わたしをころしてみたくはないか

※へし切長谷部に裏切られる描写があります。苦手な方はご注意ください。

本能寺に出陣してから、夢を見るようになった。
燃え尽きてゆく寺の中、かつて主だった男がこちらに背を向けて立っているのを、ただ眺めるだけの夢だ。
あの男の狼藉のせいで、俺は珍奇な名前を付けられ、直臣でもない男に下げ渡された。数百年経った今なお、織田から黒田の手に渡った瞬間に感じた絶望が、刃にこびりついて離れない。
そんな男の背に向かって、俺は無意識に手を伸ばす。伸ばして何になる。まさか俺に武具として最大級の屈辱と絶望を与えたあの男を、今更助けたいと願っているのか。
だが、今の主に仕える俺には、織田信長を主と呼ぶことも助けることもできない。主命に反することだからだ。
重苦しい焦燥感を抱え込んだ俺は、ひとり男の死にざまを見守る。
せめて何か声を上げてくれれば、彼が何を思い死にゆくのかわかるかもしれないのに、声一つ上げない。それがひどく憎らしく、同時に俺の心を切り裂いた。
あの男の手が俺を選ばなかったこと、そして俺を手放して一切未練がないことを、まざまざと見せつけられているようで。

ある瞬間から夢は豹変する。長谷部さん、長谷部さんと自分を呼ぶ声が聞こえてくるのだ。
あの男は俺を長谷部などと呼びはしなかった。耳をつんざく泣きそうな声は、今の主の声だ。
男の背中からひと時も目を離していなかったはずなのに、信長のいた場所に、今の主がいて、炎に焼かれている。
呼びかけに応えることもできず、俺はただ茫然と今の主を見つめるだけだ。
ようやく我に返ったころに、寺はついに焼け落ちる。俺に助けを求め続けていた主を飲み込んで。

そこでようやく目を覚ますのだ。




今朝もまた、脂汗だらけで最悪の目覚めだった。見慣れた天井を凝視して、荒い息を整える。障子越しに感じる外の様子から、夜が明ける前に起きてしまったらしいことがわかる。鳥のさえずりが大分遠い。
一風呂浴びてこようかと考えたが、手拭いで汗を拭っておくにとどめる。風呂自体は嫌いではない。刀だった頃と違い、自身の手入れを自分でできるというのは手間が増える半面、思いの外快適だと知ったからだ。
けれど今は熱から遠ざかりたい気分だった。
一通り汗を拭いてから、布団を片付け寝間着から正装に着替え、枕元に置いておいた刀を持つ。姿見に自身を映して、おかしなところがないか確認してから、部屋を出た。

普段賑やかな本丸がしんと静まり返り、神聖な雰囲気さえ感じる夜明け前の時間は嫌いではない。
長い廊下を通り、洗面所に向かう。途中で通りかかった短刀たちの部屋の障子が開きっぱなしになっていた。
中では気持ちよさそうに、短刀たちが団子になって寝息を立てている。その中に、以前同じ主に仕えていた薬研藤四郎も混ざっているのに気付いて、眉をひそめた。
俺は毎夜あの男の悪夢を見ているというのに、薬研藤四郎の寝顔は穏やかなものだった。薬研藤四郎自身が出陣していなくとも、主力部隊が本能寺に出陣していることくらいは聞いているだろうに、何も思わないのか。

苦々しい気分で、静かに障子を閉めた。これ以上薬研藤四郎の寝顔を見ていたら、自身の衝動を抑えきれそうになかった。
自分を律したいのに、本能寺出陣以降どうも感情が不安定になっている。
人というのは不自由なものだ。肉体を持つ以前は、ただ刀としてそこにあり続けるだけでよかった。
しかし、今は得体のしれない物を胸中に抱え、動けなくなりそうだ。

