっかくの七夕なのに天候が悪くて残念だと言いたかったのだ。
すると長谷部は合点がいったように頷いた。
「失礼致しました。会えないと仰るからてっきり“あれ”のことかと」
「あれ?」
「とぼけられますか。“あれ”ですよ。先日実装された新しい刀のことですよ。主の元に顕現されていないよその刀剣を見かけて、羨ましそうにしておられたでしょう」
出し抜けに長谷部が口に出したのは、まだ本丸に来ていない刀剣のことだった。
ぎょっとして作業の手を止めた名前に構わず、長谷部は続ける。
非常に良い笑顔で。
「短冊に“あれ”が来るように書いておきましょうか」
続いた言葉に名前は絶句する。
普段の長谷部であれば、自分以外の刀剣を招くことをよしとしない。
そんなことを名前が言えば、即座に不機嫌な空気を漂わせて、極端に口数が少なくなるのだ。
「書く気なんてさらさらないくせに、何を」
「いいえ、主命とあらばお書きしますよ。主の元にあれが一日も早く来るよう、丹精込めて願いましょう」
長谷部の嫌味なほど清々しい笑顔に、名前は眉をひそめた。
端から願う気などさらさらない態度と、自分と同じ刀剣男士をあれと呼び、物と同等の扱いをする長谷部。彼のそんな性格を、名前はどうも気に障った。
長谷部は顕現されたばかりの頃、自分達刀剣男士と親交を深めようとする名前を疑問に思っていたらしい。
名前にとって、コミュニケーションとは大事なものと考えていた。
せっかく人の身を持った刀剣男士。
心の温まる親交を深めたいというのも理由ではあるが、それにもう一つ理由がある。
古今部下や仲間との連携が不足した結果、裏切りや決別が発生した事例は大いにある。
だからこそコミュニケーションを大事にしたいと名前は思っていた。
コミュニケーションが不足すれば、あらぬ誤解を生む。
それが本丸の中でだけだったら、まだ問題はない。もしもその誤解が戦場で発生してしまったら?
連携不足し、肝心な場面で足の引っ張り合いや大きな損害を生むかもしれない。
だからこそ、名前は刀剣男士達同士のコミュニケーションを取るよう、強く勧めていた。
馴れ合いをしろというわけではない。
しかし、名前のそんな思いを理解できなかった者がいる。
それが名前の今目の前にいる長谷部である。
『何故我々を人と同じように扱うのです? 所詮は刀ですよ』
お気遣い痛み入りますが、とおざなりに付け加えてはいたが、戦に刀同士の親交など不要なのだから、無駄なことはやめろと長谷部は言いたかったらしい。
そのように主張していた長谷部だったが、常に名前の傍に侍り何くれと話しかけてくるのは、嫌味に笑うこの男である。
「相変わらずあれだの、それだの言って。長谷部さんはどう扱われれば満足するんです? 刀として重宝されたいのか、人として愛されたいのか、私には判断つきかねますね」
「分かっているくせに御人が悪い」
名前の皮肉を鼻で笑い、長谷部が長い腕を衣擦れの音も立てずに伸ばす。
名前が逃げようとした時には、既に長谷部の腕の中にあった。
「仕事中ですよ」
「終わりました」
長谷部の指さす先。
卓の上には、既に本日の戦場での報告をしたためた書類が、ぴっちりと一分の隙もなく重ねてあった。
「そうですか。さすがは長谷部さん、仕事が早いですね。でも、いきなりこういうことをされるのは、ええと、恥ずかしいです」
名前が耳を赤くして、もぞもぞと身をよじる。
「失礼致しました。主命を果たした褒美を一刻も早く頂きたかったもので、つい」
何が、つい、なのか。
名前は苦笑しながら、体の力を抜いてされるがままになった。
「主の元には俺だけがいればいいのです。まだ来もしないつれない刀など放っておけば良いんですよ」
