こんな夢を見た。
青紫色の靄がかかった世界に自分がいることはわかる。
靄はどこまでも続いていて、今自分が立っているがまるで浮遊しているかのように天地の存在さえあやふやだが、ここは自分の領域なのだとわかる。
靄の世界の中、一人ではない。
隣にいとしい人がいる。それだけが今の俺の全てだ。
その人を振り返り、顔を覗き見るだけで幸せな気分になれるはずなのに、救いようのない悲しみが俺を襲うのだ。
何故なら隣にいる俺の主は、既に死んでしまっているから。
俺は主の近侍でありながら、お守りすることができなかった。
本来なら彼岸へ行くはずの主を、付喪神の力で辛うじて現世に留めさせている。
主が己の死んだことに気付いた瞬間、魂は彼岸へ行ってしまう。
だから俺は必死で主の気を引き続けた。
生前行きたがっていた場所や食べたがっていた物を無理矢理再現し、時には舞を舞ってみせた。
その度に白らかに笑う主を見ると、初めて俺も心から笑うことができた。
長谷部
、
長谷部
と俺の名を呼び、俺だけを見てくれる主に、安堵する。
俺と主以外存在しない世界。言葉にすると何と甘美な響きなのだろう。
どうか、この幸せな一時が永遠に続きますように。
いいや祈るまでもない。俺にはそうすることができる力があるのだから。
しかし幸せな時は長く続かない。
「あれ……?」
主の瞳が陰る。
自らの死に気付きかけている。
彼岸の使者が、すぐそこまで迫っているのだ。
「どうしたんだろう……。ねえ、
長谷部
」
「主!」
とっさに“男”が肩を掴んで、“女”の目を見据える。
彼女の驚きに見開かれた目が、青紫色の目とかち合った。
「主、何か望みはありませんか? ここならどんなことでもかなえて差し上げますよ」
「ううん、長谷部が沢山のことを叶えてくれたからいいよ。そろそろ休まない? 疲れたでしょ」
彼女が笑う。
少しずつ少しずつ彼女の足の先から、影が上る。彼女の体が消えていく。
その笑顔がどうしようもなく悲しくて腹立たしくて、男は首を力いっぱい横に振る。
「いいえ。疲れてなどいません。主、どうか祈ってください。俺がどんな願いも叶えます」
「もう心残りはないよ。きっと長谷部が私の無念を晴らしてくれたんだから」
彼女は儚げに笑った。
すでに自分の命運が尽きようとしているのを悟っているかのようだった。
その悟りきったような態度が、男の焦燥感を煽る。
「主、死にたくないとおっしゃってください。そうすれば俺はあなたをお連れすることができる。永久に共にいられるのです」
「それは……できないよ。だって私は人間だからいつかは死ぬし」
「戯言でもよいのです。どうか俺と契ってください」
「それでもだめだよ。神様と約束を結んだら──」
正論で諭そうとする“女”に、“男”がついに感情を爆発させた。
「どうしてあなたはいつも、俺のことを見てくださらないのですか!」
長谷部の絶叫が、不思議な世界に響き渡る。
長谷部の作り出した世界が嫌な音を立てて軋み、崩壊していく。
「あなたが俺を見てくださらないから、不安で堪らなくなるのに!」
「長谷部……」
“私”の目の前で“長谷部”が泣いている。
そんな彼に、私は身を寄せて、頭を撫でた。
長谷部の筋肉質な腕が、私の背中に回る。
「ごめんね、ごめんね。長谷部」
「あなたが主として、俺を縛ってくれないから。所有してくれないからいけないんです」
「至らない主で、ごめんね」
「謝ってほしくなどありません。あなたは主君らしく振舞っていればいい。もっとあなたの思うままに生きてほしかったのに」
「うん」
「もっとご自愛なさってください。不摂生はやめてください」
「うん」
「他の刀ばかり見るのはおやめください。俺だけをもっと、見ていただきたかったのに」
「見てるよ。今も長谷部のこと、見てるよ」