刀は口を持たないから、感情を主に伝えることができないが、人になった今はそれができる。できるが、主と主従関係を結んだ俺は、人の身を持ってなお、感情のままになることができなくなった。口があってもなくても窮屈なままなら、いっそ肉体などという俺には過ぎたものを、持たなければよかったのか。
洗面所で顔に冷や水を浴びせても、気分は晴れなかった。

濡れた顔を拭い、手袋を嵌める。
これからどうしたものかと思案しながら庭に面した廊下を歩いていると、人の気配を感じた。庭に誰かいる。
月明かりにほんのり照らされた庭に目を凝らすと、池の赤い橋に白い人影が見えた。気配でそこにいるのが誰か、すぐにわかった。審神者たる今の主だ。

足音を立てないように慎重に歩を進め、主に近寄る。橋に足をかけたところで俺に気付いたらしく、主は振り向いた。
「長谷部さん、おはようございます。昨夜はよく眠れましたか?」
「おはようございます。ええ、お陰様で。何かございましたか?」

一礼し、主の様子を見やる。白の巫女装束を着て、穏やかな笑みを浮かべた主は、いつも通りだ。
それに反して、今の俺は普段通りに笑えているだろうか。
「ああ、昨晩から大倶利伽羅さんに付き添っていたんですが、さっきようやく落ち着いたので、ちょっと外の空気を吸いに来たんです。今夜はずいぶん綺麗な満月でしたから」

ほら、と言って空の月ではなく、水面に映る月影を指さした。
昨日戦国の越前に出陣した第一部隊は、結果として勝利をおさめたが、まだ練度の低かった大倶利伽羅が重傷を負い、本丸に帰城した。
大倶利伽羅が手入れ部屋に入ったのは、子の刻だったはずだから、主はそれから今までずっと看病のために起きていたことになる。
「昨晩からですか? 主、我々を気遣っていただけるのは大変有難く思いますが、そこまでされる必要はありませんよ」
「そうですね。私自身があなたがたを手入れできるわけではありませんし、看病も無駄と言えば無駄なのですが、やっぱり辛そうにしている人を何もできないからと放っておくのは、さすがに気が引けて……」

主は眠そうに目をこする。もうすぐ起床時間だというのに、今の今まで寝ずの番をしていたというのだから驚きだ。
「今のうちに少しでも床に入ってはいかがです? 朝餉は部屋までお持ちいたしますよ」
「大丈夫ですよ。これくらいの無理は平気です」

欄干に手をかけて身を乗り出すように池を覗く主の背中は、ふらふらと危うげだ。少し背中を押せば、池に落ちてしまいそうなほどに。
西から吹いてくる風に、巫女装束が揺れる。
今この本丸で起きているのは、恐らく俺と目の前の主の二人だけだろう。今これから起こることは、俺が口をつぐみさえすれば、きっと誰にも知られないままだ。
そこまで考えて、やっと我に返った。

俺は今、何をしようとした?

主の無防備な背中に届かんとする位置まで、手をやっている自分に気付いて、慌てて引っ込める。
「長谷部さんも随分早いんですね。今日はどうしたんですか?」
「ああ、いえ、月明かりがまぶしかったようで、少し早く覚めてしまっただけです」

背中を俺に向けたまま、主が唐突に口を開いた。慌てて答えた俺の言葉は、あながち嘘ではない。何せ、夢の中で焼き討ちされた本能寺は、網膜を焼くほどに眩しかったのだから。
唐突に主はくるりとこちらを振り向き、黒めがちな瞳を俺にじっとそそぐ。あまりに真っ直ぐな視線に、思わずたじろいだ。
「目の下にくまが……」
「くま?」
「寝不足の時や疲れている時に、目の下に出るものですよ。顔を洗ったときに気付かなかったんですか? 長谷部さんこそ、相当眠れていないようですね」