「私は別にどうしても今すぐ来てほしいわけではないですよ。来てくれたら嬉しいなあという程度で」
「嘘です」
長谷部がぴしゃりと断じる。
「何が」
「以前別の奴と話していた時、短冊にあれが早く来るよう書こうと言っていたのを、俺はこの耳で聞いています」
図星である。
「あらあら」
うふふと口元に手を当てて、名前が笑うと、長谷部はいよいよむっとした様子を隠さなくなった。
「普段のあなたはそのような言葉遣いではないでしょう」
不機嫌な長谷部に反し、名前はくつくつと肩を震わせている。
「何がおかしいんです」
「それで今日はやけにむっつりしてるんですか」
「いえ、そのようなことは……」
「まさか私が誰に一番心を許しているのか、未だにわかっていないんですか? ここまで好き勝手に触れさせることを許しているのは、あなただけなのに」
ぐっと喉を詰まらせる長谷部の肩を、名前は優しく撫でてやる。
「ごめんね、不安にさせて」
名前が長谷部の肩に腕を回すと、長谷部は縋るように腕に力をこめる。
長谷部は名前の髪に顔をうずめた。
先ほどまで頑なだった長谷部の肩から、少しずつ力が抜けていくのを名前は感じた。
もう少しすれば、長谷部の機嫌は直るだろう。
以前から長谷部は新しい刀剣を本丸に迎えることに、否定的だ。
それは長谷部を顕現させた時から一貫して変わらない。
戦場で偶然出会った者はまだしも、名前の意思によって刀を打つことに関しては尚更だ。
とはいえ、今名前の元にいない刀剣も、いずれは長谷部が鍛刀なり戦場なりで連れてくるだろう。
主の望むことなら何でも自分で叶えたいと、常日頃から行動している。
そういう男なのだ、へし切長谷部ってやつは。
「……主の御力で天候を変えることはできないのですか?」
少し考えて、名前は首を振った。景趣を晴れた天候の物にすれば、疑似的に天気を変えることは可能だ。
「できないことはないです」
「ではそのようにされてはいかがです?」
「それもいいけど風情に欠けるような気がして……。雨は嫌いですか?」
「いえ、そのようなことは。ただ、我々が今調査している時代は、真夏の蒸し暑い京に、雨の降る江戸です。帰ってきても、雨が降っていては、少々堪えます」
言われて初めて名前は気が付く。
名前は戦場の指揮を執ってはいるものの、実際に戦場に赴くわけではない。
男士達の損傷具合はわかっても、戦場の気温や湿度を感じ取ることができない。
日々不快指数の高い戦場に繰り返し出陣し、やっと本丸に戻っても雨が降り続いていては、憂鬱な気分にもなるだろう。
「ああ、そういうことですか。じゃあ早速、」
景趣を変えてきましょうか、と言いかけた時、障子越しに光を感じた。
名前が障子を少し開けると、朝から降り続いていた雨がふっと止み、薄暗い雲の隙間からまん丸の夕焼けが顔を出したのが見えた。
いつもと同じ時間に寝起きしていたはずなのに、まるで急に一日が終わってしまうかのように錯覚してしまう、不思議な天気だった。
「よかったですね、長谷部さんの願いがかないましたよ」
と振り向いた名前を横に、長谷部の手が伸びて障子が閉められる。
「いいえ、今のは他の出陣している連中の願いです」
互いの息が顔にかかる程、二人の距離が縮まる。
「じゃあ長谷部さんの願いは?」
短冊いりますかと名前は短冊を差し出す。それを長谷部はするりと己の懐にしまい込んだ。
「今から主に叶えてもらいます」
名前を抱き寄せる腕に力が込められる。
「千代に八千代にお傍にいられるなら、どんなものにだって頼りますよ」
長谷部の吐息が名前の顔にかかる。
その熱さに名前は長谷部の生を感じた。