私が言っても、長谷部は腕の中でいやいやと子供のように駄々をこねる。
「もっと俺をお傍に置いていただきたかった……。あなたの寿命は、本当に……短いのですから」
「ごめんね」
煤色の髪を撫ぜてやるたび、長谷部は私の胸元に頭をこすりつけた。
藤色の目からだくだくと溢れる涙が、私の肩を濡らし続ける。
回避しようのない別れが、すぐそこまで迫っていることをひしひしと感じながら、私は泣き縋る長谷部に身を寄せて慰めるしか術がなかった。
そこで“私”は目を覚ました。
まず視界に入ったのは見慣れた木目の天井と照明。
そして枕元の傍で、ぷす、っぴー、ぷしゅっ、ぴーと聞きなれた音が聞こえる。お気に入りの座布団の上で丸まって眠りこけているこんのすけの寝息だ。
つ、と視線を自分の胸元に下げるが、当然そこに長谷部などいないし、肩口が湿ってなどいない。
私がいるのは間違いなく、執務室隣の審神者の私室にあてがわれた部屋だ。
ましてや自分がへし切長谷部になっていた、なんてわけもなく、私は私のままだ。
障子越しに届く弱弱しい朝日と小鳥のさえずりから、起床時間が近付いているらしいことはわかった。
枕元の時計を覗くとアラームを設定した時間より一時間ほど早い。
だが二度寝すれば寝過ごしてしまうだろうし、すっかり目が覚めてしまっていた。
やけにリアルな夢だった。
体を起こし、布団を片しながら私は思い返す。
あの夢は、敵の襲撃か何かで私が死んでいるという前提で進んでいた。
手の施しようがないほどの深手を負いほぼ即死だった私の魂を、長谷部が無理矢理自身の領域に連れ込み彼岸へ行くのを免れている。
しかし私が自身の死を思い出したら強制的に彼岸に向かってしまうため、長谷部が必死に私の気を引いているのだ。
通常夢と言えば自分自身の視点で進むことが多いが、今回の夢の最初の内は“長谷部”の視点で、後半の自分の死亡に気付いた時からは“私”の立場に切り替わっていた。
あの長谷部は、笑顔の下で必死に焦燥感と悲しみで圧し潰されそうになっていた。
そして夢と言えばどんなにインパクトのある物であっても、起きてしまえばすぐに指の間から記憶がこぼれ落ちていく物だが、まるで私自身が実際に経験したことのように何もかもを鮮明に思い出せる。
私が長谷部に言ったこと、長谷部の言葉も行動も全て。
もしかしたら長谷部の夢と私の夢が混線してしまったのかもしれない。
以前極になったばかりの今剣と蹴鞠をして遊ぶ夢を見た。
その夢の今剣はまだ極になっておらず、修行に行く前日という設定の夢だ。
何故か本丸に人が少なく、修行へ旅立つ今剣を心配する私に、寂しくないよう蹴鞠をしましょうと今剣が手を繋いで誘ってくれるのだ。
翌日夢の話をしたところ、今剣も同じ夢を見たと言ったことから、発覚した。
主君と刀の夢が時折繋がることがあるのだと、今剣は笑顔で言った。
夢が繋がっていることを自覚できることもあれば、そうではないこともある。
そして夢から覚めても互いに覚えていられるかどうかも、確率らしい。
「だってしょせん、ゆめはゆめでしょう?」
と可愛らしくもどこか皮肉っぽく首を傾げた今剣。
付喪神と人の夢が交差したとしても、所詮は普通の夢と変わらないらしい。
一通り夢のレクチャーを終えた今剣はけまりをしましょう! と私にねだった。
可愛い我儘を叶えてやろうと安直に頷いた私が、筋肉痛に苦しむのはその翌日のことである。
いくら見た目が子供のようでも、彼は自身の本質を極めた神。
蹴鞠とはもっと優雅な物だと思ったけれど、今剣の蹴鞠は全く甘くなかった。
身支度を整えたが朝食までまだ時間がある。
せっかく早起きしたのだから、炊事当番を手伝おうと厨へ向かいながら、ふと笑う。
悲壮感溢れる夢だったが、長谷部の懸命さを思い出すとどうにも微笑ましく思ってしまう。