思わず自分の顔に手をやる。鏡で自分の顔を確認したはずなのに、全く気付かなかった。疲れた表情をしているとは思ったが。
「やっぱり本能寺への出陣は、他の方にお願いした方がよかったでしょうか」
何故だ。
「いえ、出陣すると決めたのは俺ですし、後悔はしていません」
こうして話している間にも、
「本当ですか?」
今目の前にいる主を、
「もちろん」
亡き者にしようと想像している自分がいる。
神経を集中させなければ、思わず鯉口を切ってしまいそうだ。

今の俺は、普段通りの何事もそつなくこなす近侍・へし切長谷部として振る舞えているだろうか。
内心穏やかではない俺を、主はじいっと注視している。言葉を交わすことなく、ただ見つめあっている内に、空が白み始めていた。
朝日が主の白い頬を照らした時、ようやく主は俺から視線を外した。
「夜が明けましたね」
「そのようで」
「では私は自室に戻ります。長谷部さんも、少し休んだ方がいいですよ」

主は少し覚束ない歩き方で俺に背を向けて橋を降りていく。その背を支えようと手を伸ばしたが、「結構です」と思いの外強い口調で拒否されたため、俺の手は空を切った。
振り払われた右手の白手袋を凝視する内に、遠くなってしまったその背に向かって、黙礼をして答える。
「……主命とあらば」

主に言われた通り自室に戻ったが、障子越しの朝日が眩しく、とてももう一度眠れる状態ではなかったので、壁に背を預けて座る。
『結構です』
先ほどの主の声が、頭の中で繰り返し再生される。強張った表情で、まるで俺を睨むような顔をしていた主。あんな風に冷たい態度も取るのだなと意外だった。主は誰に対しても分け隔てなく接する、穏やかな人柄をしていると思い込んでいたからだ。
元々の主が横暴な人柄だったため、多少粗雑に扱われることには慣れていたが、主の拒絶に思いの外衝撃を受けている己がいることに気付いて、少なからず動揺した。
物理的な損傷を受けたわけではない。なのに、主の強いまなざしを繰り返し思い出しては、内心苦しくなるのは何故なのだろうか。
そこまで考えて、はたと気付いた。これが人で言う『悲しい』という感情なのだと。

今の主の手によって俺がこの世に顕現してから、三月が経過した。主は最初こそ頼りなく見えたが、近頃では戦の指揮を執るのにも慣れてきたようで、我々に指示を出す様子も堂に入っている。
そして今まで近侍としておそばで仕えているため、主の為人も少しは把握しているつもりだ。
主はお優しい。我々刀剣が出陣する時も帰城する時も、必ず顔を出してくださるし、誰かが少しでも負傷すれば血相を変えて手入れ部屋へ急行する。
反面、憶病な面もある。負傷とも言い難いかすり傷や、刀装を敵に破壊されただけで顔色を変えるのには辟易している者もいる。とにかく周囲の者に気を回し過ぎるのだ。
近侍の俺に対しても例外ではなく、何くれと世話を焼こうとしたり、暇を与えようとしたりする。大事にされているのだろう。だが、大事にされすぎることを、俺はあまり好まない。
主は基本的に家臣である我々相手でも敬語は崩さない。謙虚と言えなくもないが、俺たちは人の姿を取っていても、所詮は主のために仕える武具なのだから、そこまでへりくだる必要はないのだが。
気を使われなくとも、主に命じられれば必ず戦果を上げるつもりだ。
いつ、どんな状況であろうとも。

主の優しさが悪い面で出たのが、先日の本能寺への出陣だった。
本能寺は織田信長が家臣の明智光秀の謀反にあい、自刃した場所だ。
主は早く先へと進みたい反面、どういった布陣で攻め入るべきかで大分頭を悩ませていたらしい。何故なら信長と縁のある俺を、本能寺に出陣させたくなかったからだ。
いくら主が嫌がったところで、長く第一部隊長を務める俺を抜いての出陣は、不可能だった。もしも俺を部隊から外すのであれば、相応の実力者でなければ代理はつとまらないだろう。本丸では、第一部隊に配属できるほど練度の高い者はいなかった。
となると、一旦本能寺への出陣を諦め、既に踏破済みの合戦場で練度を高めるしかない。

しかし、結局俺は本能寺に出陣した。
同じ第一部隊所属の者に急かされたからだ。「せっかく今の隊で攻略できるのに、わざわざ二の足を踏むのは時間の無駄だ」と。
主としても、俺に気を使いこそすれ、先に進みたい気持ちの方が強かったのだろう。ならば部隊長を別の者に変えて、出陣しようという流れになった。

そして出陣前夜、出立の準備をしていた俺の自室に、主が赴いた。
「長谷部さん、今よろしいですか?」
「かしこまりました、少々お待ちください。今お開け致します」

障子を開けると、普段通りの巫女装束姿の主が、張り詰めた表情で立っていた。失礼します、と言って主は部屋に入る。固い表情で主は俺の正面に座る。俺も主に倣い、正座する。「いかがいたしましたか?」と声をかけても、表情を崩さず返答がない。茶でも淹れて来ようかと身じろぎしたとき、やっと主は口を開いた。
「本当に、明日は出陣するつもりですか?」
「主の命ですから」
「そうではなく、私は長谷部さん自身が出陣しても大丈夫なのかと聞いているんです」
「俺が、ですか?」
「今更言うまでもないですが、本能寺はあなたの以前の主が亡くなった場所です。そんなところにあなたが出陣したら、望んでしまうのではないですか?」

歴史改変を、と主は真剣な眼差しで俺を見つめる。
「こんなことを審神者の私が言うのは間違っているかもしれませんが、私は歴史を変えたいと思う気持ちは、罪ではないと思います。自分と関わりのある人物が悲惨な最期を遂げるとわかっているなら、何とか助けたいと思うのは当然です」
「ですが我々は」
「ええ、そうです。歴史改変を阻止するために、私はここにいます。もちろん、あなたもですよ。長谷部さん」
「承知しております」
「あなたは、本当に信長公をただ憎いと思っているだけなのですか?」
「……それは」

改めて、前の主のことを思い浮かべる。憎いのかと問われても、好きかと問われても、素直に首肯できない。どこかで心がつかえているような、妙なひっかかりを覚えるのだ。その旨を伝えると、主はふうと息を吐いた。
「長谷部さん、即答できないということは、あなた自身の心がまだ安定していないのではないですか?」
「そうかもしれません。ですが、戦場に出れば、ただ武器として死力を尽くすのみです。どうか、俺を出陣させていただけませんか」
「……明日出陣して、その心の澱は晴れそうですか?」
「それは……、お答えできかねます。ですが、必ずや戦果を挙げて見せます。どうか俺を出陣させてください」
「わかりました。長谷部さん、ひとつだけ、約束してください。どんなことになっても、必ず私の元に帰ってきてくださいね」
「主命とあらば」


最後まで主の顔が晴れなかったのが気がかりだったが、俺は、本能寺に出陣した。普段は副隊長役を担う和泉守兼定が、俺に代わり部隊長を務めていた。
行軍は順調だった。夜明け前の本能寺付近で、歴史修正主義者を斬り伏せていく。全て順調に進んでいるはずだった。
やがて空が白み始める頃に、明智軍が大挙して押し寄せ、多勢に無勢の織田軍がじりじりと追い詰められていく。静謐な夜明けの空の下、本能寺が火の手を上げ始めた頃、俺は何かを、いや前の主の声を聴いた気がした。
俺の名が、呼ばれた気がしたのだ。