まだ現世に行ったことのない長谷部が見せるものは、どこかちぐはぐだった。
長谷部の連れて行ってくれた私の故郷は、何百年も昔の田園風景だった。のどかな田園風景が唐突に途切れて、アスファルトの地面になり、ガラスの塔のようなものが所々に突き刺さったていた。
長谷部は博物館に寄贈されてから、数百年博物館の外に出たことはほとんどないという。
私の元にやってきてからも、長谷部を伴って現世に行ったことがないため、長谷部は時折見るテレビや雑誌、書籍などから二千二百五年現在の日本の様子を想像するしかない。
長谷部はビルというものがうまく想像できなかったらしく、謎の細長いガラスのような塔になっていた。
私の故郷はかつて田園地帯だったそうだが、交通網の発達と開発により、大きな政令都市になっている。
彼が作ってくれたフランス料理は、スープの代わりに変わった味のすまし汁が出てきたし、メインディッシュは風変わりなトンカツで主食は白米だった。
現世のことにはとんと疎い長谷部なのだから、ちぐはぐになってしまうのは仕方がない。
そもそも私がフレンチを食べたいなんて思ったことはなかったし、夢でもフランス料理が食べたいなんて言わなかったはずだが、
長谷部はどこでそんな情報を仕入れたのだろう。
けれどわからないなりに持ちうる知識をフル稼働して、私のために尽くしてくれる長谷部がいとおしかった。
そして長谷部自身が踊って見せた舞。
かの織田信長が愛した敦盛というらしい。
彼の特技の多彩さには、いつも驚かされる。
というようなことを夢で私が言ったら、
「あなたにいつか披露するために、色んなことを学んでいるのですよ」
と夢の中ではにかんで見せた長谷部。
私の長谷部は日々近侍として私を支えてくれている。
近侍として事務仕事を手伝うこともあれば、内番の指示を出し、厨で炊事当番を手伝い、外出する私の供をし、出陣させれば必ず一番誉を取って帰ってくる。
私の執務室に飾られた活け花も長谷部か歌仙兼定が交代で活けたものらしい。
戦事だけでなく、事務仕事や炊事、果ては雅やかなことまでそつなくこなせる長谷部だから、もっと自分自身にも器用なタイプだと思っていた。
だが、そうではなかったらしい。
自分の感情を吐露するのが苦手で、甘えることはもっと不得手だったようだ。
別れの予感がすぐそこまで迫っていた悲しい夢の中で、独り置き去りにされた長谷部は、今頃どうしているだろう。
『どうしてあなたはいつも、俺のことを見てくださらないのですか!』
長谷部の切実な叫びが、耳の奥に蘇る。
彼をないがしろにしたつもりはない。
近侍としていつも傍で支えてくれる長谷部だからと、彼の献身に甘え過ぎてしまったのかもしれない。
私が何を言わなくても、問題ないだろうと。
徒然と考えを巡らせていた時、背後から朝の静かな雰囲気にそぐわない激しい足音が近付いてきた。
「主!」
息せききった長谷部が、背後から私を呼び止める。
いつものスタンドカラーシャツの上にカソックを羽織っているが、襟元のボタンが一つずつずれているし、前髪の寝癖が直っていない。
よほど焦って駆け付けたのか、手袋もしていなかった。
「おはよう、長谷部。どうしたの?」
「いえ……起こしに参りましたら、主が寝所からいらっしゃらなかったので、どちらに行かれたかと」
「今日は随分早いね」
私がそう言うと、長谷部は気まずそうに視線を逸らす。
「たまたま、早く目が覚めたもので」
「長谷部、ボタン一個ずれてる。あと寝癖も。顔は洗った?」
「え? ああっ!」
私に指摘されて襟元に目をやり、慌ててボタンを直し始めるが、手つきがおぼつかずなかなか上手くいかない。
主君の私に粗相を見せたことで余計に慌てる長谷部に、思わず声を出して笑ってしまった。
「見苦しいところをお見せして、申し訳ありません……」