──へし切。

俺があの方の声を聞き間違えるはずがない。
煙が充満し始めた本能寺の中に、単騎突入する。俺を止める声が背中を叩いたが、黙殺して寺院の内部を進んだ。入り口付近はまだきな臭い程度だったが、奥へと進むごとに熱気がじりじりと瞼を焦がす。
人の身にも炎は毒だが、元来刀である俺にとって、普通の人間よりも炎に弱い。刀は炎に焼かれれば溶け、武具としての本分を全うできなくなる。我々刀の付喪神にとって、戦の中で折れるよりも、炎に焼かれる方が辛いと聞く。
どんなに辛い死を遂げようとも、俺はあの方のそばに行かなければならなかった。もう二度と、後悔はしたくない。戦で折れるよりも、炎で溶けるよりも、俺がこの場にいれば主を助けられたかもしれないという後悔に、何百年も身を焼かれ続ける痛みの方が、よほどむごたらしいものだと、俺は知っている。

走る、走る。走り続けて、ようやっと主の元へ到着する。そこは既に炎に囲まれていて、物凄い熱気が俺を包み込んだ。
湯帷子を着た主の周囲に、歴史修正主義者が何匹も群がっていた。思わず抜刀するが、奴らの様子を見るに危害を加えようとしているわけではないようだ。主の自刃を止めようとしているのだ。
立場は違えど、思いは俺と同じか。
そう思った時、炎の中で一振りの短刀が振り返り、ぎょろりと俺を見据えた。
すると周囲にいた打刀や大太刀も俺の方に顔を向け、口々に異形の声で話しかけてくる。
『お前も来たのか』
『遅かったじゃないか』
『さあ、今こそ主をお助けしよう』
『人の身を得た俺にとって』
『明智の軍など』

「敵ではないな」
そう呟き、俺はすらりと刀身を引き抜き、そのまま鞘を手離す。もう俺に、刀を収める鞘など不要だ。これから俺は、主のために仇なす敵を斬り伏せるだけの存在になるのだから。
本能寺の周囲で明智光秀率いる軍勢が、この方が煙に巻かれて逃げてくるのを今か今かと待ち構えている。その数は数千、むしろ万はいるかもしれない。
だが、俺が持ち前の機動と打撃でもって敵陣に切り込めば、主を逃がす隙は作れる。そして、天下を差し上げることも。
背を向けたままの主に向かって、俺は手を差し伸べた。
「さあ我が主、共に参りましょう」

今度こそ、今度こそ俺は最後までこの方にお仕えすることができる。胸中を満たす甘美な陶酔に浸っていると、耳元を声が掠めた。
『どんなことになっても、必ず私の元に帰ってきてくださいね』

炎に揺らめく背中が、俺に振り向こうとしていた時、銀の光が殿を裂いた。
「何やってんだ!」
和泉守兼定が主を斬り殺したのだと気付くのに、そう時間はかからなかった。激情のままに和泉守の胸ぐらにつかみかかった。
「貴様っ、よくも主を!」
「お前にゃ、あの大太刀が人に見えるのか?」

冷え冷えとした目が、俺を見下ろす。言われて主の方を振り返る。
そこにいたのは、主と似ても似つかぬ、巨大な体躯の大太刀だった。和泉守の一撃で中傷まで追い込まれているが、まだ血濡れた目に殺意を込めてこちらを睨みつけている。
「何故、俺は確かに主を」
「わかった。お前は好きなだけそこで呆けてろ。いいか、今から一気に敵陣を叩くぞ! 魚鱗陣、構え!」
乱暴に俺の手を振りほどき、和泉守が部隊に檄を飛ばすと、隊員たちは応と声を上げる。歴史修正主義者と男士たちの刃が、炎の中できらめき、ぶつかりあい、戦いが終結するのに、そう時間はかからなかった。
和泉守兼定の鋭い一太刀を浴びて倒れ伏す大太刀が、命の尽きる最期の時まで俺に手を伸ばし何事かを伝えようとしている様を、呆然と見下ろすほかなかった。

結果から言えば、俺は敵の陽動に引っかかったのだ。
俺が誘導されて発見したのは、あくまで時間稼ぎのために配置された囮部隊。織田信長が自刃していたのは、もっと奥の寝屋だったのだ。
陽動部隊に時間を取られ、敵本陣の信長自刃阻止隊を一時撤退させることはできたが、撃滅するに至らなかった。今回は歴史改変を阻止できたが、また奴らがこの場所にやってくることは明白だろう。
また、ここに出陣しなければならない。また──。

本能寺の歴史修正主義者を退けることは成功したが、俺の失態を重く見た和泉守兼定が、事の一部始終を本丸で待っていた主に報告した。
歴史の改ざんを阻止するために、肉体をもってこの世に顕現させられた俺が、敵側に寝返りかけたのだ。刀解も覚悟したが、主が俺を刀解しないこと、一旦落ち着くまで謹慎処分にすると静かに告げた時は耳を疑った。
許すのか、一度はあなたを裏切った臣を、許すのですか、と動揺を隠し切れずに尋ねると、
「あなたを監視し、反省の意があるか、私にきちんと仕えてくれるのか否か、時間をかけて見定めたいんです」

当然同じ部隊で出陣していた者たちは、反対の意を示した。しかし主は頑として聞き入れず、静かに頭を下げた。
「長谷部さんを野放しにしておくことが、危険なことだとわかっています。でも、たった一度きりの過ちで刀解するなんて、いくらなんでもあんまりです。どうか私と長谷部さんに時間をください。護衛として、必ず誰かについていてもらうようにしますから」

そうして主の頑なさに、他の者たちが折れた。一向に頭を上げようとしない主に、第一部隊の者達が主の護衛として高い練度の者が必ずそばに控えることを条件に、俺の刀解は見送ることを伝えるとやっと主は頭を上げて、ありがとうございますと顔をくしゃっと歪めた。
すぐに崩れた表情を凛としたものに戻し、主は俺に向き直る。
「いいですか。一度の過ちは赦します。ですが二度目は許しません。あなたを赦してくれた彼らを、裏切らないように。あなたが帰るべきは、織田信長の元ではなく、私の元です。いいですね?」
主がそう告げると、和泉守兼定が乱暴な手つきで、俺の手に細長い物を持たせる。金拵えの実戦で使う刀には過ぎた、華美な鞘。握りなれた俺の鞘だった。

俺は当分の間、近侍の任から外され、遠征、出陣、内番、そして普段から任されていた雑務も禁止となった。
仕事から離され、手持ち無沙汰になった俺は、時折人気の少ない場所で木刀で素振りしたり、自身の刀の手入れをしたり、物思いにふけったりして過ごした。
他の者と出くわすたび、もの言いたげな視線が俺に突き刺さって、煩わしかったから、なるべく人目を避けるようにしていた。
最も意図的に避けていたのは、主だった。主を裏切ろうとしたうしろめたさと、何より俺の胸中をうごめく殺意が、いつ本当に主を手に掛けるかと、気が気ではない。

先ほど主に声をかけたのは、少しだけ気分が落ち着いたから、今なら近付いても大丈夫かもしれないという、淡い期待があったからだ。
しかし、あの無防備な背中が目に入った瞬間、俺の手は主を殺めようとした。
何故俺が今の主を殺そうとする必要がある。もしも本当に前の主と俺の歴史を改ざんするなら、そもそも今の主を殺さなくとも済むはずだ。どうしたら、俺は主に二度と裏切らないことを契れるだろうか。

悶々と考え込んでいる内に日が昇り、本丸は騒がしくなる。
そしてその日の夜、俺は主の執務室へ呼び出された。


「主、へし切長谷部、参りました」
「どうぞ、お入りください」

部屋の前で声をかけると、障子越しに落ち着いた主の声が返ってきた。一言断ってから、障子をあけて入室する。
部屋には主ひとり。主の正面の座布団に座るよう指示され、腰を落ち着けた。