叱られた犬のようにしょげ返る長谷部の襟元に手を伸ばし、ボタンを一つずつかけ直す。
長谷部はおやめくださいとか主の御手を煩わせるなどとか言っていたが、
「いいから、いいから。今起きたばかりなんでしょう?」
「はい……」
寝ぼけ眼の長谷部は結局私のされるがままになった。
ついでにそのまま前髪を梳いてやる。意外と頑固な寝癖のようで、なかなか綺麗にまとまらないが、先ほどよりはましになった。
そして近付いた拍子に、長谷部の目元が赤く染まっていることに気付いてしまった。
「ありがとうございます……」
「もしかして私がいなくびっくりしたの?」
「朝が弱い主がいらっしゃらなかったので、取り乱してしまいました。御手を煩わせて申し訳ありません」
しょげかえってうつむく長谷部の目は、ずっと足元を見ている。
その様子が先ほど夢の中で、私に置いて行かれた長谷部と重なって見えてしまった。
ぎゅっと握りしめられた長谷部の両手を、驚かさないように極力そっと両手で包んだ。
「大丈夫。ちゃんといるから」
長谷部の手を取りながら、目を見てはっきり伝える。
手袋を付けていない彼の手は、指先にささくれやタコができていて、思ったより男性らしいごつごつしていた。
長谷部は最初私に触れられたことに驚いた様子だったが、少し安心できたのか表情を緩めて、「はい」と控えめに握り返してきた。
「顔を洗って、朝ごはんができるまで少しゆっくりしておいで」
私が笑いかけると、長谷部は少し口ごもる。まだ何か言いたいことがあるらしい。
少しためらいがちに、咳払いをしてから、長谷部が口を開いた。
「もしも主のご都合がよろしいようであれば、俺と共に朝の庭を散策いたしませんか? 桜がそろそろ散り始めています。恐らく今日明日が見納めでしょう」
「そう……。じゃあ行きましょうか。先に行っているから、長谷部も来てね」
「畏まりました。すぐに参ります」
恭しく一礼をしてから、長谷部は身を翻していった。
頭の下げ方は完璧な近侍のままなのに、相変わらず寝癖の直っていないところはご愛嬌だ。
その背中に急がなくていいからと付け加えたが、果たして彼の耳に届いているのかどうか。
日が昇り、厨から味噌汁のいい香りが漂い、少しずつ話し声や足音が本丸に増え始める。
あの様子では身支度に大分時間がかかるだろうと、殊更ゆっくりと歩を進める。
縁側でつっかけを履き、庭へと降りる。
大ぶりな桜の枝が近付く頃、長谷部が既に私を待ち構えていた。
「お待ちしておりました」
「もう来てたの?」
長谷部の俊足を思えば、先回りされていてもやむなしだが、あの頑固な寝癖をどうやってなだめたのだろう。
寝癖どころか、目元の赤みや衣服の乱れも整っており、自身の本体である刀まで携えている。
しかし私の問いに長谷部は答えず、にこりと笑って「行きましょう」とくるりと身を翻した。
桜の花弁が静かに舞い散る中を、長谷部に誘導されるまま歩む。
丈の長いカソックとストラをさらさら捌いて歩む後ろ姿に、見ほれそうになる。が、そんなことをしていたら、長谷部とはぐれそうになりそうだった。
長谷部の足の速さだけでなく、大量に散っていく花弁のあまりの多さに視界が遮られる。
まるで夢の続きのようだった。
いつか私は長谷部を見失って、この場所に一人で取り残されるのではないか。
そんな錯覚と不安さえ覚える。
と──。
花吹雪の中から白手袋がこちらに差し伸べられた。
「気付かず申し訳ありません。どうぞ御手を」
白手袋の先に視線をやると、青紫色の瞳がやわらかく笑んでいた。
長谷部の手を取り、本丸の庭を散策する。
先程よりいささか歩調を緩めた長谷部が、桜の木を通り過ぎるたび、長谷部が桜の種類を暗唱していく。