「今日長谷部さんを呼び出したのは……、言うまでもなさそうですね」
「……俺の今後の身の振りようについてでしょうか」
「その通りです。あの日から十日経ちましたし、そろそろ決着をつけようと思います。それにしても、今日のあなたはずっと怖い顔をしていますね。そんなに私が憎いですか?」
主が悲しそうな顔で、首をかしげる。
「憎い? 何故俺が主を憎む必要があるのですか」
「あなたは本能寺に出陣した日から変わりました。前の主を助けるのに、私が邪魔ですか? いえむしろ、長谷部さんにとっての主は、今も昔も私ではなく、織田信長公のままなんでしょうね」

違う。俺の主は、あなたひとりです。そう言おうとしても、喉は動かず主を凝視するのみだ。今の俺は、主にどう見えているのだろうか。
打刀のへし切長谷部か、それとも……。
「長谷部さんはまだ、信長公を救いたいと思っていますか?」
「俺は……」

わかりません、と答えると、主は静かに頷いて、これは私の想像ですがと前置きしてから、語り始めた。
「織田信長を助けることで歴史は大きく変わるでしょう。もし歴史がそう上塗りされれば、私もここに存在できなくなります」
「な、何故主が消えるのですか。織田や明智と縁がある御家柄なのですか?」

狼狽し問いかければ、主は静かに首を横に振る。
「まさか。そうではなく、信長公を本能寺の変で生かすことができれば、それだけ大きくこの国の、もしかすると世界中の歴史が変わる可能性があるんです。万が一信長公が生きることになってしまったら、私もまたその影響を受けて、私が生まれなかった歴史になるかもしれません。それだけ偉大な武将なんですよ、あなたの前の主は」

俺が返答できずにいると、さらに主は目を細めて言葉を紡ぐ。
「私とあなた方がこうしてひとつの本丸で出会えたことは、奇蹟と言っても過言ではありません。歴史が変われば、出会うことは二度とない。もしかすると、いるはずの仲間が、いつの間にか存在しないことになるかもしれません。……みんな、あなたのことを心配していますよ。そんな仲間や私を見捨ててまで、過去を変えたいですか?」

主は背筋を伸ばし、細めていた目を俺に向けた。その問いに答えることができず、しばし部屋の中を沈黙が下りた。俺は本能寺に出陣したあの日から考えていたある事柄をお伝えすべく、噛みしめていた唇を開いた。
「実は、主にお伝えしていなかったことがあります」
「何ですか?」
「本能寺の陽動部隊の大太刀が、俺に何某かを話しかけてきたのです」
「話しかける? 歴史修正主義者が、言葉を話せたのですか」
「いいえ。聞こえたのはおそらく俺だけです。他の出撃した者たちが気付いた様子はありませんので」
「つまり、長谷部さんだけに話しかけていたということですね。何と言っていたか、覚えていますか」
「意味のなさない言葉が多かったですが、唯一聞き取れたのは『今の俺なら、きっと殿を救える。頼む』と」
「『俺』なら」
「ええ。俺なら、と」

眉をひそめた主が、俺の言葉を繰り返す。きっと聡明な主なら、気付いてくださるだろう。
「そういえば、長谷部さんは元々大太刀だったそうですね」
「はい。今の姿になったのは、下げ渡されて大分経ってからです」
「ああ、まさか、そんな……」

驚愕と絶望にまみれた声を上げて、主が俺を凝視する。
きっと主の導き出した答えは、俺の仮説と同じだろう。
あの燃え盛る本能寺の中、床に倒れ伏し折れるのを待つだけの大太刀は、必死に手を伸ばして俺に、あの方を頼む、頼む……と繰り返していた。
あの陽動部隊にいた大太刀は、かつて織田にいた頃の俺が、前の主との別離を拒否した結果、歴史修正主義者に寝返った姿なのだろう。
だからこそ、現在の俺を見つけた過去の俺は、歓喜して俺を呼び寄せたのだ。
今度こそ、殿と添い遂げることができると。