あちらに見えるはソメイヨシノ。本日ちょうど満開を迎えました。そちらで散ってしまったのはヤマザクラ。先日歌仙が裏の山から拝借したものを挿し木したそうで……。
こんな調子で桜をめぐる散策は続いた。
少し桜並木が途絶えてから、長谷部が私を振り返り申し訳なさそうな顔をした。
「先程は申し訳ありません。主と二人の時間を過ごせると思うと、つい浮かれてしまいました」
「長谷部はお上手ね」
「世辞などではありませんよ」
小気味よさそうに笑う長谷部に、戸惑う。
普段の長谷部はもっと朴訥として、口数が多くない刀という印象だった。前の主のこととなると、立て板に水の如く話続けていたが──。なのに今日は桜について道々語り、お世辞まで言ってのける。
まるで別刃のようだ。
そんな私の心を感じ取って、鋭利な印象を受ける長谷部の瞳が私を追いかける。
「言ったでしょう? 浮かれてしまっているだけですよ」
その笑顔になんと答えていいかわからず、うつむく。
私のぎこちなさを意に介した風もなく、「あちらで休憩しましょうか」と長谷部がまた歩き出す。
長谷部の示す先には、木でできた簡素な休憩所があった。
大きなテーブルと椅子の上部を、木枠がぐるりと囲んでいる。
その木枠に何か植物のツタがからんで自生している。
「これは?」
「藤棚ですよ。桜が散ったら、藤の花が見頃になります。この木枠にツタを絡ませて、紫色の花を咲かせるんです」
そこまで言って、長谷部はそっと目を細めた。
幾分声を潜めて、誰にともなく言う。
「藤は、かつて以前の主の窮地を救った花です」
「そう」
以前の主。彼が脳裏に浮かべているのは、きっと黒田如水のことだ。
彼が味方の裏切りに遭い、短くない期間を不衛生で狭い座敷牢に幽閉された。如水が生きるか死ぬかの瀬戸際にあったとき、藤の花が咲いて彼を慰めたという逸話を聞いたことがある。
「長谷部は見たことがあるの? 藤の花」
「はい……。かつての主の地で、幾度か。とても見事な花でした」
長谷部が目を閉じる。
きっと過去に見た藤の花を思い浮かべているのだろう。
もし。
もしも長谷部が戦場、本丸、万屋しか知らずに、この戦争が終わったら、どうなるのだろう。
私の脳裏にふとそんな考えがよぎる。
きっと長谷部の中では、現世のことは画面越しか伝聞越しにしか知らないまま帰っていく。
私の故郷を、あのちぐはぐな世界と認識したまま、長谷部はかえってしまう。
そしてそれは“私”も同じで、長谷部は自分の主であり審神者だった“私”しか覚えていてくれないのだ。
それはいやだ。
そんなの嫌だ。
「主……?」
気が付くと、長谷部の裾を指先で引っ張っていた。
「どうされましたか?」
回想から突然現実に引き戻された長谷部が、不思議そうにじっと見返してくる。
長谷部の目が見ているというだけで、恥ずかしさと戸惑いで胸がいっぱいになる。
思わず裾から手を放して、ごめんね、なんでもないと口からついて出そうになった。
それでも。
今は勇気を出して一歩踏み出さなければ。
「長谷部」
「はい」
ああ、私の声がみっともなく震えている。
なのに長谷部の声は落ち着き払っていて、私だけ顔まで赤くなってみっともない。
でも、それでも言いたいことがある。
「いつか。ううん、今度、ね」
「はい?」
「一緒に行かない? 私の故郷に」
私の言葉に長谷部が目を見開く。
それも一瞬ですぐに嬉しそうに破顔した。
「……はいっ」
桜が舞う。
桜の枝から、そして長谷部の周囲から。
いずれこの花々が散ってしまった頃、長谷部の愛する藤の花が見ごろになるのだろう。
その時期も済んで、うだるような暑さが続く時、長谷部と連れ立って行こう。
私の故郷に。
今よりも一つでも多く、長谷部の中に私の思い出を残すために。
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