主の話す『想像』は、やはり俺の仮説と概ね一致した。
部屋に重苦しい沈黙が流れる。
そんな折、急に部屋の中にけたたましい警告音が鳴り響いた。
思わず身構える我々をよそに、真っ白な狐が部屋に飛び込んできた。
「審神者様、先日失敗した本能寺の歴史修正主義者の動きが活発になっています。今夜も織田信長自刃阻止隊が、本能寺に向かっているとの情報がございました。ただちに部隊を編成し、敵を撃滅してください!」
「なんてタイミング……」

主が息を呑む。まだあの日から十日しか経っていないため、第一部隊の補助隊員の練度が十分に上がり切ってはいない。つまり、あの日と同じ、俺を含めた編成でもう一度本能寺に出陣しなければならないのだ。
「さあ審神者様、ご決断を!」

狐が慌ただしく動きながら、主をせかす。主は手元の端末機器を操って部隊編成を組んでいるが、俺に代わる者がいないことを確認するや、表情を歪めた。
「主、俺を出陣させてください」
「長谷部さん、何をっ……」
「あの大太刀を仕留めさえすれば、俺の気の迷いは晴れます。ですから、どうか出陣の許可を」
「嫌です」
「主、どうか御慈悲を! 此度の出陣で、必ずやあの男の未練を断ち切って見せます」
「そんなことを言って、私の元からいなくなるつもりなんでしょう!」

涙に潤む瞳で、主が俺をきつくにらみつける。
「本能寺で長谷部さんが急にいなくなったと聞いた時、私がどれほど不安になったか、わかっています? 戻ってきたら戻ってきたで、私を見るたびに殺そうとしたり。今朝だってそうでしょう。あの橋の上で私を突き飛ばそうとしたのだって、水面越しに見たときには、悲しくて胸が張り裂けそうでした!」
「主」
「私がどうあがいても信長に勝てないことなんて、わかってます。でも、それでも私は……」

まだ何か言いかけていた主の手を取り、真っ直ぐに目を見据えた。
「俺の主は──あなただけです。この戦が終わったら、必ずあなたの元へ帰って参ります。ですから、どうか」
「その言葉、嘘ではありませんね」
「もちろんです。今度こそ、最良の結果を主に」
「……わかりました。では第一部隊は至急出陣の準備を。部隊長は、あなたですよ。長谷部さん」
「はっ」
「皆をよろしく頼みます。必ず戻ってきてください、絶対ですよ」
「主の思うがままに」

警告音を聞きつけて既に部屋の前に駆けつけていた第一部隊所属の面々に出陣の旨を伝え、大急ぎで戦装束をまとい、時の門をくぐる。向かう先は本能寺だ。

再び夜明け前の空の下、本能寺防衛戦が始まる。
あらかた敵を殺してから、唯一生き残っていた大太刀が、中傷の体を引きずって、俺の前に現れた。
『ああ、まタ来てくれたノカ……。今度こそ、殿ヲお助けシよう』

耳障りな音が俺に必死に語りかけてくる。変わり果ててしまったかつての俺が、剣を抜かずにゆらゆらと揺れている。
無防備な敵を前に、俺は遠慮なく抜刀した。
「敵が何であれ、斬るだけだ」
たとえそれが、道をたがえた俺自身であったとしても。


今度は敵の陽動に惑わされることなく、敵本陣を殲滅することができた。
また俺の前の主が、自刃する。その瞬間をしかと目に焼き付ける。
明智の軍が勝鬨を上げる中、本能寺の炎が夜明けの空を焦がし、都を焼いていく様を、俺たちは無言で見守った。
「無事本能寺の遡行軍を壊滅することができた。これより本丸へ帰城する」

そう告げると、彼らはどこかほっとした顔で頷き、本能寺に背を向ける。
今度こそ帰ろう。きっと今頃目に涙を溜めて、俺たちの帰りを今か今かと待ちわびている、主の元へ。

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